第57話 火矛威との再会①【紅神獄サイド】
窓の向こうからは今もなお、強烈なシュプレヒコールが砲撃音のように浴びせられており、それが神獄の鼓膜を激しく打つ。それを耳にしていると、まざまざと思い知らされるのだ。
いつまでも己の無力に打ちひしがれているわけにはいかない。火澄のことを聞いた時にはさすがに取り乱してしまったが、本来の目的に立ち戻り、六華主人として為すべきことを果たさなければならない、と。
鋼炎の言う通りだ。一度、自分で選んだ道を、今さら放棄するわけにはいかない。今さら『紅神獄』であることから逃れることなどできないのだ。
一方、客間の外に出た鋼炎の元には、天若が足早に駆け寄って来た。そのすぐ後ろには、看護師である雨杏の姿もある。並々ならぬ強い決意を浮かべている鋼炎を不審に思ったのだろう、天若は窺うような視線を向けてくる。
「鋼炎さん」
「少しの間、屋敷を空けます。神獄さまのことを頼みます」
「え……ええ。鋼炎さんはどちらへ?」
「紅龍芸術劇院です。用を済ませ次第、すぐに戻ります。それから……雷龍が戻ったら伝えてください。もはや黒家と緑家・白家連合との全面抗争は避けられない、黄家のみなを取りまとめ、戦いに備えよ、と」
それを耳にした天若と雨杏に、さっと緊張が走った。
「ぜ……全面抗争……!」
真っ青になって、その言葉のものものしさに打ちのめされる雨杏に対し、天若は幾ぶんか落ち着いていた。さすが、普段から紅家を取り仕切っているだけのことはある。ある程度、こうなる事を覚悟していたのだろう。
「いよいよですね……。我々が必ず勝利するためにも、あなたの力は必要不可欠。どうか無理をなさらず、お気をつけて。必ず……必ず戻ってきてください」
鋼炎は力強く頷き、颯爽とした足取りでその場を後にした。天若としては、全面戦争を控えたこのタイミングで、鋼炎に劇場へなど向かって欲しくない。ただでさえ紅家と黄家は窮地に立たされているのだ。藍家の協力が得られるかどうかも定かでない中、念には念を押して取り掛からねば、黒家と緑家、白家の三家連合に勝てはしないだろう。
けれど鋼炎の性格を考えると、その歩みを止めることなどできないこともまた、よく分かっている。だから天若と雨杏は、並んで彼の背中を見送るしかない。
やがて鋼炎の姿が完全に見えなくなってから、雨杏は不安を露わにして天若へと尋ねた。
「天若さん、これからどうなるのでしょうか……?」
「それは分からないわ。ただ一つ確かなのは、一度坂道を転がり始めた球を止めることは、誰にもできないという事よ。特に……この《東京中華街》という街では、ね。……私たちも覚悟を決めなければ。戦わなければ……そして勝たなければ、負けて滅ぼされるだけよ」
「それは……そうかもしれませんが……」
雨杏は苦しげに視線を伏せた。彼女はゴーストではあるものの、そのアニムスは戦闘向きではない。いわゆる非戦闘員だ。だから全面抗争と聞いて、どうしても尻込みしてしまうのだろう。
また今以上に戦闘が激化すれば、死傷者もうなぎ登りに増えていく。看護師としてそのような事態に陥る事を憂慮しているのかもしれない。
けれど、天若は違う。紅神獄を支え《アラハバキ》との激しい抗争を生き抜いてきた天若は、戦う時には戦わねば滅ぼされるだけだという事を、身を以て経験している。
天若たちはゴーストなのだ。ゴーストにはアニムスがあり、特に戦闘員は尋常ならざる力を発揮する。ゴーストの世界では、中途半端な対応は却って事態を拗らせるだけだという事を、天若はよく知っているのだ。
そんなやり取りを交わす二人の元へ、紅家の家人がやって来た。共に神獄を支えるため、天若が紅家邸から連れてきた青年だ。彼は天若の元へ歩み寄ると、さっそく報告内容を告げる。
「天若さん、神獄さまに面会を求める者が訪ねて来ているのですが……」
「面会……? まさか、緑家か黒家から使者が?」
「いえ、それが……藍家の……」
そして家人は天若にひそひそと耳打ちをした。それによると、藍光霧が紅神獄に面会を求めているという。
家人の口から思わぬ名が飛び出してきて、天若は眉根を寄せた。藍光霧と言えば、藍家の当主、藍光鶯が右腕として可愛がっている若者だ。けれどこのような時期にいったい何用なのか。藍家は一貫して、紅家や黄家とは距離を取ってきた。それなのに、急に心変わりでも起こしたのだろうか。
