その日、私は初めて人を殺した。②
三階の通路を歩く私達。通路は相変わらず長くて、散らばっていて、病院の奥に行くほど静かになっていく。外の風も、人の声も全く届かず、代わりに肥大化するのは私達の呼吸音と衣擦れ。たまに遠くで、建物が自重を調整するように「パキッ」と乾いた音が響くけど、すぐにまた静寂が。
そんな時だった。私達の耳にふと、とある音が落ちてきた。低くて、太くて、濁っているような音。それでいて芯だけは異様に鋭く、腹の底に響くような振動。それは声というより、空気が裂ける音のようだった。まるで誰かの喉の奥で圧縮された熱が、歯の隙間から押し出されるような。その声は、通路前方の左側にある扉の向こうから漏れ出ていることは明白であった。
気付いた時には、私達は無意識に呼吸を止めていた。息をひそめ、そして決断を迫られる。進むか、戻るか。元々は怖いもの見たさでここまで来た。そしてすぐ目の前にはそれがある。しかしそれは、明らかに私達が期待していた霊的なものとは異なっている。それは良くて獣か、もしかすると……。
その時、私のすぐ前にいた傑が、目線を前に固定したまま、こちら側に小さく手を振っていることに気が付いた。『進もう』と言いたいのだろう。他の二人も進みたそうだし、何より、私もこの先に何があるのかを見てみたかった。
この決断が誤りだった。この時、大人しく、何も知らずに帰っておけば、私達の人生はもっと平穏なものになるはずだった。
通路を進む私達。その扉まではわずか十メートル程度のはずだったのに、やけに長く感じた。まるで薄氷の上を歩くような、他人の家に侵入する泥棒のような足取りで、唸り声の正体を見ようとする。
少しずつその扉に近付くにつれ、その唸り声のディティールが見えてくる。声は獣の喉の壁が震え、その震えが毛皮の下の筋肉へ伝播し、体躯そのものが鳴っているみたいに響いている。唸りの合間には、唾液が糸を引く小さな水音が挟まっていることにも気付いた。
ついに扉の淵に手が届き、そっと顔を運んでいく。バレないように、音を立てないように。ごくりと唾を飲み込み、そしてついに部屋の中が目に入った――。
その部屋は例に漏れず、混沌としていた。床も壁も塗装が剥がれて建物本来の鉄筋を剥き出しにしており、窓ガラスには雷みたいな大きなヒビが入っていて、カーテンはビリビリに切り裂かれている。病床の骨組みだけが残っていて、そこすらもサビに侵食されている。
そして、その部屋の中心には、人間がいた。背中をこちらに向けながら、二本の足で直立している。彼は厚手のフード付きパーカーの上に、更に古いコートを羽織っていて、そのコートは本来黒だったのだろうが、雨と埃と日焼けで煤けた灰色に沈んでいた。裾は濡れた段ボールみたいに波打っていて、肘の部分は擦り切れて中綿が覗いており、糸がほつれたまま垂れている。ズボンはジーンズだが膝が抜け、片方の腿に焦げたような黒い染みがある。くすんだスニーカーの靴紐は片側だけ結ばれ、もう片側はほどけて地面を掃いていた。靴下は見えず、素足のように踝が露出し、そこに泥が乾いて貼り付いている。
彼の喉の奥から鳴る声は、どこか途切れそうで、無理やり絞り出している感じがした。声というより、息が傷つけられた音だった。湿った摩擦が混ざり、唾液が粘りを引く小さな水音が唸りの隙間に不意に挟まる。
彼は何をする訳でもなく、ただ、そこにいた。それは思考を失ったゾンビのようでもあり、見えないプレイヤーからの指示を待つNPCのようにも見えた。
私達はただ、慄いていた。身動き一つ取れない。叫ぼうにも、喉に筋肉が入らない。ただ、外から顔を覗かせた、奇妙な格好から動く事が出来ない。冷や汗が頬を伝い、呼吸が荒く。
その男を眺めながら、言葉一つ、目線一つ交わしていない私達の間で一つの目標が共有された。
『これ以上物音を立てずにこの建物から脱出する』。
