その日、私は初めて人を殺した。①
人を殺すという行為は、神への祈りに少し似ている。
どちらも手を合わせて、沈黙の中に自分と他者を落とし入れる。彼の名前を胸の中で呟き、息を整え、そして手を振り落とす。違いがあるとすれば、殺人は他者の時を断ち切る身振りであり、祈りは他者の時を引き延ばす言葉であるという点だ。
花畑の下に眠るもの 大宮祈里
2024年12月7日。その日、私は初めて人を殺した。
やってしまった、という感覚は意外となかった。ただひたすらに、目に見えない達成感と、心臓を撫で回すドロドロとしたものが、生ゴミを詰め込んだ袋みたいにグチャグチャに混ざり合っていた。
男の死体は部屋の真ん中で手足を放り出した状態で仰向けに転がっており、その腹には真っ赤に染まったナイフが刺さっている。私と傑はすぐ側でその死体を見下ろしており、部屋の入り口では翔太がしゃがみ込んで嗚咽を吐く桃華の背中をさすっていた。
詳しい話をするには、三時間程前に遡らなければならない。
12月7日、その日は二学期の期末テストを二週間後に控えた土曜日であった。私たちは高校二年生であるため、来年のことを考えると内申はなるべく多い方が良い。だから私は友達三人を家に呼んで、互いに分からないところを教え合いながら勉強をしていた。
「おーちゃん、ここの問題分かる?」
そう言いながら、川口桃華が参考書をスライドさせてきた。
『おーちゃん』というのは私のあだ名だ。元々は中学生の時、クラスメイトが私の『大宮』の最初の文字を取ってそう言い始めたのだが、初めの頃はそう呼ばれるのが嫌だった。何だかそのあだ名が『おっちゃん』に聞こえたからだ。まあでも、今は特に気になってない。
机の反対側では前田傑が宿題のプリントを紙飛行機にして遊んでいる。彼はサッカー部の部長を務めていて、試合ではチーム全体を引っ張るリーダー気質。その明るい性格で時には皆んなを笑顔にして、時には冗談で場を沸かせる。そんな人だ。
傑は既にスポーツ推薦での大学進学が決まっていたため勉強をする必要は全く無かったが、周りの友達は皆勉強で忙しく誰も遊んでくれないから、と私たちの勉強会についてきたのだ。
すっかりと冬一色になった12月。本当は机に向かい続けなければならない時期。けれど、日々重たくなる受験勉強からの抑圧に一時的にでも解放されるために、しばらくの休息が必要だったのも確かだった。
「なあ〜、今日はもうこのぐらいにしね?」
気分転換に、最近見つけた廃墟に行こうと言いだしたのは、傑だった。
当然、私は嫌がった。期末テストまであと二週間。本来なら最後の追い込みが必要な時期だ。けれど桃華と清水翔太は即座に同意して、私も渋々ついていく事になった。
時計の針はまだ、昼の十二時を過ぎたところだった。
私の家の最寄駅から電車に揺られて十五分。辿り着いたのは寂れた商店街であった。
最初に出迎えたのは錆に飲み込まれたアーチ。やけに派手な赤色で『駅通り商店街』と書かれた光らないネオン管の骨格が張り付けられており、その横には何かの横断幕が三つ程。時折風が通り抜けると、その幕の端が溜め息のようにはためいた。
アーチを潜り抜けると、高いアーケードの天井とボロボロの床、並びゆくシャッター。透明だったであろう天井のパネルはすっかり黄ばんでおり、水滴の跡が古い地図みたいに広がっている。太陽の光はそんな汚れで散り、鈍い昼間がその下を照らす。床は白と灰の市松模様。しかし所々ひび割れており、一部では下の地面が見えてしまっている。
両側にはシャッターが立ち並ぶ。塗装が剥げ、錆が横筋を作っている。何やらシャッターに紙が貼ってある店もあるが、すっかりと日焼けして文字が薄くなっているせいで、何が書かれているのか読めはしない。洋品店のショーウィンドウには色褪せたマネキンが立っており、半袖のスポーツウェアを着たまま動かない。