藍家は何を企んでいるのだろう――そう考えた天若は、しかしすぐに思考を切り替える。考えてみたところで、分からないものは分からない。まさか黄家まで乗り込んできて、藍光霧も滅多なことは起こすまい。
「……分かりました。まず、私が行って会いましょう」
家人に応えてから雨杏の方へ視線を向けると、雨杏も天若の意を素早く察したらしく、頷きを返した。
「私は神獄さまの様子を見てきます」
「ええ。お願いね、雨杏」
天若は藍光霧と面会するため、紅家の家人と共に客間の前を去った。それを見届けてから、雨杏は再び神獄の元へ戻る。
すると、神獄は寝室のベッドの上に戻っていた。鋼炎が運んでくれたのだろうか。
けれど神獄はその上で苦しそうに蹲り、激しく肩を上下させている。鋼炎とこれかのことについて熱心に話し込んでいたようだが、そのせいで激しく消耗してしまったのだ。雨杏は慌てて神獄のそばに駆け寄った。
「神獄さま! いけない……すぐに横になりましょう!」
しかし神獄は、差し伸べられた雨杏の手を掴み強く握りしめると、すっかり蒼白になったその顔を雨杏へと向ける。そして息を切らせながらも、毅然とした口調で告げた。
「雨杏、お願いがあります。私に今すぐ薬を……《アニムス抑制剤》を投与してください。鋼炎さんを追わなくては……!」
「そんな……何を仰有るのですか、そんなお体で! 起き上がるのも難しいのに、外を出歩くなんて絶対に無理ですよ! じっとしていないと!!」
「それは分かっています。けれど、どうしても行かなければならいのです! 後生です、雨杏。私の頼みを聞いてください。どうかわたしに、《アニムス抑制剤》を……!!」
「む、無理です! 私には……できません!! 私は看護師です! 神獄さまの治療を支援し、看護するためにここにいるのです!! 死期を早め、苦しめるためにいるのではありません!! ……《アニムス抑制剤》を投与すれば、確かに一時的に症状を緩和し抑えることはできます。でも、それでは根本的な解決にはならないのです!」
「雨杏……」
「この街には……私たちには、神獄さまが必要です! 今はデモを起こしている人たちも、いつかきっと本当の事を思い出してくれる……! 神獄さまがいなくなってしまったら、私たちはみなどうすれば良いのですか!?」
悲鳴じみた声音で切々とそう訴える雨杏を、神獄はただ静かに見つめていた。神獄の顔はすっかり血の気が引き、この世ならざる者のように青ざめている。いつもは気丈な光を宿している目元も、今にも火が消えてしまいそうなほどに弱々しい。
けれど、やがて神獄はその蒼白な顔に柔らかい笑みを浮かべた。この世の全てを慈しむような美しい天女のような笑顔を。
「……。あなたは、こんな無様な私でも……それでも必要としてくれるのですね。……ありがとう、雨杏。あなたが私の専属看護師で良かった。あなたがそばで支えてくれて……本当に良かった。でもだからこそ、私は行かねばならないのです。あなたを守るため、そしてこの街の未来を守るために」
「神獄さま……」
神獄の決意は固い。もはや看護師としての立場でもってしても、彼女を止めることはできないのだ。それを察した雨杏は肩を震わせて泣く。神獄はその肩を静かに抱きしめた。
「辛い選択をさせてしまってごめんなさい。不出来な患者で……本当にごめんなさい。でも……私は『紅神獄』なの。どんなに望んだとしても、もう他の生き方はできないの。どれだけ病で苦しもうとも、最期の時が間近に迫っていると分かっていても、私は私の人生を生きるしかない。だから……雨杏。私に最後の希望を与えて欲しいのです」
雨杏は涙が止まらなかった。神獄はあくまで自分で自分の人生を全うするため、力を貸して欲しいという。けれどそれが《レッド=ドラゴン》と《東京中華街》のためであることは、誰の目にも明らかだった。
神獄は自らの身を犠牲にしてまで、この《東京中華街》を守ろうとしている。みなから侮蔑と憎悪を向けられても――偽物め、死ねと罵られても、それでも街を救う方法を考えている。そして雨杏には、もうどうすることもできない。神獄に施せる治療法も底を突き、死地に向かおうとする彼女を止める手立てすらない。ただ神獄の心中を想って泣き崩れるしかないのだった。
