第56話 不吉な誘い【紅神獄サイド】
一方、残った雨杏は神獄に声をかけてきた。
「……神獄さま、お気分はいかがですか?」
「あまり……良くはありませんね。ごめんなさい、自力では起き上がることもできなくて……」
「いいんですよ。そのまま、楽にしていてください。すぐに体温と血圧を測りますね」
そう言って、豪華なつくりのベッドサイドラックから、手際よく体温計や血圧計を取り出し始める。神獄はそれをぼんやりと眺めながら、ふと、いま何時だろうと考えた。ぴっちりとカーテンが閉めきってあって外の様子が見えないので、時間が全く分からない。
客間には立派な柱時計が飾ってあるが、寝室からは見えないようになっている。神獄は雨杏に尋ねた。
「今、何時ですか?」
「十七時ですよ。西日が入ってくるのを防ぐためにカーテンを閉めたので……時間が分かりにくいかもしれませんね」
雨杏はそう言って微笑む。だが、神獄はすぐに気づいた。窓が閉まっているのは、西日を防ぐためなどではない、という事に。
目が醒めたばかりの時は、頭が朦朧としていて気づかなかったが、窓の向こうから人々の発するシュプレヒコールが、はっきりと聞こえてくる。
防音対策の施されたビルガラスでさえ突き抜けてしまうほどなのだ。集まっているのは、ちょっとやそっとの人数ではないだろう。おそらく街中から人々が集まってきている。
戦闘員はもちろん非戦闘員も、そしてゴーストもゴーストでない者も。もしカーテンを開けたらその麓には、目を血走らせ唾を飛ばしながら怒号を上げる人々の大波が見下ろせることだろう。
彼らの怒りと憎悪はびりびりと容赦なく大気を揺るがし、まるで大砲を打つかのような轟音となって街全体を揺らしている。もはや堅牢な高層ビルの中にいても、その振動と衝撃が筒抜けになるほどだ。
「紅神獄は偽物だーっ!!」
「偽物は死ーね!!」
「「死ーね!!」」
「「死ーね!!」」
「「死ーね!!」」
「紅神獄は偽物だーっ!!」
「偽物は死ーね!!」
「「死ーね!!」」
「「死ーね!!」」
「「死ーね!!」」
黄龍太楼の周辺を取り囲んでいる人々は、おそらく数千人に登るであろう。その数千人にも及ぶ人々が、みなぴたりと呼吸を合わせ、『死ね』と叫んでいる。その光景を想像するだけでぞっとした。しかも彼らが望んでいるのは、六華主人である紅神獄――自分の死なのだ。
「あれは……」
雨杏は、これ以上は隠し切れないと察したのだろう。悄然と肩を落とし神獄へ告げる。
「気になさらないでください……なんて、それこそただの気休めですよね。神獄さまが戻られてから、ずっとああなんです。あまりにも多くの人が集まりすぎていて、もはや黄龍部隊でさえコントロールすることができないのだとか」
「仕方ありません。全ては六華主人であるにもかかわらず、この街の混乱を収束させることができなかった、私の責任なのですから」
もし神獄に元気が残っていたなら、さっと立ち上がってカーテンを開け、眼下に広がっている光景を目にしてショックを受けたり、或いはひどく狼狽して取り乱していたかもしれない。
だが実際には、もはやそんな事をする体力も残っていなかった。ただ、静かに現実を受け入れる以外に、選択肢は残されていない。雨杏もそれを見て取ったのだろう。目元を指で押さえ、声を震わせた。
「神獄さま……。でも……こんなのって……こんなのって、ひどすぎます! 神獄さまがこの街のために尽力してこられたのは事実なのに、軽々しく『死ね』だなんて……! 神獄さまの命は、もう長くないかもしれないのに……!!」
「雨杏……」
医療従事者が看護対象の死を口にするなど、基本的にはあり得ないことだ。だからそれは、看護師としての言葉ではなく、雨杏の個人としての思いなのだろう。彼女はそれほど悲しみ、憤っているのだ。
けれど雨杏の言葉は却って神獄を勇気づけた。まだ、自分のことを案じてくれる人がいる。必要とし、支えてくれる人がいる。それだけで、弱った体の奥底から力が沸き上がってくるような気がする。
偽物のそしりを受けるのは仕方がない。何故なら、それは否定しようのない事実なのだから。今はこの難しい状況を打破する方法を考えなければ。
神獄が徐々に気力を取り戻し始めた時、ちょうどそこへ黄鋼炎がやって来る。
