第28話「やっと認めた、とリーリエ」
収穫祭の翌朝、リーリエがお茶に誘ってきた。
場所は学院の東棟テラス。秋の朝日が床石をゆっくり温め、テーブルには湯気の立つカモミールティーと焼きたてのスコーンが並んでいる。バターの匂いが、ひんやりした空気の中でやけに優しい。
そして私は、ここに来る前に一つ、根回しを済ませてきた。
「昨日の収穫祭、楽しかったですね」
リーリエがにこにこと言う。
「ええ。演劇も盛り上がりましたし」
「村娘その三、素敵でしたよ」
「二行の台詞を噛まなかっただけです」
「それが大事なんですよ」
リーリエがスコーンを割った。湯気が立つ。彼女はそれを一口かじってから、ふと、カップの縁越しに私を見た。
「クラーラ様。昨日から——空気が、変わりましたね」
「空気?」
「クラーラ様と、殿下の。なんて言うんでしょう。ずっとお二人の間に張ってあった、見えない幕みたいなものが……なくなってる気がして」
聖女の観察眼、相変わらず侮れない。でも今日は、ごまかすために来たのではない。
「リーリエさん。今日は、聞いてほしい話があるんです」
スプーンを置く。指先が冷たい。何ヶ月も遅れた話を、どこから始めればいいのか。
「実は——」
「リーリエ嬢。同席しても構わないか」
テラスの入り口から声がした。アレクサンダー。その半歩後ろにフリッツ。根回しというのは、これだ。今日の話は、私一人でしていい話ではない。
「殿下? わ、どうぞどうぞ」
リーリエが慌てて椅子を勧める。四人がけのテーブルが、初めて四人で埋まった。
アレクサンダーと目を見交わし、頷き合う。先に口を開いたのは、あの人だった。
「単刀直入に言う。——夏至の奉献式の日。俺と彼女は、銀杯に細工がされることを、前の日から知っていた」
リーリエの手から、スコーンの欠片がぽろりと落ちた。
「知っていて、二人とも、黙っていた」
「待って、ください」
リーリエの声は小さかった。笑顔が、ゆっくりと閉じていく。咲いていた花が、時間を巻き戻すみたいに。
「知って、いた……?」
「ええ」と、私。「あの3人の令嬢が話しているのを、偶然聞いてしまったんです。私も、殿下も、別々に」
「じゃあ、あの杯は……私が落とす前に、止められたかもしれないんですね」
「止められたと、思います」
ごまかさなかった。ここでごまかしたら、この席を設けた意味がない。
リーリエはしばらく、自分の手のひらを見ていた。傷はとっくに消えている。消えていても、見ているのはきっと、あの日の赤だ。
「……どうして、黙っていたんですか」
「それを話すには、もっと前から話さないといけません。長くて、たぶん、ずいぶん変な話です」
「聞きます」
即答だった。目は、まだ笑っていない。
だから、話した。
私とアレクサンダーには、生まれる前の記憶があること。前の世で、二人とも、この世界の先の筋書きを知っていたこと。その筋書きを変えようとしながら、お互いの正体に気づき、それでも何ヶ月も知らないふりを続けていたこと。「なぜ知っている」と問われるのが怖くて、奉献式の朝、二人そろって動けなかったこと。
リーリエは一度も口を挟まずに聞いた。聞き終えて、最初に出てきた言葉は——
「……ごめんなさい。半分くらい、分かりませんでした」
正直すぎる。でも、その正直さに少し救われた。
「つまり、お二人は」リーリエは眉を寄せて、慎重にまとめた。「明日の天気が、読めるんですね。ずっと前から」
「……おおむね、その通りだ」
アレクサンダーが真顔で頷いた。よりにもよって、自分の一番下手な嘘に帰ってくるとは。
「それで、奉献式の日の天気も読めていたのに、教えてくれなかった」
「……ああ」
「そう、ですか」
リーリエはカップを両手で包んで、長いこと黙った。テラスの下から芝を刈る鎌の音がして、朝の鳥が鳴いても、彼女は黙ったまま。私の人生で、二番目に長い沈黙だった。
「正直に言いますね。私、いま、怒っています」
顔を上げたリーリエは、泣き出す寸前で、それでもまっすぐだった。
「秘密があったことには、怒っていません。誰にでも、言えないことはありますから。でも——あの日、私が階段の下で恥をかいて、手を切って、それを見ながらお二人が『言えない』って苦しんでいたのなら、どうして、後からでもいいから言ってくれなかったんですか。私、お見舞いに来てくれたクラーラ様に言ったのに。私だけ何も知らされないんですね、って」
