第2話「まさか、と思う」
東庭園は、学院の敷地の端にある小さな庭だ。
授業棟からは遠く、生徒はほとんど来ない。古びたベンチが三つと、手入れが行き届かなくなった薔薇の垣根がある。ゲームの設定資料集には「王太子と悪役令嬢が幼少期に初めて出会った場所」と書かれていたが、本編には一切登場しない。
マニアックすぎる。この場所を知っている時点で、普通のプレイヤーではない。
午後の陽光が薔薇の葉を透かしている。私は約束の時間ちょうどに到着して、ベンチに腰を下ろした。
五分後、アレクサンダーが現れた。
昨日の断罪イベントでは正装だったが、今日は学院の制服姿だ。銀髪を軽く後ろに流して、上着のボタンを一つ外している。ゲームのスチルで見た「休日の王太子」のビジュアルに近い。
「待たせたか」
「いいえ、今来たところです」
嘘。五分前から座っている。でも「お待ちしておりました」と言うと従順すぎるし、ゲームの悪役令嬢クラーラは王太子に対して常に強気だった。この世界の住人として振る舞うなら、ここは軽く返すのが正解。
アレクサンダーは向かいのベンチに座った。二メートルほどの距離。近すぎず、遠すぎず。
「昨日は——突然のことで驚かせたな」
「驚きました。三日の猶予とは」
「ああ。あれは——」
王太子が言葉を切る。
視線が、一瞬だけ庭園の薔薇に向いた。古びた薔薇の垣根。手入れされていない枝が絡み合っている。
「この庭園は、静かだな」
話を逸らした。いや——逸らしたのではない。
(観察している。私がこの庭園に反応するかどうかを見ている)
幼少期の出会いの場所。ゲームを知らなければ「ただの古い庭」にしか見えない。でもゲームを知っていれば——ここが「二人の始まりの場所」だと気づく。
気づいたら、反応が出る。
出してたまるか。
「そうですね。静かで良い場所です。存じませんでした」
嘘。知っている。設定資料集の十二ページ目に載っている。
アレクサンダーの眉が、ほんの一瞬だけ動いた。
わかる。あれは「嘘だろ」の顔だ。でも言わない。証拠がないから。
「それで、殿下。三日の猶予の件ですが」
「ああ。——リンデンバウム嬢は、追放されたいのか?」
また、その質問だ。
「追放が殿下のご判断であれば、従います」
「質問を変えよう。追放されたくない理由は、あるか?」
追放されたくない理由。
正直に言えば——ない。追放された方が楽だ。地方領地でのんびり暮らせる。ゲームの悪役令嬢ルートでは追放後にそこそこ幸せに暮らしている描写がある。
でも。
この質問自体が罠だ。「追放されたくない理由がない」と答えたら、ゲームの結末を知っていることになる。追放後の生活が悪くないことを知っているから、追放を恐れない——そう読み取られる。
(面倒くさい)
心の中でため息をつく。
「追放されたくない理由……ですか。そうですね」
言葉を選ぶ。慎重に。
「家族に迷惑がかかります。リンデンバウム家の名誉も。ですから——できれば穏便に済ませていただきたいのが本音です」
当たり障りのない回答。この世界の悪役令嬢として不自然ではない返答。
アレクサンダーが、ゆっくり頷いた。
「そうか。では——断罪は、取り消す」
は?
「取り消す、とは?」
「言葉の通りだ。リーリエ嬢への嫌がらせの件は、調査の結果、誤解だったということにする。証拠が不十分だった、と」
めちゃくちゃだ。
断罪イベントは学院中の貴族が見ていた。王太子が自ら壇上で悪役令嬢の罪を読み上げたのに、翌日になって「誤解でした」は通らないだろう。
いや——通る。王太子だから。この国の権力構造上、王太子が「誤解だった」と言えば、それが事実になる。
でも。
「殿下。なぜそこまで?」
「なぜ、とは?」
「私を追放する理由は十分にあったはずです。それをわざわざ取り消すのは——」
「俺の気が変わった。それだけだ」
気が変わった。
嘘つき。
ゲームの王太子は「気が変わる」タイプのキャラクターではない。すべて計算の上で行動する冷徹な知略家。気分で断罪を取り消すなんて、ありえない。
つまり——計算がある。断罪を取り消す理由が、彼の中にはっきりとある。
(まさか——悪役令嬢を救おうとしている?)
その可能性に行き当たった瞬間、背筋が粟立った。
もしアレクサンダーが転生者で、「二周目」だとしたら。一周目のゲームで悪役令嬢の結末を見て、「救いたい」と思ったのだとしたら——断罪を止めて、追放を取り消す。辻褄が合う。
でも、なぜ?
ゲームの悪役令嬢なんて、嫌われ者だ。プレイヤーから見ても「こいつ嫌い」と思われるキャラクター。少なくとも私はそう思っていた。
それを「救いたい」と思う人間がいる?
「リンデンバウム嬢」
アレクサンダーの声で我に返った。
いつの間にか、彼が立ち上がっている。薔薇の垣根を背に、逆光で表情が読みにくい。
「三日後の断罪は取り消す。貴女はこのまま学院に残ればいい」
「……ありがとうございます」
「礼には及ばない。——ああ、それと」
アレクサンダーが、一歩だけ近づいた。甘い、けれど冷たい香り。白檀に似た、この世界の高級な香水の匂い。
「この庭園のこと、誰にも言わないでくれ」
何気ない一言。でも私の耳には全く別の意味で聞こえた。
(「この庭園の意味を知っているだろう」って——言ってる?)
まさか。
まさか、とは思う。思うけれど——確信には至らない。
アレクサンダーは薄く笑って、踵を返した。
その背中を見送りながら、私は唇を噛んだ。甘噛みした下唇に、微かな痛みが走る。
転生者かもしれない。でも、確証がない。
確証がない以上——知らないふりを続けるしかない。




