その日、私は初めて人を殺した。③
おかしい。もう一週間もあいつと連絡を取れていない。
2024年12月16日正午、曇天の空模様の下、健吾は商店街を歩いていた。硬い市松模様の床は静寂の商店街に革靴の高い音を反射させ、彼という存在を高々と表しているようだった。
健吾は元来、頑固な人物であった。子供の頃から不正を嫌い、校則を破る者を見つけては先生と言う名の上司に報告していた。その高い正義感が彼を警官に向かわせたのは、至極当然の事であった。警視庁に入ったのが三十年前。それ以降彼は順調にキャリアを積み重ね、今では警部にまで成り上がった。
使い古したコートのポケットに手を突っ込み、煙草を一本取り出した。彼が長年喫しているマイルドセブンだ。先端に火をつけ、流煙を喉の奥に押し込む。肺の中に見えない幸福感が舞い込んできて、胸のざわめきにもやが掛かった。
あいつとは十三前、ここK市で起こった殺人事件の調査をしている時に出会った。あいつと初めて会った時、平凡な物言いにはなるが、初めて会った気がしなかった。まるで半世紀来の旧友であるかのような感情が、情景が頭の中に舞い込んできて、それ以来定期的に連絡を取り合っていたのだ。
最後に会ったのは九日前。その時の彼はいつもと変わりない様子だった。その後すぐ、また今週末にでも会おう、とこちらが送ったきり連絡が途絶えてしまったのだ。ここまで返信に時間が掛かっているのは、あいつが車に跳ねられて病院送りになった時ぶりだ。
あいつの身に何か大事が起こった――。
そう想像するのは難くなかった。なのでこうして、健吾は彼が住み着いている建物に向かっているのだ。
商店街から歩いて二十分。辿り着いたのは、かつて病院だった建物。外壁は長年の雨風で黒ずんでおり、窓も半分以上がひび割れてはいるが、その内部はある程度清潔に保たれている。耐熱性、耐冷性、耐震性も問題無い。
そう、これが彼の住んでいる建物である。
当然他人の建物に無断で住み着く行為は建造物侵入罪に該当する為、幾度となく彼にここを出ていくように伝えたが、彼はその度に、金がないから仕方がないと言うのであった。健吾が金を工面して賃貸のマンションにでも住ませようかとも思ったが、やはり職業が警察というのが良くなかったのか、それとも彼の抱える『病気』が良くなかったのか、不動産屋と大して話し合いもしてもらえなかった。
自分の背丈程伸びた草木を掻き分け、目の前の幾何学的に積み上がったコンクリートを目指す。あいつがここに住み着いて五年程。栄養も少ないであろうこの大地に根を生し、成長を続ける植物に毎度驚かされる。
健吾の視界にその『違和感』が映ったのは、草木を掻き分け始めてすぐだった。自分の物でも、あいつの物でもない足跡。正確に言えば昨日の雨のせいで地面がぬかるんでいる為、それはただの窪みであった。が、健吾の中に宿る、警察としての長年の勘が一つの事実を告げていた――この建物に、誰かが侵入した。
厚生労働省の人間?K市の役所?いや、違う。大人の物にしてはその『窪み』は小さすぎる。小学生の物にしては大きい。ならば中学生……いや、高校生か。それに一人ではない。複数種類の歩幅と窪みの深さ。恐らく四人か、最大でも五人。この地域で最後に雨が降ったのは12月6日の深夜から7日の早朝にかけて。少し判断が難しいが、全体的に高校生にしては窪みが深すぎる気がする。つまり、この窪みが作られた頃はまだ地面はぬかるんでいた可能性が高い。
これらの事象を総合すると、12月7日、高校生数人がここに来た。
健吾は、自分の心臓が氷の掌に握り締められたような気がした。高校生、複数人――目的は?肝試しだろう。怖いもの見たさでこの病院を探索する彼ら。もしその三階で、あいつと会ったら――。
気付けば、彼の歩幅は大きくなっていた。
やはり、自分の勘は当たっていた。
彼の友人が住み着いている部屋に辿り着いた瞬間、健吾は確信した。
