第7話「知らないふりの笑顔」
温室の紅茶会から三日。
アレクサンダーとの距離感が、微妙に変わっていた。
以前は「におわせ合い」だった。ゲーム知識をちらつかせて、反応を見る。暗号のようなやりとり。でも紅茶会以降、アレクサンダーの態度が少し——柔らかくなっている。
におわせてくるのは変わらない。でも、その合間に「普通の会話」が混じるようになった。
たとえば今日の昼食。
「リンデンバウム嬢、パンにバターをそんなに塗るのか」
「好きなんです。バターは正義です」
「……正義」
「正義」は前世の言い回しだ。この世界の貴族令嬢は食べ物に「正義」という単語を使わない。
でもアレクサンダーは突っ込まなかった。少し目を細めて、何も言わずにパンをちぎっていた。
あれは——見逃してくれたのだ。
「正義」という前世の表現を聞いて、指摘すればこちらの正体に迫れたのに、しなかった。
なぜ?
(もう、確かめる必要がないから?)
アレクサンダーの中で、私が転生者だという確信が固まったのかもしれない。固まった上で——追及する気がない。
追及しない理由は、たぶんシンプルだ。追及したら、こちらも追及し返す。「あなたも転生者でしょう」と。お互いの秘密が表に出る。それは、どちらにとっても都合が悪い。
だから——知らないふりを続ける方が、二人にとって得だ。
ここまでは理屈で理解できる。
問題は、その「知らないふり」の質が変わってきたことだ。
放課後、私は学院の中庭を歩いていた。植え込みの白い花が風に揺れて、蜂蜜を水で薄めたような香りがすれ違いざまに追いかけてくる。名前は知らない。ゲームにはこの花の情報がなかった。この世界にしかない花で、この世界にしかない匂いだ。
「クラーラ様!」
背後からリーリエが駆けてきた。息を切らしている。
「リーリエ嬢? どうされましたか?」
「あの、大変なんです。来週の舞踏会の準備委員に、クラーラ様のお名前が入っていて——」
「準備委員?」
「はい。アレクサンダー殿下の推薦で……」
アレクサンダーの、推薦。
断罪を取り消された悪役令嬢を、よりにもよって舞踏会の準備委員に。
(何を考えているの、あの王太子)
「あの、クラーラ様。お断りになりますか?」
「……いいえ。殿下の推薦であれば、お受けします」
断れない。王太子の推薦を断れば角が立つ。しかも舞踏会の準備委員は「名誉職」だ。断罪された令嬢の名誉回復として、表向きは理にかなっている。
でも本当の目的は、きっと違う。
舞踏会——ゲームの中盤の大イベント。ここで複数のルート分岐が起きる。準備委員にすれば、舞踏会の裏側に関わることになる。つまり——ゲームでは見られなかった情報に触れる機会が増える。
(私の反応を、もっと近くで見たいってこと?)
あるいは——舞踏会で何か仕掛けるつもりか。
「リーリエ嬢」
「はい?」
「殿下は——他に誰を推薦されましたか?」
「えっと、フリッツ様と、あとは——殿下ご自身も委員に入られています」
自分も入っている。監視する気、満々だ。
「……わかりました。よろしくお願いしますね、リーリエ嬢」
「はい! ご一緒できて嬉しいです」
リーリエの笑顔は、眩しいくらいに純粋だ。この子はゲームの事情を何も知らない。ただ真っ直ぐに、私とアレクサンダーの不審な行動の間を歩いている。
申し訳ない気持ちが湧くが、真実を話すわけにはいかない。
翌日の準備委員会の初回ミーティング。
小さな会議室に、四人が集まった。アレクサンダー、フリッツ、リーリエ、そして私。
アレクサンダーが議長を務める。テーブルの上に舞踏会の企画書を広げて、段取りを説明していく。会場の装飾、招待客のリスト、楽曲の選定。
「楽曲は宮廷楽団に任せるが、構成の提案があれば聞きたい」
フリッツが手を挙げた。
「殿下。慣例では開幕に第一組曲、中盤に舞踏曲集、最後に——」
「第二楽章を中盤に入れよう」
第二楽章。
先日、私が廊下で「第二楽章で踊るのは難しい」と言った、あの曲。
アレクサンダーが——わざと、入れた。
こちらを見ている。薄い笑みを浮かべて。
(挑発?)
フリッツが首を傾げた。
「第二楽章ですか。あの曲は拍子が変則的で、踊り手が少ないかと……」
「だからこそ面白い。——リンデンバウム嬢、どう思う?」
全員の視線が私に集まる。
リーリエは無邪気に首を傾げている。フリッツは怪訝な顔。そしてアレクサンダーは——答えを待っている。
私が「第二楽章」の本当の意味を知っていることを、確認しようとしている。
(知らないふり。知らないふりよ、クラーラ)
笑顔を作る。この世界の貴族令嬢として、完璧な、当たり障りのない笑顔を。
「良いと思います。変則的な曲は、腕の見せどころですわ」
アレクサンダーの目が、一瞬だけ光った。
「では、そうしよう」
会議が終わり、部屋を出る。
廊下で、フリッツが足早にアレクサンダーに追いついた。
「殿下。最近——リンデンバウム嬢に構いすぎではないですか?」
背中越しに聞こえたフリッツの声は、困惑と忠告を含んでいた。
アレクサンダーの返事は聞こえなかった。振り返ったら、負けだと思ったから。
でも——首の後ろに、視線を感じていた。振り返らない私を見て、あの王太子は笑っているのだろう。
知らないふりの笑顔で。
お互いに。