無理矢理にも呼吸を整え、そしてとりあえず顔を扉から離そうとした。
しかしその瞬間、男の唸り声が収まった。それと同時に廃病院は本来の静けさを取り戻し、私達はぴたりと動きを止めた。バレないように、うっかりと薄氷を割ってしまわないように。気付けば私達は呼吸も止めていて、漫然とした息苦しさの中、その男の背中を見つめていた。
ふと、その男の鼻が鳴った。まるで何かを探す犬のように、スンスンと辺りの空気の匂いを嗅ぎ始める。それと同時に何かを掴もうとするように、空気を鷲掴みにして、指を開いては閉じた。爪は伸び、黒い汚れが縁に詰まっていて、指先だけが異様に尖って見えた。そして、爪を研ぐ猫のような姿勢でその黒い手が宙で止まった。
その瞬間、私はその男と目が合った。彼が何の前触れもなく、こちらに首を回したのだ。
「……え」
彼の目は虚だった。目の白目がやけに多く見え、瞬きが少ないせいで眼球が乾いたガラス玉のように光っている。両目の焦点は全く合っていなかったが、それでも彼が今、私を見つめている事は理解出来た。
彼の中途半端に開いた口からは、真っ黒な口腔と黄ばんだ歯が途切れ途切れに現れ、その口の端では唾液が泡立っている。口ひげは手入れのされていない庭の雑草みたいに伸びていて、何層にも重なったしわにはこげ茶色のシミがこべりついていた。彼が深く被っているくすんだ赤色のニット帽からは糸がほつれ、その帽子の下から垂れている髪の毛は縮れて、伸び切り、まるで野生動物のそれであった。
その男は私の顔から目を一切離すことなく、まばたき一つもすることなく、緩慢な動きでこちらに体を向けた。そのまま、ゆっくりと、一歩ずつこちらに近付いてくる。静寂に包まれた廃病院の中で、その男の足音と、自分の鼓動だけがやけにうるさく響いた。
「熊崎ィ〜〜〜……何だぁ、お前、今日も来たのかぁ?見かけによ……よら、寄らず……人が好きなんだなァ〜〜」
まるで人喰いの里に住まうオークのような、ねっとりとした口調でその男は呟いた。彼は私に目線を固定したままニンヤリと口の端を釣り上げ、そこに溜まった唾液を更に泡立てながら体をふらつかせている。笑うことで彼の小皺とエナメル質の黄ばんだ歯が強調され、より人間から遠のいた気がした。
「熊崎ィ〜〜〜……な、なんでお前、こっちにこねぇんだよォォォ〜〜」
彼が一歩を踏み出し、アスファルトを踏み締める度に、私の心臓は爆発しそうになった。背中が、脇が、じんわりと温かくなっていく。そしてあと数歩、すぐ数メートル先に彼が佇み、緊張が最高潮に達した瞬間――。
「皆、逃げろッ!!」
傑は声を上げると同時に彼は扉の淵から飛び出した。そのまま部屋を走り、男の胴体にドンと体当たりを。男はその時になって初めて傑を認識したとみたいに「うわぁッ!!」と叫び、後方に吹き飛ばされた。体当たりの時よりも響いた音が鳴り、背中から壁に激突した男。彼は数秒うずくまって何かを呟いていたが、すぐに立ち上がり、鬼のような形相で傑を睨んだ。その目の両端には真っ赤な血管が浮き上がっている。先ほどのゾンビのような表情からは想像も出来ないぐらい見開かれたその瞳からは、確かな怒りが感じとれた。彼は獣みたいに呼吸を荒くして、
「誰だァテメェェェッ!!ぶっっ殺してやるッ!!」
男は拳を振り上げ、そのまま傑の頭に一撃を。傑はその直前に手で頭を守っていたが、それでも衝撃そのままに頭を地面に強く打った。彼は急いで立ちあがろうとしたが、脳震盪でも起こしたのだろう、すぐに地面に吸い寄せられた。体は起きあがろうとしているが、頭が地面から離れない。そんな風に見えた。終いには吐瀉物を吐き、唸り声を上げている傑に向かって、男はもう一度拳を振り上げた。
傑が危ない――考えるまでもなくそう直感した私は、気付けばその場に飛び出していた。でもどうしようもない。非力な私ではその男を止めることが出来ない。一体どうすれば……。