静かな部屋に、雨杏のすすり泣く声が響く。神獄はその肩を優しく抱きしめる。自分が無茶な要求をしていると、神獄も分かっていた。それが使命感の強い雨杏を、ひどく苦しめていることも。
けれど、ここで立ち止まるわけにはいかない。全ては式部真澄という一人の人間が『紅神獄』になると決めたことから始まったのだ。本物の紅神獄の名誉を守るため、そしてこの街のため、《レッド=ドラゴン》のため、何より自分自身のために――神獄の大切なありとあらゆるものを守るため、それを最後まで貫き通さねばならないのだ。
暫くして不意に、ノックをする音が客間に響いた。次いで扉が開く気配がし、天若が寝室へやって来る。ふくよかなその顔には、戸惑いと緊張が混在していた。神獄は微かに眉根を寄せる。何かあったのだろうか。
「失礼します、神獄さま。神獄さまに面会を求めている者がいます。藍光霧と彼の連れてきた東雲探偵事務所の《死刑執行人》、そして……帯刀火矛威と名乗る男です」
それを聞いた神獄は目を見開き、一瞬、絶句する。
帯刀火矛威――まさかここで、その名を聞くとは思わなかった。火矛威のことを忘れたことはない。けれど互いの立場上、もう二度と会うことはないと思っていた。それなのにまさか、火矛威の方から会いに来てくれただなんて。
「火矛威が……!? そう、わざわざ私に会いに……。……分かりました。この部屋で会いましょう」
「よろしいのですか?」
「火矛威は私の古い友人です。私も……ずっと彼のことが気になっていました。大丈夫、彼は信用できる人です。すぐに身支度を整えなければ……天若さん、手伝ってもらえますか?」
「……分かりました。すぐに準備しましょう」
神獄は天若や紅家の家人の力を借り、すぐさま着替えに取りかかった。
選んだのは紅家の名にふさわしい、気品に満ちた真っ赤なチャイナドレスだ。そして、それによく似合う華やかな化粧も施してもらった。家人たちの手によって、瞬く間に『六華主人・紅神獄』が作り上げられていく。
先ほどまでの弱々しい病人の姿から、威風堂々とした美しい女傑の姿へ。神獄はただ、鏡の中で自分がそのように見違えていくさまを、静かに見つめていた。心の中でぼんやりと、「まるで死に化粧のようね……」と、呟きながら。
もっとも、神獄がそのように着飾るのは、見栄やプライド、或いは且つての知り合いの前で格好をつけたいという虚栄心などのためではない。あくまで六華主人という立場であることを貫くためだ。六華主人として、紅神獄として、例え相手が懐かしい旧友であろうとも、無様な姿は晒せない。だから一分の隙も無いように、入念に身支度を整える。
そのさなか、雨杏は神獄の求めに応じ、《アニムス抑制剤》を投与してくれた。だがそれでも、ただ化粧台の前に座っていることすら辛くてたまらない。紅神獄の体はいよいよ限界を迎えているのだろう。その事実を容赦なく突きつけられるかのようだった。
雨杏には苦渋の選択を強いることになってしまい、とても申し訳なく思う。しかし神獄は、己の選択を後悔していなかった。今はただ、やらなければならないこと、やれることを一つずつ確実にやり遂げていく。
自分にはもう、時間が残されていないのだから。
やがて天若に案内され、火矛威が神獄の元へやって来た。その後、天若は部屋を退出し、広々とした客間の中には神獄と火矛威の二人だけが残される。
火矛威と直接、会って話したのは何年前だろうか。そうだ、本物の紅神獄が殺されたあの日の夜。生まれたばかりの火澄を強引に預けた時だ。その時のことを思い出し、神獄の胸にどっと懐かしさが広がった。
あの時から火矛威もだいぶ変わった。《孤月》の報告によると、火矛威は数か月前、《臨界危険領域者(レッドゾーン=ディザスター)》となってしまったという。彼の《イグニス》というアニムスが暴走し、自らの炎で体を自らの焼き、大きな火傷を負って生死の境を彷徨ったそうだ。その火傷の痕が、今も顔にはっきりと残っている。
けれど、穏やかで優しげな瞳は変わっていない。いつも真澄の傍にいて、見守ってくれていた時と同じ、温かな眼差し。