「神獄さま、目覚められましたか!」
「鋼炎さん……。雨杏、起き上がりたいので手を貸してください」
「神獄さま、でも……!」
「手を煩わせてしまって、ごめんなさい。けれど……どうか、お願いします」
そう頼み込まれ頭まで下げられては、雨杏も断ることができなかったらしい。迷いながらも手を差し出してくれる。彼女の助けを受け、神獄はどうにか上半身を起こした。
やはり体は鉛のように重く、ひどい倦怠感を訴えている。起き上がっただけで吐き気を覚えるほどだ。自分では分からないが、顔色もさぞ悪いことだろう。ただでさえ衰弱していたとはいえ、自らの意志で強行した会見が、想像以上に体に負担となっているようだ。
鋼炎も痛ましそうにそれを見つめていたが、すぐに黄家の当主としての顔に戻った。
「雨杏、神獄さまと二人だけで話をさせてくれ」
「……分かりました」
雨杏が部屋を退出するのを見届けると、鋼炎はすぐさま口を開く。
「神獄さま、お休みのところ申し訳ありません」
「いいえ、構いません。それより、現状の報告をお願いします」
「残念ながら……紅龍大酒店(紅龍グラウンドホテル)で行った会見は失敗したと言わざるを得ません。もはや我々に残されているのは、黒、緑、白家の三家連合との全面抗争の道のみです」
「……。そうですか……」
全面抗争となれば、今とは比べ物にならないほどの犠牲が出る。この街は狭い。誰にとっても、どこにも逃げ場など無いのだ。
それ故にひとたび衝突が始まれば、誰にもそれを止められなくなる。各家の戦闘員はもちろん、非戦闘員にも多くの死傷者が出てしまうだろう。それは《九尾狐》を設立し、みなを守ろうとした『紅神獄』――彼女の理念からも外れることだった。
だから神獄も、どんな手段を用いてもそれだけは避けたかった。危険を承知で会見を強行したのも最悪の事態を避けるためだ。けれどもはや、そんなことなど言っていられない状況となってしまった。
「それだけは、何としてでも避けたかったのですが……」
神獄が表情を黒らせると、鋼炎も頷く。
「ええ、私もそれには同感です。しかし、このまま緑家や白家……とりわけ黒家に実権を握らせるわけにはいきません」
「他に、何か方法はないのでしょうか?」
「……それに関して、一つご報告があります。実は先ほど、黒蛇水から極秘に接触がありました。いわく、『隠し子の身柄は我々黒家が拘束している。彼女の命が惜しければ、一人で紅龍芸術劇院まで来い。そこで全ての決着をつけよう』……とのことです」
「火澄……!!」
その名を耳にし、神獄は弾かれたように顔を上げた。やはり火澄は黒家に捕らわれていたのだ。
あの子は無事だろうか。何かひどい事をされてはいないだろうか。普段であれば、どれだけ我が子の身が心配であったとしても、紅神獄としての責務を優先させたことだろう。だが今は、心身ともに弱り切っていることもあり、動揺を隠しきれなかった。
神獄はベッドから飛び起きると、そのまま転がるようにして走り出す。けれど屈強な体格をした鋼炎によって、行く手を阻まれてしまった。
「お待ちください、どこへ行かれるおつもりですか!」
鋼炎の身長は二メートル近くあり、隆々とした筋肉がその全身を覆っている。彼の二の腕は神獄の腰回りとほぼ同じくらいの太さにまで達するほどだ。そんな鋼炎に体を張って止められては、ただでさえ衰弱している神獄は抵抗しようがない。それでも神獄は全力を振り絞ってそれに抗った。
「離してください! 火澄……火澄を助けに行かなければ!!」
「そのようなお体で、何を仰有るか!」
「私にはもう、何も残っていないのです! この街を守れず、みなの信頼を取り戻すこともできなかった……! もう誰も私を……『紅神獄』を必要となどしていない!!」
「神獄さま……!」
「けれど……それも当然のことかもしれません。私は所詮、紅神獄の紛い物……彼女の背中を追い続ける影に過ぎないのですから……‼ しかしそれでも、我が子だけは……せめて我が子だけは守らなければ! たとえ、この命に代えてでも……!!」
悲壮な声音でそう叫ぶ神獄を見下ろし、鋼炎はその瞳に一瞬だけ同情の色を見せた。親が子を思う気持ちは鋼炎にもよく分かる。鋼炎には子どもがいないが、甥である雷龍を我が子と思って育ててきたし、今でも何だかんだ言ってその身を案じている。だから、娘を助けに行きたいという神獄の気持ちが、痛いほどよく理解できるのだ。