確かに一見しただけでは、一般人はこの部屋の異変には気付けないだろう。この部屋の取っ散らかり具合に気を取られ、その詳細が目に入らないからだ。床に転がる大量のゴミ、散乱したガラス片、引き裂かれたカーテン、壁や床に染み付いた穢れ……だがその染みは二重に重なっている。床にこべり付いた真っ黒な穢れの上に、少し掠れた赤黒い何か。ツンと鼻にくる薬品の裏に隠された、喉の下咽頭に残る鉄の匂い。
健吾はそれを殺人現場で何度も見てきた。健吾はそれが何かを知っている。
細く、長い溜め息を一つ付き、部屋を見渡す健吾。彼の視界に赤い塊が映ったのは、それから間もなくだった。無意識の内に息を殺し、それに近付く。その詳細が露わになるにつれ、何だか身体が重たくなる気がした。腕を伸ばし、それを手に取ると、掌に広がる冷たい感覚。少しずつそれを持ち上げるにつれ、その冷たさが彼の心臓にまで伝達された。
血液の染みついた雑巾。それが何枚も重なり、山を成していた。
それが誰の血液か。誰がここに『山』を作ったのか。その答え合わせは、もはや必要なかった。
健吾は最初、三階から探し始めた。彼の体重は服まで含めると八十キロは下らない。それだけの重さがあるものを高校生が遠くまで運べるとは思えないからだ。しかし意外な事に、三階、二階、更に一階を探しても彼を見つける事は出来なかった。
しかし手掛かりが全く無かった訳ではない。一階の医務室で見つけたスコップの先端に湿った土が付着していたのだ。つまり彼らはこのスコップを使い、土を掘っていた。その穴は一体、何の為に掘られたのだろうか。その目的は日の目を見るより明らかである。
彼がその足で向かうのは廃病院横にあったはずの花畑。最後にそれを見たのはもう四年も前だった為現在もそれが残っているかは分からないが……もしこの病院の近辺に埋めるならそこしかないだろう。その花畑以外の場所は草木が生い茂り、その根が邪魔してスコップが深く刺さらないからだ。
歩きながら、深い思考の底に沈む健吾。その時、彼の瞳が反射したのは、通路にぬらりと引かれた黒い尾。それは例えば、墨の切れた筆で白紙をなぞった時にできるような、艶を失った黒い帯。これもまた、健吾が殺人現場で何度も見てきた物だ。
ああ、そうか。あいつはあの部屋で――されて、この通路を引っ張られて、そして――。
健吾は、自分の体が更に重たくなった気がした。
花畑に着いてすぐに、彼がどこにいるか分かった。
廃病院横に佇む丘陵の花畑、その中腹だけ花の連続性が途絶えていたのだ。近付いてみると、そこの地面だけが若干盛り上がっていた。縦三メートル、横二メートル。人一人は余裕を持って入る大きさだ。軽く踏んでみると、簡単に足跡が付いた。他の場所に比べてここだけ地面が柔らかい。
ああ、やはり、そうなのか。
もはや衝撃は無かった。本来なら全身を覆うはずの後悔も涙も、長年の警官としてのキャリアが押し殺してしまったようだ。
彼の片手には医務室から持ってきたスコップがある。健吾はそっと目を瞑り、諦念の溜め息を一つ付くと、スコップを振り上げた。ガッ、と気持ち良い音が鳴り、その先端は深く地面に刺さった。そのまま土を払い除け、もう一度振りかざす。
単調な作業を繰り返す内に、健吾の意識は十三年前のありし日に沈んでいった。
十三年前にK市で起こったあの事件……あれは痛ましかった。当時二七歳だった女性が夫を殺害したのだ。夫の死体は腹から腸が飛び出しており、顔面の皮は完全に剝ぎ取られていた。近隣の住人からの通報を受け、俺がその現場に急行した時、夫の死体のすぐ傍で血塗れの包丁を持った女が立っていたのだ。その様子を、部屋の隅で当時四歳だった娘が呆然と見ていた。事情聴取の際、女はその事件に関して黙秘を突き通したが、その現場の状況から有罪が確定した。唯一の証人である娘からは、その凄惨な現場のせいで強い衝撃を受けたのか会話が困難であったため、有益な情報は一つも得ることが出来なかった。そのため殺害に至った経緯は一切分からなかったが、痴情のもつれという事で処理された。有罪判決を受けた翌日、女は留置所にて支給されたタオルを首に巻き、冷たくなっていたのを留置係員により発見された。