ただ火矛威の目には同時に、強い決意が浮かんでいるのも見て取れた。わざわざ《中立地帯》から混乱のさなかにある《東京中華街》までやって来たのだ。何かよほど言いたいことがあるのだろう。
それももっともだと神獄は思った。自分が火矛威にしてきた仕打ちの数々を思えば、どんな罵倒の言葉を向けられたとしてもおかしくはない。
けれど火矛威は、すぐに口を開くことはなかった。どうやら何と切り出せば良いものか、戸惑っているようだ。あまりにも久しぶりの再会であるため距離感が掴めないのか、それとも紅神獄としての真澄に会うのは初めてで困惑しているのか。ともかく、どのように接して良いのか分からないのだろう。
正直なところ、それは神獄も同じだった。神獄の記憶にある火矛威は二十代の頃のままで、目の前にいる火矛威はそれとは別ものになってしまっているからだ。
十数年という長い時間は見えない壁となって、二人の間にはっきりと表れている。ただ、互いに悠長にしている時間はもう残されていない。先に口を開いたのは火矛威だった。
「ひ……久しぶりだな、真澄」
「……ええ。十四年ぶり……かしら?」
「そうだな。もう、それくらいになるのか。少し……痩せたな。体調が良くないと聞いていたが、その……立っていて大丈夫なのか?」
「心配いらないわ。ちゃんと治療は受けられているし、支えてくれる人たちもいる。火澄を取り戻すその時まで、倒れるわけにはいかないわ」
火澄――その名を聞いた火矛威は、途端に表情を曇らせる。その反応を見るに、彼もまた火澄の安否すら確認できず、不安のただ中にいるのだろう。
「真澄……」
「ごめんなさい、火矛威。火澄を……あなたたち親子を巻き込んでしまって。あなたには私の我が儘で、迷惑ばかりかけてしまった。今も昔も……私はいつも、あなたを傷つけ苦しめてばかりね」
「そんな……そんなこと言うなよ! 俺は、別に……迷惑だなんて、これっぽっちも思ってない!」
語気を荒げる火矛威を目にし、神獄は自然と笑顔が零れた。やはり、火矛威は火矛威だ。優しく
て、でもとても不器用で。そういうところは全く変わっていない。
「そう……。火澄があんなに健やかに育ったのは、きっとあなたがいてくれたからね。優しいあなたに見守られ、温かく育てられたから。……安心して。火澄は必ず取り戻す。そしてあなたの元へ必ず返すと約束するわ。あなたも、それを望んでいるでしょう? だから、わざわざここまで来てくれたのでしょう?」
すると火矛威は目元に力を込め、小さく頷いた。
「……ああ。でも、俺の望みはもう一つある」
「何? 何でも言って。どんな要望でも、援助は惜しまないわ」
「それなら遠慮なく言わせてもらう。……真澄。俺と……俺たちと家族になってくれ。『紅神獄』の名を捨て、『式部真澄』に戻って欲しいんだ。そして火澄と三人で、一緒に《中立地帯》で暮らそう!」
思いも寄らないその言葉に、神獄はすぐには言葉も出なかった。
どんな非難や批判の言葉を浴びても仕方がないと、そう覚悟していた。かつて個人的な願望のために赤子だった火澄を押し付け、今度は個人的な事情のために火澄を火矛威から引き離し、そうやって神獄はずっと火矛威を振り回し続けてきたのだ。
面と向かって罵られるだけのことを、自分はしてきているのだから。
「火矛威……」
だが、火矛威の口から発せられたのは、神獄を責める言葉などではなかった。あまりにも無責任だと、なんて迷惑な奴だと怒りをぶつけられると思っていたのに。まさか火澄と一緒に三人で暮らそうだなんて、そんな提案をされるとは思ってもみなかった。
本気なのか。思わずそんな疑いさえ抱く神獄だったが、火矛威の表情は真剣そのものだった。
「不安はあると思う。突然こんなことを言われて、戸惑うのもよく分かるよ。《中立地帯》には危険も多いし、《東京中華街》でのような豊かで絢爛豪華な生活はもうできない。
……それでも、俺が必ずお前を守る。深雪もきっと、力を貸してくれる……! お前だってこんな荒れ狂った街の中で、敵意と憎悪を向けられ続けるより、実の娘と心穏やかに過ごした方が、何万倍も幸せだろう? 決して悪い話じゃないはずだ!」