しかし決して、全ての店が閉まっている訳ではない。小さな青果店が店先に箱を出し、みかんとりんごの山を一座ずつ作り上げている。値札は太いマジックで乱雑に書かれており、その奥で店主らしきおじさんが暇そうにスマホを触っていた。頭も禿げ上がり、皮膚もすっかりと垂れ下がったそのおじさんは、スマホ片手にこちらに目を移すと、溜め息だけしてスマホに目を戻した。
音はなんだか薄い気がする。所々に設置されているスピーカーからは商店街の雰囲気に合わない軽快なBGMが流れているが、それは空気を満たせていない。音は割れており、時々歪んだ不協和音が吐き出される。それは静寂を満たすというより、むしろそれがあるせいで、静寂が強調されている気がした。
歩きながら、ふと路地を覗いてみると、商店街の背中が見えた。段ボールが積まれていたスペースは空になり、ゴミ置き場の網がたるみ、その隙間に野良猫が入り込む。空き店舗の裏口には貼り紙が何枚も重ねられ、剥がされ、また貼られた痕が層を作っている。
その時、ふと、動く何かが目に映った。最初はネットに包められたゴミ袋かなにかかと思った。
「……うわっ」
でもよく見てみると、それは人間だった。その人は商店街の裏路地に、力の抜けた操り人形のように落ちていた。膝は不自然に開いており、踵だけが歩道のアスファルトに触れている。足元は壊れた歯車の様に小まめなリズムを刻んでいるのみだが、彼の手元は忙しそうである。見えない何かを掴もうとして空を探り、かと思えば自分の髪を払い除ける。続け様に肩の辺りを叩くと、地面を掘り始めた。彼の目は焦点を持っておらず、右から左へ、左から右へと揺れながら宙を彷徨っている。開き切った瞳孔は街灯の光を飲み込み、ヘドロの様にその光を飲み込んで離さない。口元は笑っている様にも喚いている様に見える半開きで、歯の隙間からは途切れ途切れの音が涎と共に漏れ出ている。
彼の奇怪な動きに目が行きがちだが、その服装もまた不可解である。色の抜けたグレーのパーカーに、くすんだ青のパンツ。袖口は伸び切って黒ずんでおり、前のファスナーは開きっぱなし。その中からはよれた白Tシャツの端がはみ出しており、膝と肘の布は薄くなっている。片方の裾は靴下の上でくしゃくしゃに溜まっており、片足にはスニーカー、もう片足には革靴を履いていたが、両方とも色すら判別し辛い程に汚れている。彼の顔がふらりとこちらに向いた瞬間、私は急いで彼から目を外した。
多分大丈夫だと思うけど、かなり怖かった。いわゆるホームレスというものを、その時初めて見たからだ。
それからすぐに商店街の終わりは見えてきた。出口にもアーチがあったが、それは駅前の入り口のものと比べてかなり質素だった。こちらはネオン管ではなくペンキで書かれており、ほとんど消え掛かっていた。
ここで断っておくが、私の住むK市は決して田舎ではない。今回来た方とは反対方向に電車で十分揺られれば大きな駅に着くし、そこから更に三十分で大阪梅田にも行ける。都会ではないが、田舎でもない。学校で習った言い方なら、郊外という場所に住んでいる。
商店街から歩いて三十分。辿り着いたのは、廃病院だった。
やはり最初に気になったのは剥き出しになったコンクリート。幾何学的に積み重なったコンクリートは雨水に黒ずんで、換気口の下には煤のような黒が広がり、白かったはずの壁面をまだらに侵食している。定期的に填められたガラスは白くくもり、三つに一つぐらいは割れてしまっている。薄い埃の膜の向こうでカーテンは中途半端に開いたまま固まり、室内の暗さが均一に沈んでいる。そのせいで、今は昼間なのに、なんだか窓の内側だけ夜を飼っているように見えた。
傑は口の端を釣り上げて、
「この前偶然この建物見つけてさ、ほら、なんか面白そうだろ?」
「え……まじでこの病院に入るの?今から?」
少し掠れた声で言ったのは翔太だった。彼は遅めの声変わり期間のため、常に声が低いのだ。
「そりゃそうだろ。大丈夫だって、幽霊とも頑張れば友達になれるだろ。それともなんだ、夜に行きたいのか?」
翔太が大袈裟にかぶりを振ったその時、私の隣にいた桃華が私の袖を掴んできた。
「なに?桃華、どうかした……」
彼女の横顔を見て、喉の奥に言葉が詰まってしまった。彼女が泣き出しそうになっていたからだ。
