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第1話 愛人を正妻にするから出ていけ

第1話 愛人を正妻にするから出ていけ


夕暮れの陽光が、ヴァルハルト侯爵家の食堂を黄金色に染めていた。


長い楕円形の食卓には、香草をまぶした仔羊のロースト、焼きたての白パン、季節野菜のポタージュ、赤葡萄酒が並んでいる。


だが、その豊かな香りを楽しむ者は誰もいなかった。


食卓の上に流れているのは、重苦しい沈黙だけだった。


エルザは銀のスプーンを静かに置いた。


淡い青色のドレスの袖を整えながら、向かいに座る夫――そう信じていた男を見つめる。


ジュリアン・フォン・ヴァルハルト。


侯爵家の嫡男。


三年前に結婚した相手。


今夜の彼は妙に機嫌が良かった。


いや。


正確には、何かを言い出したくて仕方がない顔をしていた。


隣には見慣れない若い女性が座っている。


栗色の髪を巻き上げ、胸元を大きく開けた桃色のドレスを身につけていた。


香水の甘ったるい匂いが鼻につく。


エルザはポタージュを一口飲んだ。


温かなスープが喉を通る。


それから静かに尋ねた。


「その方はどなたですか?」


ジュリアンは待っていましたと言わんばかりに胸を張った。


「マリアだ」


隣の女性が得意そうに微笑む。


「初めまして、エルザ様」


その声音には勝者の余裕が滲んでいた。


エルザは紅茶を一口飲む。


そして微笑んだ。


「そうですか」


ジュリアンは眉をひそめた。


反応が薄い。


もっと狼狽えると思っていたのだろう。


「お前、驚かないのか?」


「何にでしょう」


「だから!」


ジュリアンが声を荒げた。


「私はマリアを愛している!」


食堂にいた使用人たちが一斉に顔を伏せる。


エルザはまばたきをした。


「そうなのですね」


「そうなのですね、ではない!」


ジュリアンは立ち上がった。


椅子が大きな音を立てる。


「彼女は私の子を身ごもっている!」


一瞬、空気が凍った。


マリアが自分のお腹に手を当てる。


勝ち誇った笑み。


使用人たちの顔色が変わる。


だが。


エルザだけは変わらなかった。


「おめでとうございます」


静かな祝福の言葉だった。


ジュリアンは口をぱくぱくさせた。


思っていた反応と違う。


泣き叫ぶ。


取り乱す。


嫉妬する。


そういう姿を期待していたのだろう。


「お、お前……」


「それで?」


エルザは穏やかに尋ねた。


「何か私にご用でしょうか」


ジュリアンは顔を真っ赤にした。


「だから離婚だ!」


食堂中に響く怒鳴り声。


「お前とは離婚する!」


「マリアを正妻に迎える!」


「お前は今日限りでここを出ていけ!」


静寂。


窓の外では風が庭の木々を揺らしていた。


遠くで鳥が鳴いている。


エルザはその音に耳を澄ませた。


それから。


静かに立ち上がった。


「承知しました」


ジュリアンは固まった。


「……は?」


「承知しました、と申し上げました」


「え?」


「お望みなら屋敷を出ます」


あまりにもあっさりしていた。


まるで明日の天気を話すような口調だった。


マリアの笑顔が少し引きつる。


「え……本当に?」


「はい」


エルザは微笑んだ。


「お二人の邪魔をするつもりはありません」


ジュリアンは混乱していた。


何かがおかしい。


自分が優位に立ち、エルザが泣いて許しを請うはずだった。


なのに。


まるで自分の方が置いていかれる側のような感覚になる。


「ま、待て」


思わず声が出た。


「なんでしょう?」


「本当に出ていくのか?」


「はい」


「慰謝料もないぞ」


「結構です」


「生活に困るぞ」


「そうでしょうか」


エルザは首を傾げた。


その仕草が妙に落ち着いて見えた。


ジュリアンは理由の分からない苛立ちを覚える。


「好きにしろ!」


「ありがとうございます」


エルザは軽く一礼した。


そのまま食堂を出ていく。


背筋は真っ直ぐだった。


一度も振り返らない。


その後ろ姿を見送りながら、なぜかジュリアンの胸はざわついていた。


二時間後。


エルザは自室で荷造りをしていた。


大きな旅行鞄が三つ。


持ち出すのは自分の私物だけ。


衣類。


本。


筆記具。


そして鍵付きの書類箱。


窓から夜風が吹き込む。


庭の薔薇の香りがした。


「奥様……」


侍女のクララが涙ぐむ。


「本当に行かれるのですか」


「ええ」


「でも……」


エルザは微笑んだ。


「大丈夫ですよ」


クララは唇を噛んだ。


この三年間。


侯爵家を実際に支えていたのはエルザだった。


領地経営。


会計管理。


使用人の配置。


税金の手続き。


契約更新。


すべて。


誰よりもよく知っていた。


「旦那様は困ります」


「そうかもしれませんね」


「奥様がいなくなったら……」


エルザは窓の外を見た。


夜空には月が浮かんでいる。


「それもまた、ご自身で学ぶべきことです」


そう言って書類箱を閉じた。


金属の鍵が小さな音を立てる。


その音だけが、不思議なほど大きく聞こえた。


翌朝。


侯爵家の正門前。


馬車が待っている。


エルザは青い外套を羽織り、乗り込んだ。


屋敷を見上げる。


三年間暮らした場所。


けれど未練はなかった。


窓からはマリアがこちらを見下ろしている。


勝者の笑み。


ジュリアンも隣にいた。


満足そうな顔だった。


エルザは静かに会釈する。


そして馬車の扉を閉めた。


車輪が回る。


屋敷が遠ざかる。


朝日が差し込む車内で、エルザはそっと息を吐いた。


「ようやく始まりますね」


誰にも聞こえない小さな呟き。


その唇には、穏やかな笑みが浮かんでいた。



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