だが黄家の当主として、また《レッド=ドラゴン》のため、神獄を紅龍芸術劇院へ行かせるわけにはいかない。鋼炎は私情を振り払い、神獄を一喝する。
「しっかりなさってください! あなたは『紅神獄』なのですぞ! それを今さら放棄なさるおつもりなのですか!? ここまで来て……そんな事が本当に許されるとでもお思いか!!」
「……!」
「どうか……誰も『紅神獄』を必要としていないなどと、そんな寂しいことを仰らないでください。ご自分のことを紛い物だなどと……そんな悲しいことを仰らないでください。あなたが何者であろうと、この街を守り支えてきたのは事実。この《東京中華街》を築いたのは紅神獄ではない、あなたなのです」
「鋼炎さん……」
神獄が少し落ち着きを取り戻したのを見て取ると、鋼炎は彼女の体から両手を離し、静かに告げた。
「神獄さまのご息女の身を案じられるそのお気持ちは、私も重々承知しております。ですから、この私が神獄さまの代わりに劇場へ行き、必ずやご息女を取り戻してきます」
それを聞いた神獄は、ぎょっとしてそれを拒む姿勢を見せた。
「そんな……いけません! これは黒蛇水の策略です! 奴の誘いに乗って劇場へ行けば、必ずや何か仕掛けてくるに違いありません!! それなのに……あなたにもしものことがあれば、黄家はどうなってしまうのです!?」
「御心配には及びません。不肖ながら我が甥もおります。雷龍は以前より、いずれ私に代わって黄家当主となる予定でした。その時がいくらか早まったというだけです」
「け、けれど……」
「ご安心ください。黒蛇水の計略などに負けはしません。きっと、ご息女をあなたの元に返して見せます。それからあなたは時期六華主人を選出する。当初の予定通りに、です。その頃には私も黄家の当主の座を退いているでしょう。そうして《東京中華街》と《レッド=ドラゴン》は新たな時代を迎えるのです」
それから鋼炎は、声音を柔らかくして続けた。黄家の当主としての事務的な声ではなく、黄鋼炎、ひと個人としての声だ。
「全てが終わったその後……私には一つだけ叶えたい夢があります。誰にも打ち明けたことの無い、密かな夢が」
突如、話の矛先が逸れ、戸惑ったのだろう。神獄は目を瞬いた。
「夢……ですか? それは……どのような……?」
「《中華街》中心部の喧騒の届かない静かな街のはずれ……そこに一軒の屋敷を建てるのです。決して大きくはない、けれど美しい庭園の備わった、心から落ち着くことのできる穏やかな空間……季節の花々が咲きほころび、小鳥たちが楽しげにさえずり、池には清らかな水が満ち……そしてその真ん中には、小さな……けれど品の良いあずま屋がある。
そのあずま屋の下に据えられた椅子とテーブルには、年中、柔らかな陽光が降り注ぎ、そこで寛ぐあなたを温かく包み込む」
「……私、ですか?」
「ええ。そして……もし許されるのなら、そのそばに私を置いてほしいのです」
その言葉に籠められた意味を悟り、神獄は、はっとして鋼炎を見つめる。
「鋼炎さん、それはつまり……!」
「お嫌ですか?」
「嫌だなんて、そんな! ただ……驚いたのです。そのような未来など、これまで考えもしませんでしたから。ただ、私にそのような贅沢な生き方を手に入れる資格があるのか……」
鋼炎は心細げなその両肩に手を添え、声を荒げた。
「資格など……そんなものが何だというのです? あなたは我々のために、自らを犠牲になさってきた! そのあなたが静かな余生を送るのに、誰の許しがいるというのです!! ……あなたが本当は何者であろうとも、私は構わない。私にとっての『紅神獄』はこの世でただ一人、あなただけです。あなたのことは、この私が最後まで守り通してみせる! 誰にも傷つけさせたりなどしません!!」
「鋼炎……さん……」
神獄は瞳を閉じ、自らも鋼炎の提案する未来を想像してみた。何者かの悪意に脅えたり、卑劣な策略に憤ることも無ければ、逆に誰かを傷つけ蹴落としたりすることもない。静かで穏やかな日々。六華主人となってからというものの、神獄には最も縁遠かった生活だ。そしてそれはおそらく、鋼炎にとっても同じだろう。
