第4話 独身ですが何か?
第4話 独身ですが何か?
初夏の朝。
王都の空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。
石畳の大通りには馬車が行き交い、焼きたてのパンの香りが漂う。街角では花売りの少女が薔薇の花束を並べ、商人たちの威勢の良い声が響いていた。
ジュリアンは機嫌が良かった。
久しぶりに心から気分が晴れていた。
隣にはマリアがいる。
淡い桃色のドレスに身を包み、金糸の刺繍が施された日傘を差している。頬は上気し、瞳は希望に満ちていた。
「今日から本当の始まりですわね」
マリアが嬉しそうに腕を絡めてくる。
「もちろんだ」
ジュリアンは胸を張った。
「君はもうすぐ侯爵夫人だ」
マリアはうっとりと微笑んだ。
「夢みたいです」
その言葉にジュリアンは満足した。
これこそ自分にふさわしい人生だ。
若く美しい愛人。
生まれてくる子供。
そして将来の侯爵位。
エルザのような地味な女ではなく、華やかなマリアこそ隣にいるべき女性なのだ。
そう信じていた。
王国戸籍院は王都の中心部に建っていた。
白い石造りの巨大な建物。
正面には王国紋章が掲げられている。
重厚な扉をくぐると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
磨き上げられた床。
静かな足音。
書類をめくる音。
ここは法と記録の城だった。
マリアは少し緊張している。
「なんだか怖い場所ですわ」
「ただの役所だ」
ジュリアンは笑った。
「すぐ終わる」
二人は窓口へ向かう。
受付には四十代ほどの女性職員が座っていた。
眼鏡をかけた落ち着いた女性だ。
「ご用件をお伺いします」
「婚姻届の提出だ」
ジュリアンは誇らしげに書類を差し出した。
職員は丁寧に受け取る。
そして確認を始めた。
羽根ペンが紙を滑る音。
書類をめくる音。
静かな時間。
やがて職員の手が止まった。
「……あら?」
ジュリアンは眉を上げた。
「どうした」
「少々お待ちください」
職員は別の台帳を開く。
さらに別の記録簿も確認する。
隣の職員まで呼び寄せた。
二人で何か話している。
マリアが不安そうにジュリアンを見た。
「何か問題でしょうか」
「あるわけない」
ジュリアンは鼻で笑う。
だが職員たちの様子は妙だった。
やがて女性職員が顔を上げる。
「失礼ですが、ジュリアン・フォン・ヴァルハルト様でお間違いありませんか」
「そうだ」
「生年月日もこちらでよろしいですね」
「そうだ」
職員は首をかしげた。
「現在独身ですね」
ジュリアンは瞬きをした。
「……は?」
「独身ですね」
「何を言っている」
「戸籍上、未婚です」
空気が止まった。
マリアも固まる。
ジュリアンは笑った。
「冗談はやめろ」
「冗談ではございません」
「私は三年前に結婚している」
職員は記録を確認した。
「その記録がございません」
「あるはずだ!」
周囲の視線が集まる。
待合席にいた人々がこちらを見ていた。
ジュリアンは顔を赤くした。
「妻がいたんだ!」
「エルザ・ライゼンという女性だ!」
職員は再び台帳を調べる。
しばらくして首を横に振った。
「申し訳ございません」
「記録上、お二人の婚姻成立は確認できません」
マリアの顔から血の気が引いた。
「え……?」
ジュリアンも混乱する。
意味がわからない。
結婚式を挙げた。
三年間一緒に暮らした。
社交界でも夫婦として扱われていた。
なのに。
独身?
「馬鹿な」
職員は困ったように言った。
「現在の記録では、ジュリアン様は未婚です」
「エルザ様も未婚です」
ジュリアンの頭の中が真っ白になった。
マリアが震える声で尋ねる。
「それなら……」
「私との結婚はできるのですか?」
職員は頷いた。
「書類上は可能です」
「ほら見ろ!」
ジュリアンは急に元気を取り戻した。
「問題ないじゃないか!」
しかし職員は言葉を続けた。
「ただし」
「なんだ」
「過去の申請記録について確認が必要です」
「確認?」
「三年前に何らかの手続きが行われていた可能性があります」
嫌な予感がした。
だがジュリアンは首を振る。
そんなはずはない。
何かの間違いだ。
きっとエルザが勝手に何かしたのだ。
そうだ。
あの女しかいない。
「エルザだ」
思わず口に出していた。
「エルザの仕業だ」
マリアが不安そうに見上げる。
「どういうことですの?」
「決まっている」
ジュリアンは拳を握った。
「私に嫌がらせをしたんだ」
「勝手に婚姻記録を消したに違いない」
職員の眉がぴくりと動く。
「そのようなことは不可能です」
「ならなぜだ!」
「記録は王国管理です」
職員は淡々と言った。
「個人が消去することはできません」
その言葉にジュリアンはさらに苛立った。
認めたくなかった。
何かがおかしい。
だが原因がわからない。
職員は丁寧に頭を下げた。
「調査結果は後日通知いたします」
通知。
その言葉に何かが引っかかった。
どこかで聞いた気がする。
だが思い出せない。
三年前。
何度も届いた封筒。
赤い印章。
未開封のまま捨てた紙。
一瞬だけ脳裏をよぎったが、すぐに消えた。
「帰るぞ」
ジュリアンは乱暴に言った。
マリアは黙って後を追う。
戸籍院を出ると、眩しい日差しが降り注いでいた。
だがジュリアンの胸の中には妙な寒気が広がっていた。
独身。
未婚。
記録なし。
その言葉が何度も頭の中を回る。
そして彼はまだ知らない。
その「独身」という一言が、自分の人生を根底からひっくり返す最初の鐘だったことを。