あいつはその殺された夫の弟だった。当時、あいつは夫婦の住まいから電車で一時間程の場所に一人暮らししていたが、参考人として事情聴取を求められたのだ。もちろん何か、この事件の経緯を裏付ける情報が欲しかった訳では無い。ただ二人の不仲が本当だったのかを確かめたかっただけであった。
事情聴取自体は何事もなく終わった。二人が結婚したのは女の妊娠が原因だったという、既に掴んでいた情報以外は何も得ることが出来なかった。しかしその聴取後も健吾は彼のことが気になり、定期的に会うようになったのだ。
控えめに言っても、あいつは変な奴だった。地面に落ちているものを平気で口に含むし、宵越しの銭を持たないという、まるで江戸からタイムスリップしたような精神を持ち合わせていた。それでもあいつの話すことは面白く、その破天荒ともいえる性格は見ているだけで気持ち良かった。
あいつが統合失調症を患ったのは、十一年前だった。原因が何かは分からない。彼が通っていた病院は、彼の兄が死んだのが理由であると原因付けたが、それにしては病気を患うまで時間のラグがあり過ぎるように思われる。それ以降彼は妄想と幻覚に悩まされ、酷い時は会話すら困難であった。それでも俺はあいつと関りを持ち続けた。医者は、統合失調症の人間は他者と会話を続けることで病気が完治することもあると言っていた。妻や子供もおらず、両親も早く他界した彼にとって頼れる人間は俺だけであった。ならば、あいつに誠心誠意寄り添ってあげるのが友というものだろう。
あいつが統合失調症と診断されて以降、俺はあいつと一つ屋根の下で暮らすことにした。そっちの方がより長い時間あいつの面倒を見れると思ったからだ。だがあいつは俺との生活に辟易したのだろう、五年前に俺の家を逃げ出すように出て、この廃病院に住み着いてしまった。
それ以降、俺は警官としての職務を全うする傍ら、定期的にこの廃病院に訪れ、あいつの面倒を見ていたのだ。当然の事ながら、大変だった。何せ時間が足りない。ただでさえ警官としての仕事があるのに、ここに来てあいつの世話をするのは――。
その時、健吾の心に一つのもやが掛かった。いや、逆だ。彼の心を覆っていたはずの何かが、その一瞬だけ晴れたのだ。
警官――統合失調症――廃病院――あれ――でも――どうして――。
ガチッ。
その時、スコップの先端が何かに当たった。とても柔らかい感触だった。土の隙間からは、肌色の織物が見えた。これも先程の医務室で見かけたものだ。麻布。土の中に埋められた、麻布。その中にはあるものといえば――。
健吾は今一度決心し、麻布を避けるように残りの土も掘り起こした。何故か子供の頃遊んだ化石発掘の玩具が彼の頭に浮かんだが、今は最悪な気分であるという点であの頃とは全く異なる。
麻布全体を露出させるのに掛かった時間は、三十分にも満たなかっただろう。その麻布のサイズは二メートル弱。真ん中が最も太く、先端に行くにつれ若干細くなっている。もはや、何もかもが彼の推測通りであった。
手が躊躇いがちにその麻布へと伸びていき、そして麻布がめくれた。
その中にいたものを見て、健吾の膝は崩れてしまった。視線はそこにあったものに固定されているのに、顔が、肩が、胴体が、激しく揺れだした。肋骨の内で臓腑が激しく爆発し、喉の奥から込み上げてきた胃液は口から漏れ出て顎から滴っている。肘を付き、花畑に地面を埋めると、よりドロドロとしたものが口の中から溢れてきた。
花畑の下に眠るものは、旧友の死体だった。
健吾は喉の奥から声にも満たない音を絞り出し、幾度となく地面を叩いた。だが地面はひたすらに冷たく、彼の拳全体に鈍い痛みを返すだけだった。
目の下が腫れ、顎の下が真っ赤になり、両手が血塗れになった時、健吾はゆっくりと立ち上がった。そして、一つの戒律を心の内に誓った。
こいつを殺した犯人を探し出し、復讐をする。そして、こいつと同じ目に遭わせてやる。
熊崎健吾の心の中のもやは、気付けばどこかへと消え去っていた。