あらゆる策謀や権力闘争、そして組織を率いる上で担って来た重責、その全てから解放された自由で落ち着いた余生。もし信頼する鋼炎がそばにいてくれるなら、孤独や寂しさを覚えることもないだろう。今のこの状況を考えれば、まさに夢のようだ。
気づけば、神獄は小さく呟いていた。
「本当に、そのような時間を手に入れることができるとしたら……どれほど幸せでしょうか……」
すると、鋼炎はわずかに目を見開いたあと、温かく微笑んだ。思えば本物の『紅神獄』が死んでからというもの、鋼炎は厳格な表情をすることが増えた。彼がそのように嬉しそうな顔をするのを、神獄は十数年ぶりに見た。
「……ありがとうございます。その言葉を聞くことができただけでも、十分です」
鋼炎はもはや自力で立つ力も残っていない神獄を軽々と抱き上げると、再び客間の寝室に戻った。そして、ぐったりした神獄をベッドへ運ぶ。
「……ここで待っていてください。すぐ戻ります。どうか……ご自愛を」
そう言い残し、鋼炎は神獄から離れると、くるりと踵を返した。そして二度と振り返ることなく、足早に立ち去っていく。神獄は慌てて彼を引き留めようと、その背中に向かって手を伸ばした。
「待ってください、鋼炎さん! ……鋼炎さん!!」
彼を一人で行かせてはいけない。自分の個人的な事情に巻き込んではいけない。鋼炎の後を追わなければ――神獄はそう焦るものの、身体は全く言う事を聞かなかった。先ほど火澄の安否情報を聞かされて興奮したせいか、目覚めた時よりも更に疲労感が増している。その間も、鋼炎は客間を出て行ってしまう。
「鋼炎さん……!!」
神獄はがくりと項垂れた。自分に何の力も無いことが、己の体一つ思い通りにならないことが腹立たしく、歯痒くてたまらない。六華主人としての務めを満足に果たすことができないどころか、自らの身から出た錆で鋼炎に迷惑までかけてしまうだなんて。
そう自分を責める一方で、火澄の安否が気になるのも確かだった。何とかして火澄を助け出してやりたい。自分の判断が甘いと分かっていても、どうしても彼女を見殺しにすることはできない。鋼炎もそんな神獄の心情を慮ってくれているからこそ、危険を押して劇場へ向かってくれたのだろう。
そもそも鋼炎ほどの実力があれば滅多な事は起こるまいし、彼なら火澄を救い出すことも決して難しくはない。だからこの際、鋼炎の判断に全て委ねるのもありなのかもしれない。何より、神獄のために動いてくれる鋼炎の誠意と熱意を信じたかった。
けれどそう思う一方で、もう二度と彼とは会えないのではないかという不安も拭い去ることができないのだった。
ただでさえ黒蛇水は何をしでかすか分からない男だ。あの狡猾きわまりない老人がわざわざ神獄たちを呼び出したのは、何かよほどの切り札があるからに違いないのだ。鋼炎がそれを無事に突破し、戻ってきてくれればそれで良い。だが、もしそうならなかったから。そういった嫌な予感が脳裏に張り付いて離れない。
また、そういった恐れを考えたからこそ、鋼炎も自ら抱き続けてきた想いを神獄へ打ち明けたのだろう。これが最後になるかもしれないから、と。
(鋼炎さんは《レッド=ドラゴン》を支える柱。あの人にもしものことがあったら……全ては水泡に帰してしまう! 私たちの努力も、街の未来も、『神獄』が描いた理想も、全てが崩れ去ってしまう……!!)
そうさせないためにも、どうにかして鋼炎を追わなければ。
神獄は両腕に力を籠めるものの、上体を支えるので精一杯なのが現実だった。ただでさえ心身ともに疲弊し、擦り切れている。それなのに、こんな自分が鋼炎の後を追って何ができるというのか。
おまけに尽きかけているのは体力気力だけではないのだ。そもそも神獄は本物の『紅神獄』と違い、強力なアニムスを全く持っていなかった。それなのに、せっかく築き上げてきた六華主人としての威厳や栄光、信頼すらも全て失い、もはや手元に残っているものは何もないと言っていい。
どう足掻いても何もできはしない――その事は、自分が一番よく分かっている。
(それでも……たとえどんなに無力であっても、鋼炎さんを追わなければ。私は六華主人。《レッド=ドラゴン》の長である紅神獄なのだから……!!)