緩やかな一瞬の最中、今までの人生で一度も無かった程に急激に頭を働かせていると、ふと、私の視界に何かが映った。
男の足元で輝く、一本のサバイバルナイフ。鋭利な刃を備えながらも先端は緩やかに湾曲しており、持ち手は持ちやすいように加工が施されている。カーテンの奥から漏れ出る太陽の西日を一身に受け、白く輝くその刃は、私の目には希望の光に見えた。
気付いた時にはそのナイフに手を伸ばしていた。柔らかい握り手に力を込めると、男の腹部を一点に見つめ――。
グサリ。
手元から最初に伝わったのは、コリッとした気持ち悪い触感だった。それからナイフは思いの外簡単に沼に深く沈んでいき、刃がすっかりと見えなくなった。
くすんだパーカーに深く刺さる刃。そこから滴る赤い液体。その液体は落ちると、何度も花火みたいに床に広がった。何度も、何度も。重なり、広がる。ポタリ、ポタリと。
男も、傑も、私すらも。その場にいた皆が、一言も話さなかった。僅かに低く鳴る喉と、細い呼吸音が部屋に薄く広がる。風がふわりとカーテンを攫い、西陽が手元を橙に照らした時に初めて、私の手が赤く染まっていることに気が付いた。
そこから先は、まるで映画を見てるみたいに、ただ自動的に光景が流れていった。
何かを叫ぶ男。彼の腹から広がる血。その腹に刺さったナイフが抜け、もう一度刺さる。一度、二度、三度。その度に赤い海は部屋を満たしていき、壁には新しいシミが。部屋が赤くなる毎に獣の声は鳴り止み、鼻の奥にへばりつく鉄の匂いが満ちていく――。
2024年12月7日。その日、私は初めて人を殺した。
やってしまった、という感覚は意外となかった。ただひたすらに、目に見えない達成感と、心臓を撫で回すドロドロとしたものが、生ゴミを詰め込んだ袋みたいにグチャグチャに混ざり合っていた。
男の死体は部屋の真ん中で手足を放り出した状態で仰向けに転がっており、その腹には真っ赤に染まったナイフが刺さっている。私と傑はすぐ側でその死体を見下ろしており、部屋の入り口では翔太がしゃがみ込んで嗚咽を吐く桃華の背中をさすっていた。
「……交番には俺一人で行く」
長い沈黙の後、傑は掠れ掠れな声で呟いた。
「ここには俺一人で来たし、俺が一人でこいつを……殺した」細く、長い溜め息を一つ付き、「今日、おーちゃんも、桃華も、翔太も自分の家にいて、この廃病院で起こった事は何一つ知らない……それでいいな?」
「駄目だよ」
私は、すぐに切り捨てた。傑は大きく目を見開いて私に視線を向けると、私は口の両端を釣り上げて、ニンマリと笑った。
「だってそんな嘘、すぐにバレちゃうでしょ?商店街には防犯カメラがあったし、それに、店の人たちが私たちのこと見てた」
「じゃあ……どうするんだよ」
傑は半ば叫びだすように言った。
「この死体を埋めるの。これが見つかっちゃったら、私たちが犯人ってすぐに分かっちゃうでしょ?……あ、あとこの部屋も片付けないとね。ちょっと大変そうだけど、頑張ろう」
「なんでそんな冷静でいられるんだよ……?人が一人、死んだんだぞ?」
彼は肺を絞りながら、掠れた声でそう言った。私はもう一度笑ってみせると、彼の耳元まで口を近付けた。そして一つ、私が言葉を放つと、彼は目を見開いて言葉を失った。そんな姿を見てると、なんだかまた笑顔が溢れてきた。
その後、私と傑が男を隠し、桃華と翔太が部屋を掃除することとなった。その時の役割分担は、学期の始まりにある委員決めの時みたいに、誰も何もやりたがらず、重い空気の中、ただ事が運んでいくのを静観するような雰囲気だった。
男を隠す場所は、廃病院の横にある花畑の下にすることにした。ここなら多少地面が盛り上がってたりしていても気付かれにくいというのと、せめてもの死者への弔いの気持ちがあった。
