第2話 捨てられた通知書
第2話 捨てられた通知書
エルザを追い出した翌朝、ヴァルハルト侯爵家の朝食は妙な静けさに包まれていた。
大理石の食堂には焼きたてのクロワッサン、蜂蜜をかけた果物、半熟卵、香り高い珈琲が並んでいる。
だが、いつもなら完璧な温度で供される料理が、今日はどこかちぐはぐだった。
卵は少し冷めている。
珈琲は苦い。
パンも焼きすぎていた。
ジュリアンは眉をひそめた。
「なんだ、この朝食は」
料理長が青ざめる。
「も、申し訳ございません」
「エルザ様が管理なさっていた献立表が見つからず……」
ジュリアンは舌打ちした。
「たかが献立だろう」
しかし料理長は困った顔をしたままだ。
「いえ、食材の仕入れ先や保存状況まで細かく記録されておりまして……」
「言い訳するな」
その時、マリアが甘えるように腕を絡めた。
「まあ、ジュリアン様。そんなことより、今日は街へ行きましょう?」
ジュリアンはすぐに機嫌を直した。
「そうだな」
マリアの笑顔を見ると、自分は正しい選択をしたのだと思える。
あんな地味な女より、こちらの方がずっと華やかだ。
そう思いたかった。
朝食を終えた頃、一人の執事が封筒を持って現れた。
「ジュリアン様。王国戸籍院より書簡が届いております」
封筒には朱色の印章が押されている。
マリアが顔をしかめた。
「役所から?」
「さあな」
ジュリアンは封を切ることもなく机の端へ置いた。
「後で見る」
執事が何か言いたそうな顔をした。
だが黙って頭を下げる。
その様子を見ながら、ジュリアンはふと三年前を思い出した。
あの日もこんな封筒が届いていた。
三年前。
政略結婚が決まった日のことだ。
エルザは淡い灰青色のドレスを着ていた。
飾り気はない。
だが不思議と品があった。
王都の戸籍院へ向かう馬車の中で、彼女は静かに書類を確認していた。
「婚姻届はこちらです」
「ふん」
「提出後、受理証明書をいただいてください」
「わかった」
「必ず確認してくださいね」
「わかったと言っているだろう」
エルザは小さく息を吐いた。
それでも丁寧に説明を続ける。
「私の実家は没落寸前です。戸籍関係の手続きが複雑になっています」
「面倒だな」
「だからこそ確認が必要なのです」
ジュリアンは窓の外を見た。
正直どうでもよかった。
結婚など家同士の取引に過ぎない。
書類の細かいことなど使用人に任せればいい。
そんな考えだった。
戸籍院の窓口で書類を提出し、帰宅した時にはその話など忘れていた。
数日後。
戸籍院から封筒が届いた。
執事が持ってくる。
「重要書類かと」
「後で見る」
机へ放置。
さらに一週間後。
また封筒が届いた。
「戸籍院から再通知です」
「うるさいな」
引き出しへ押し込む。
さらに十日後。
三通目。
赤い印が押された封筒。
「至急確認願います」
と大きく書かれていた。
ジュリアンはちらりと見た。
「面倒だ」
そのまま暖炉へ投げ込んだ。
紙が燃える匂い。
ぱちぱちという音。
それだけだった。
同じ頃。
エルザは侯爵家の書斎で帳簿を整理していた。
窓から初夏の風が吹き込む。
薔薇の香りが漂う。
そこへジュリアンがやって来た。
「おい」
「なんでしょう」
「夕食は何だ」
エルザは顔を上げた。
そして尋ねる。
「受理証明書は届きましたか?」
ジュリアンは露骨に嫌そうな顔をした。
「またその話か」
「大事なことです」
「結婚したんだからいいだろう」
「確認はされましたか?」
「していない」
エルザの瞳がわずかに揺れた。
だが声は穏やかだった。
「お願いします。戸籍院から通知が来ているはずです」
「面倒だ」
「一度だけ確認を」
「しつこいぞ」
ジュリアンは苛立った。
「そんな細かいことばかり気にするな」
「ですが」
「もう終わった話だ」
エルザはそれ以上言わなかった。
ただ静かに手帳を開く。
そして何かを書き込んだ。
その様子を見ても、ジュリアンは気にしなかった。
数か月後。
再びエルザが尋ねる。
「受理証明書は」
「知らん」
「戸籍謄本の確認を」
「後で」
半年後。
「確認されましたか」
「忘れた」
一年後。
「戸籍院へ問い合わせましょうか」
「必要ない」
二年後。
「念のため確認を」
「うるさい」
三年後。
エルザはもう尋ねなくなっていた。
今思えば、それが最後の警告だったのかもしれない。
回想から戻ったジュリアンは、目の前の封筒を見た。
王国戸籍院。
見慣れた印章。
しかし彼は鼻で笑った。
「また面倒な書類か」
封筒を開くことなく近くの籠へ放り込む。
マリアが笑う。
「本当に書類がお嫌いなんですね」
「読む価値のあるものなんてほとんどない」
「まあ」
二人は笑った。
その時、執事だけが暗い顔をしていた。
籠の中には、過去にも届いた戸籍院の通知書が何通も積み重なっている。
誰にも読まれず。
誰にも顧みられず。
ただ静かに。
だが、その紙切れの中には。
侯爵家の未来を根底から覆す真実が眠っていた。
そしてそれはもうすぐ、眠りから目を覚ますのである。