「……はい」
「あのとき、何か返してほしかった。嘘でもいいから——ううん、嘘は駄目ですけど」
律儀に訂正してから、リーリエは小さく息をついた。
「回廊でも、言ったことがあります。お二人の偶然に、一度も混ざれたことがないって。覚えてますか」
「覚えています。一言も忘れていません」
「私もだ」とアレクサンダー。「君のその言葉は、フリッツの追及より、よほど応えた」
「殿下は直接お聞きになっていないはずですが」
フリッツが冷静に指摘する。
「……今朝、彼女から聞いた」
「お二人、本当に仲がいいんですね。怒りが延びました」
怒りが延びた。聖女は怒りの期限を管理できるらしい。
「……実は、私も一つ、白状します」
リーリエは食べかけのスコーンに目を落とした。
「いつだったか、応接室の近くを通りかかったとき、殿下とフリッツ様の声が聞こえてしまったことがあるんです。一周目がどうとか、台詞を覚えているとか。それ以上近づく勇気はなくて、廊下の先で立ち止まったきりでしたけど。……意味は、全然分かりませんでした。今だって半分です。でも、あのとき思ったんです。ああ、やっぱり二人だけの世界があるんだなあ、って。私の入れない世界が、扉一枚向こうに」
あの日、廊下の先で翻った白い布。やっぱり、あれは。
(この学院、盗み聞きの人口密度が高すぎる)
壁に張りついていた私が言えた義理ではないけれど、それにしても高すぎる。
「リーリエさん。——ごめんなさい」
言葉より先に、頭が下がっていた。
「あなたを輪の外に置いたまま、守っているつもりになっていました。守れても、いなかったのに」
「すまなかった」
隣で、王太子が頭を下げた。一国の王太子が、テラスの椅子の上で、聖女候補に向かって。リーリエが「で、殿下!? 頭!? お顔を上げてください、畏れ多いです!」と両手を振り回し、フリッツは「よいご経験かと」と止める気配もない。
ひとしきり慌てたあと、リーリエは観念したように、ふう、と長く息を吐いた。
「……やっと、認めた」
「え?」
「お二人だけの世界があったこと。私がずっと、そこに入れなくて寂しかったこと。——どっちも、やっと認めてもらえました」
そうして、ようやく、咲き直すみたいに笑う。
「謝ってもらいたかったんじゃ、ないんですよ。仲間に入れてほしかっただけで」
「では」アレクサンダーが居住まいを正した。「改めて約束する。リーリエ嬢、これからは隠さない。先の天気が読めたら、君にも伝える。その代わり」
「その代わり?」
「俺たちの読みが外れたときに、笑ってくれ。最近、よく外れる」
「それなら自信があります!」
胸を張ることだろうか。でも、たぶん、これでいいのだ。
リーリエは新しいスコーンに手を伸ばし、はたと止まって、私たちを見回した。
「あの。最後に一つだけ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「お二人は、いろんなことが『二度目』なんですよね。昨日の花火も、収穫祭も、この学院も」
「……まあ、そうなりますね」
「ちょっとだけ、もったいないですね」
もったいない。予想のどの方向からも来なかった感想に、私とアレクサンダーは同時に瞬きをした。
「私は、全部が初めてです。昨日の花火も初めて。トリコルヌ……は、初めてで最後にしたいですけど。だから——これからお二人に『初めて』のことが起きたら、私が一番先に気づいてあげます。初めての顔って、見ればすぐ分かるんですよ」
二度目の世界を生きる私たちが道々で落としてきたものを、この子は両手いっぱいに抱えて歩いている。先の天気は読めなくても、今日の空の青さなら、誰より知っている子。
「……それは、心強いです」
「ふふ。それと、怒りの期限ですけど」
リーリエはスコーンの最後の一口を、ぱくりと食べた。
「いま、終わりました」
四人分の笑い声が、朝のテラスに重なった。フリッツの笑い声を聞いたのは、たぶんこれが初めてだ。
——ほら。初めてなんて、まだそこらじゅうに落ちている。