白、紫、紅、橙――色取り取りの花畑は、廃病院には似つかないほど生き生きとしており、沢山の花弁が日の光を透かして内側から発光しているように見えた。茎は細く、風が吹くたびに首が一斉に同じ方向に傾き、また戻る。時間が悠々と流れているこの空間は、まるで先程までの出来事が単なる幻覚だったのではないかと思わせてくるが、私の足元には、麻布に包まれたものが横たわっている。
先程医務室で麻布と一緒に手に入れたスコップを地面に突き刺すと、今日の朝まで雨が降っていたこともあってか、思いの外深くスコップの先の方が潜っていった。それでもやはり、九十キロはあるであろうこの肉を埋められるだけ深い穴を掘るのには、かなりの時間が掛かりそうだった。スコップを突き刺すごとに腕はジンジンと痛み、途中からは顎を伝って落ちた汗が、地面で小さな黒い染みになっていた。
一時間程掛けて半分ぐらいが終わった。傑は縦長の穴を通した反対で黙々と作業を続けており、役割決めをしてから一度も話をしていなかった。休憩も兼ねて空を見上げてみると、もうすっかりと夜が大半を占めていた。それでも、西の方に目を向けると、地平線の淵で鈍い光が姿を現していた。
穴を掘り終わったのは、それから更に一時間後だった。しっかりと人一人が埋まる大きさになったことを確認すると、傑が男の頭を、私が足を持った。そしてそっと、丁寧に、心の中の罪悪感から最大限気を逸らすように、彼を穴の中に置いた。真っ赤に染まったナイフの隠し場所は迷ったけど、結局麻布と一緒に花畑に埋めることにした。
最後の穴を埋める作業は、思ったよりも簡単だった。掘る時ほど力も要らないし、何より作業が進むごとに、麻布の姿が少しずつ見えなくなるのが、心の平穏を取り戻すのに役立ってくれた。
作業を終わらせた後になって、私たちは久しぶりに言葉を交わした。
「……じゃあ、二人の所に戻ろうか」
「……ああ、そうだな」
太陽は、もう見えなかった。
例の部屋に戻った時、正直驚いた。部屋がかなり元通りになっていたからだ。床と壁に広がっていた血はもうほとんど無くなってたし、残った染みも元の部屋の汚れの中に上手く溶け込んでいた。
しばらくして気付いたが、血を拭き取る際に使っていた雑巾が廊下で山を作っていた。麻布と一緒に埋めておけばと後悔したけど、仕方がないからその部屋の隅にあったゴミ箱に捨てておいた。もし誰かに見られたら色々と勘繰られるかもしれないが、流石にこれを見ただけで殺人が起こったとは思わないだろう。それに、もう既に日が暮れてしまっていて、隠し場所を探す時間が無かったからというのが大きな理由だった。
結局家に着いた頃には時計の長針が十を越していた。その時は紺色の服を着ていたため返り血の跡も目立ちはしなかったが、近くで見られたら家族にバレるかもしれない。私は玄関を通り過ぎるなり洗濯機に服を放り込み、急いでシャワーを浴びた。
ドライヤーで髪を乾かした後、家族に門限を大幅に過ぎたことを注意されたが、それ以上の詮索は行われなかった。
あれこれと寝る準備を終わらせている内に、日付が変わっていた。すっかりと重くなった頭を枕にうずめると、今日一日のことが頭の中でリプレイされた――勉強して、電車に乗って、商店街を歩いて、廃病院に入って、ナイフを持って――。
私の頭の中に流れるその映像は、いつの間にか過去の記憶を呼び起こした。
ナイフ――血の付いたナイフ――激しい言い争いの中――ママは――それを――って――を――。
少しウトウトしていると、机に置いていたスマホが震えた。確認してみると、傑からメッセージが来ていた。
『なあ、俺たち、明後日から普通に学校に行けるのかな?』
光る液晶の中で、彼は弱音を吐いていた。
『大丈夫。きっと、全て上手く行く』
私はそう返すと、再び毛布とベッドの間に身体を挟んだ。
大丈夫。きっと、全て上手く行く。
私たちの日常は、誰の手にも侵させない。絶対に、誰の手にも。