桃華の唇は細かく震えており、喉仏が何度も上下している。呼吸音からしてまともに息も吸えておらず、私の袖を掴む手は大きく震えている。彼女の瞳は光を多く含んでおり、顔はすっかりと青ざめてしまっている。
「え?桃華!?体調悪い!?」
彼女は私の声が聞こえたのか聞こえていないのか分からないまま、もう片方の腕を前に伸ばした。そして震え手で指さしたのは、病院の三階にあった窓の一つだった。
「あそ……あそこに、今、あそこに、誰かいた……」
桃華がそう言った瞬間、私達の間に緊張が走った。私含めた三人は目を丸めて、彼女の怯える横顔に目を固定させた。その時に吹いた生ぬるい風が、肌にへばり付いて、喉元にナイフを当てられているみたいな気がした。
しばらくして、私は彼女が指差す窓を見てみたが、そこには人影一つなかった。ただ濁ったガラスの向こうで、暗い夜が沈んでいるだけだった。
「冗談だろ、桃華?なあ、ほら、早く行こうぜ」
傑はやけに芝居かかった口調でそう言うと、桃華は何か言い返したそうだったが、顎が震えて、何も言葉を発せなかった。
少しして、私達は斜めに倒れたフェンスを乗り越え、敷地内に入っていった。桃華にはここで待っていてもいいと伝えたが、どうやら彼女もついてくるようだ。
敷地内には私の腰の丈ぐらいまで伸びた草が生い茂っていて、足を付ける地面を探すので大変だった。早朝降った雨のせいで地面が少しぬかるんでいたが、まっすぐ進む分には問題なかった。前の方を見ていると、廃病院の窓に自らの身を押し当てている樹木もあった。しばらく進んでいると、救急車用の進入路らしき幅の広い通路を見つけた。そこはもはや単なる影の溜まり場で、排水の詰まった側溝がぬめった水を溜めているだけだった。
入り口には自動ドアの枠だけが残っていた。ガラスは雨風に耐えきれず足元に散らばっているから、入り口は絵画の額縁みたいに見えた。枠をくぐり抜けると、出迎えたのは受付カウンター。待合室のソファーは黒ずみ、所々から綿が飛び出ている。その奥のカウターは透明だったアクリル板の端が欠けていて、呼び出しベルは虫の死骸みたいにひっくり返っていた。書類も足元に散らばっていて、その上には古いのか新しいのか分からない誰かの黒い足跡が。
廊下に出ると、病院特有の長さが現れた。ただひたすらに直線が視界の端まで続いていて、角を曲がるとまた直線が。壁は白い塗装がすっかりと剥がれ落ちていて、建物本来のコンクリートが剥き出しになっていた。そんな壁には手摺りが続いており、触れるとざらついた冷たさが手の平に移った。案内板の矢印には『内科』とか『検査室』とか書かれた矢印が残されているが、それが指す先には暗い扉しかない。
天井の蛍光灯は全て外され、ソケットだけが剥き出しになっていて、赤と配線が垂れている。風が通るとそのコードが僅かに揺れて、女性の髪の毛みたいな靡き方をした。窓の外から漏れ出る昼の光は長方形のシルエットを廃病院の廊下に落としている。そんな光に照らされて、空中に舞う小さな埃が星みたいな輝き方をしていた。
私達は次に、適当な部屋に入ってみた。その部屋には六つの病床が壁沿いに向かい合ってずらりと並んでいた。多くの患者が療養する部屋、いわゆる病室だ。ベッドのマットレスは中央に人の形が僅かに凹んだままになっており、見えない誰かが今でもその上で眠っているみたいだった。カーテンレールは曲がり、カーテンは途中で引き裂かれたまま乾いて固まり、窓際のベッド柵は錆びて茶色い粉を吹いている。引き出しの中には空の薬包や、期限の切れた消毒綿の袋が入ったままで、ツンと鼻にくる薬の匂いが鼻腔に刺さった。
「なんか……思ったより普通だな」
三階に続く階段を登りながら、傑はそうぼやいた。多分彼はこの廃病院が幽霊ひしめくとんでもない建物とでも思っていたのだろうが、残念ながら、ここにはたくさんの瓦礫と埃っぽい匂いしかなかった。
……その時の私達は知らなかった。幽霊よりもはるかに悍ましいものが、その建物には潜んでいたことに。




