第29話「二周目の、隣」
全てが明かされて、最初の一週間が過ぎた。
学院は、拍子抜けするほど普段通りだった。授業があり、昼食があり、放課後がある。変わったのは、昼下がりのテラスに四人分のティーカップが並ぶようになったことと——私たちの、図書室の使い方だ。
「この先の時期、本来の筋書きなら何が来る」
いつもの閲覧席。向かい合って座る配置は同じでも、机の上が変わった。以前は読んでもいない本を二人でめくり続けていたけれど、今日広げているのは学院の行事予定表と、私のメモ帳である。
「リーリエさんの聖女覚醒です。本来なら、とっくに来ているはずでした。——まだ、来ていません」
「ああ。遅れているだけなら、いずれ来る。来れば、それが一番の火種だ」
「火種、ですか」
「覚醒すれば、リーリエは正式な聖女になる。聖女が立てば、その対比でお前を引きずり出したい連中に旗印を与える。——取り消された断罪を、もう一度やり直せという声にな」
二度目の断罪。証拠文書は、あの人がとっくに台帳ごと遮断した。それでも芽は、条件さえ揃えばどこからでも吹く。
「だから、覚醒はさせない。リーリエにはこのまま、聖女候補として穏やかに卒業してもらう。覚醒は本人の負担も大きすぎる。一周目の彼女は、力に振り回されて、終盤はほとんど笑わなくなった」
「……優しいですね」
「打算だ。彼女が覚醒しなければ、二度目の断罪は旗印を失って立ち消える。お前が安全になる」
「打算と言いながらリーリエさんの心配を先にする人を、世間では何と呼ぶか知ってますか」
「……天気の話をしていいか」
「だめです」
メモ帳に要点を書きつける。転生者二人の攻略会議。シュールな絵面だが、最高に効率がいい。おまけに今は、隠す相手もいない。リーリエ本人には「先の天気が読めたら伝える」と約束済みで、覚醒の件もいずれ本人と話すことになっている。彼女の人生なのだから、当然である。
「ただ——正直、この予定表もどこまで当てになるか」
「ああ。トリコルヌも足場も、筋書きは前倒しで化けて出た。頁の順番ごと、もう信用できない」
「殿下の知識で、この先は読めます? たとえば——ラウエンシュタイン王朝の章。終盤の、一番大きな山まで」
「読める、と言いたいが」アレクサンダーは行事予定表を指で叩いた。「俺の知識は地図にはならない。せいぜい、古い旅行記だ。道は描いてあるが、橋が今も架かっている保証はない」
「旅行記。いい喩えですね」
「だろう」
「即興で考えました?」
「三日前から温めていた」
「台無しです」
笑ってしまって、司書に睨まれた。すみません。攻略会議は声量に課題が残る。
放課後、中庭を歩いた。
いつもは一人で歩いていた道を、二人で。隣に並んで。
「台本のない舞台、って前に言いましたよね」
「ああ、言った」
「あのときの私の答え、覚えてますか。即興で演じるしかない、って」
「覚えている」
「あれ——今なら、もう少し違う答えが出ます」
アレクサンダーが足を止めて、振り返る。夕方の光が、琥珀の瞳を金色に変えた。何度見てもゲームのスチルにない表情で、何度見ても慣れない。
「即興じゃなくて——二人で台本を書く、が正解だったのかなって」
風が吹いた。落ち葉が足元を滑っていく。赤、橙、黄色。秋の色がくるくる回る。
アレクサンダーは、ふっと笑った。
「いい答えだ。——なら、ちょうどいい。見せたいものがある」
「?」
連れていかれたのは、中庭の南の隅だった。陽当たりのいい一角に、真新しい支柱と、植えられたばかりの低い株。細い枝の先に、白いつぼみがいくつか、固く結ばれている。
「これって——」
「王宮の庭師が育てた、新種の白薔薇。株を分けてもらって、ここに植えさせた」
白薔薇。いつかの茶話会で、この人がいきなり投げ込んできた話題。私が「特に好みはありませんわ」と完璧な嘘をついて、内心でカップの縁を噛んでいた、あの白薔薇だ。
「……あれ、やっぱり鎌をかけたんですね。裏データの『好きな花』で」
「半分は」
アレクサンダーは、つぼみの一つにそっと指を添えた。
「攻略サイトの隅で、その設定を見た記憶はあった。だが、設定なんて信じていなかった。俺が信じたのは——君の刺繍だ」
「刺繍?」
「君の刺繍は、いつも白い糸の薔薇だった。図書室では、植物図譜の白薔薇の頁だけ、めくる手が遅くなる。茶話会で『好みはない』と言った三秒後に、『どうしてそうお思いに』と聞き返してきた」
「……あれは、不可抗力です」
「知っている。あの瞬間は、君の中で一番かわいい不可抗力だった」
な。
何を言い出すんだ、この人は。
「——つまりだ。ゲームが教えてくれたのは『そういう設定がある』ということだけだ。君が本当に好きかどうかは、画面の外からは分からない。確かめたのは、この世界に来てからの、俺の目だ」
台本を読んで知っていることと、見ていて知っていること。
その二つの間にどれだけの距離があるか、私たちは二人とも、痛いくらい知っている。画面のこちら側とあちら側。届かなかった一周目と、腕の届く二周目。この人は私の「好き」を、二周目の側で、自分の目で拾い直してくれたのだ。
「この品種はな、二季咲きだそうだ」
「二季咲き?」
「春に一度咲いて、秋にもう一度咲く。庭師が言うには——二度目の花のほうが、香りが深い。もっとも、植えた年は咲かないそうだ。このつぼみは固いまま冬を越して、最初の花は春に開く」
……ずるい。
そんな花を、よりにもよって選んで、よりにもよって今、言うか。
「名前はまだない。最初に咲かせた者が付けていいと、庭師に言われている」
「殿下が付けるんですか」
「二人で考えればいい。台本にも、攻略サイトにも載っていない名前を」
「……候補は、あるんですか」
「『何のことだ』」
「花に何の恨みがあるんですか」
「では『棒読み』」
「うちの庭師に謝ってください。よその庭師にも」
言い合いながら、つぼみから目が離せなかった。固く結ばれた白。ほどけるのは、冬の向こう側だ。
中庭のベンチに、並んで腰を下ろした。半歩分の距離。近くもなく、遠くもなく。
「これから、どうしますか」
「どうするも何も、学院生活は続く。旅行記を片手に、橋が落ちていないか確かめながら歩くだけだ」
「トリコルヌが出たら?」
「耳の後ろを頼む」
「あれは一回限りの知識です」
笑い合って、それから少しの沈黙が落ちた。悪くない沈黙だ。図書室で重ねてきた、読んでいない頁をめくる音だけの沈黙とは、もう種類が違う。
「——俺は」
アレクサンダーが、前を向いたまま言った。
「一周目で、お前を助けられなかった。画面のこちら側から、見ていることしかできなかった」
「知っています」
「二周目では、知らないふりをしながら裏で手を回した」
「知っていました。全部」
「お前が転生者だと気づいてからは、何をやっても先を読まれた」
「お互い様です」
「——それが、楽しかった」
え。
「知らないふり選手権。お前との駆け引きは、一周目のどの場面にもなかった。二周目をやり直して、一番予想外だったのは——お前が、こんなに面白い人間だったことだ」
面白い人間。王子に面白い人間と言われるのが褒め言葉なのかどうかは判定に迷うところだが、胸の奥がじんわり緩んだ。
「私も、予想外でした」
「何がだ」
「殿下が、こんなに嘘が下手だったこと」
「……そこか」
「そこです。棒読みの『何のことだ』、一生の語り草にします」
アレクサンダーが額を押さえた。制服の襟から覗く耳が、夕陽のせいにはできない赤さになっている。
その手が、ベンチの上で、そっとこちらへ伸びた。
指先が触れる。小指の先だけ。
「一緒に書こう。二人の台本を」
「……ええ」
繋いだ。小指だけ。
これがゲームのどのスチルにもない場面であることを、二人とも知っている。知っていて、もう、知らないふりはしない。
「殿下」
「ああ」
「あのつぼみが開いたら——名前、ちゃんと考えましょうね」
「ああ。冬を越えた一輪目を見てから、でもいい」
気の長い話だ。気の長い話ができることが、こんなに嬉しい。
二周目の王子と悪役令嬢。お互いバレバレだったのに、ずっと知らないふりをしていた二人。
知らないふりをやめたら、隣に座るだけで、こんなに温かい。
ベンチの上の小指が、きゅっと握り返された。
エピローグへ続く




