表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/10

第3話 消えた侯爵家の頭脳

第3話 消えた侯爵家の頭脳


エルザが屋敷を去ってから五日後。


ヴァルハルト侯爵家には、目に見えないひびが入り始めていた。


最初に異変が起きたのは朝食だった。


食堂には焼きすぎたベーコンと冷めたスープが並んでいる。


以前なら香ばしい焼き立てのパンが供されていた時間だ。


ジュリアンはナイフを置いた。


「まずい」


料理長が青ざめる。


「申し訳ございません」


「またか」


ジュリアンは不機嫌そうに葡萄酒を飲んだ。


この数日、使用人たちの失敗が増えていた。


だが彼は知らない。


その失敗のほとんどが、エルザが毎日陰で調整していたものだったことを。


朝食後。


執事長のバーナードが書類を抱えて現れた。


六十代の老執事は、いつもより疲れた顔をしている。


「ジュリアン様、お時間をいただけますでしょうか」


「なんだ」


「小麦商会との契約更新です」


「更新すればいいだろう」


「契約条件の見直しが必要です」


「お前がやれ」


バーナードは困ったように咳払いした。


「それが……これまでエルザ様が担当されておりました」


ジュリアンは眉をひそめる。


「契約書くらい読めるだろう」


「二百三十七ページございます」


「……は?」


「追加条項が三十六項目です」


ジュリアンは契約書の束を見た。


分厚い。


見るだけで頭が痛くなる。


「後だ」


「しかし期限が本日まででして」


「明日にしろ」


「本日です」


「うるさい!」


ジュリアンは契約書を机へ投げた。


紙が散らばる。


バーナードは深いため息をついた。


昼頃になると、今度は農地管理人が飛び込んできた。


泥だらけの長靴。


汗まみれの額。


「大変です!」


「何だ」


「南地区の灌漑設備が故障しました!」


「修理しろ」


「予算の承認が必要です!」


「そんなもの勝手にやれ!」


農地管理人は青ざめた。


「できません」


「なぜだ」


「エルザ様が管理されていたからです」


またその名前だった。


ジュリアンの苛立ちは募る。


「エルザ! エルザ! エルザ!」


机を叩く。


「なぜ皆あいつの話ばかりする!」


農地管理人は黙った。


それが答えだった。


夕方。


さらに悪い知らせが届く。


羊毛取引の契約が打ち切られた。


倉庫の在庫管理表が見つからない。


港への輸送手配がされていない。


請求書の支払期限が切れている。


書斎の机には書類の山。


次から次へと積み上がる。


ジュリアンは頭を抱えた。


「どうなっているんだ……」


その時だった。


父であるレイナルド侯爵が書斎へ入ってきた。


重厚な黒い上着。


銀色の髪。


鋭い眼差し。


侯爵は散らかった机を見るなり顔をしかめた。


「何事だ」


「少し問題が起きているだけです」


「少し?」


侯爵は契約書を手に取った。


「更新期限切れ」


次の書類を見る。


「未払い」


さらに次。


「未処理」


部屋の空気が凍った。


侯爵の怒気が伝わる。


「ジュリアン」


「は、はい」


「エルザはどこだ」


「実家へ帰りました」


「呼び戻せ」


ジュリアンは顔をしかめた。


「必要ありません」


「何だと?」


「たかが女です」


その瞬間。


侯爵の目が細くなった。


「たかが女?」


静かな声だった。


だからこそ恐ろしい。


「お前はこの五日間で何件の契約を処理した」


「それは……」


「何件だ」


答えられない。


「農地管理は」


「……」


「会計は」


「……」


「納税処理は」


ジュリアンの額に汗が浮かぶ。


侯爵は冷たく言った。


「エルザは全部やっていた」


沈黙。


時計の針だけが音を立てる。


侯爵は窓の外を見た。


夕日が領地を赤く染めている。


「あの娘は優秀だった」


ジュリアンは反論した。


「ですが地味でした」


「地味?」


侯爵は笑った。


しかし目は笑っていない。


「お前は本当に何も見ていなかったのだな」


その言葉が胸に刺さる。


侯爵は続けた。


「お前が社交界で遊んでいる間」


「お前が狩猟に出ている間」


「あの娘は夜中まで帳簿を読んでいた」


ジュリアンの脳裏に浮かぶ。


深夜の書斎。


ランプの灯り。


机に向かうエルザ。


何度も見た光景だった。


だが気にも留めなかった。


侯爵は低い声で言う。


「お前は妻を失ったのではない」


「侯爵家の頭脳を失ったのだ」


その夜。


ジュリアンは久しぶりに書斎へ一人で残った。


机には帳簿が積まれている。


革表紙を開く。


数字が並ぶ。


意味がわからない。


別の書類を開く。


もっとわからない。


窓の外では雨が降り始めていた。


しとしとと。


冷たい雨音。


いつもならエルザが珈琲を持ってきていた時間だった。


「お疲れではありませんか」


そう言って。


温かな珈琲と焼き菓子を置いていった。


気づけば机の隅に、小さなメモが残されている。


エルザの字だった。


『南地区の修繕費は第三予備費より』


『羊毛契約更新は十五日まで』


『税務監査は来月二日』


短い文章。


だがどれも今の問題そのものだった。


ジュリアンは呆然とした。


まるで未来を見ていたかのようだ。


いや。


違う。


彼女は理解していたのだ。


領地のことを。


人のことを。


侯爵家そのものを。


ジュリアンはメモを握り締める。


胸の奥に初めて生まれる感情。


それは愛ではない。


後悔でもない。


もっと不快なものだった。


恐怖。


もし本当にエルザが戻らなかったら。


もし本当に彼女が二度と助けてくれなかったら。


自分はどうなるのだろう。


窓の外では雨が激しくなる。


暗い夜空の下。


ジュリアンは初めて、自分が何を失ったのかを少しだけ理解し始めていた。


だが彼はまだ知らない。


失ったものは、エルザだけではない。


もっと致命的なものが、すでに足元から崩れ始めていることを。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