第25話「クラーラ、と呼ぶ声」
収穫祭の前日、学院の中庭は木材と藁の匂いでいっぱいだった。
特設舞台の骨組みはもう立ち上がり、生徒たちが装飾の仕上げに走り回っている。私が任されたのは旗飾りの取りつけ。舞台脇に組まれた高さ3メートルの足場に上って、支柱の先に旗を結ぶ係だ。
(悪役令嬢に高所作業をさせる学院って、どうなの)
いや、立候補したのは私である。リーリエは足首の包帯がまだ取れないし、刺繍の得意な令嬢たちは旗の縫い直しで手一杯。高いところに登れて結び目の固い人間——消去法で私になった。
足場の板は思ったよりしっかりしていた。旗布の端を支柱に回して、固く結ぶ。風が布を膨らませて、ぱたぱたと鳴る。秋の空は高く、下では誰かが「もう少し右!」と叫んでいた。
二枚目の旗に手を伸ばした、そのとき。
みし、と足元で音がした。
木の軋みではない。もっと細い、金属の悲鳴みたいな音。
見下ろすより先に、板が傾いた。
(傾いた? なんで)
大丈夫、と思った。傾いただけ。手すりを掴めば立て直せる。掴んだ。掴んだ手すりが、留め金ごと、すぽんと抜けた。
……抜けた?
視界が回る。空が見えた。さっきまで頭の上にあったはずの秋の空が、なぜか正面にある。
落ちている。
わかったのは言葉だけで、身体は何ひとつ理解していなかった。手はまだ、抜けた手すりを握りしめている。馬鹿、それはもう何も支えていないのに——
「クラーラ!」
名前を、呼ばれた。
次の瞬間、背中に衝撃が来た。
固くない。地面じゃない。腕だ。誰かの腕が背中と膝裏に回って、それでも勢いは殺しきれず、二人分の重さがもつれて転がった。草の匂い。土の冷たさ。世界が二回転して、止まる。
「……っ、は」
息の仕方を忘れていた。吸って、吐く。生きている。
目を開けると、至近距離にアレクサンダーの顔があった。
私を下にしないように転がったのだろう。地面に背をつけているのはあの人のほうで、私はその腕の中に抱え込まれる格好だった。慌てて身を起こす。
「殿下——殿下!」
「……大丈夫、か」
声が掠れている。息が浅い。額に脂汗が浮いて、顔色が紙のように白かった。
「私は大丈夫です。殿下、背中が」
「平気だ」
平気な人間は、起き上がるのに三度も息を整えたりしない。肘をついて、止まって、また肘をつく。手を貸そうとしたら、その手より早く周囲の悲鳴が届いた。
「殿下が——」「医務官を呼べ!」「足場が崩れたぞ!」
教官が駆けてくる。生徒が集まる。人垣を割って飛び込んできたフリッツは、主の泥だらけの背中をひと目見るなり、彼にしては珍しく声を荒らげた。
「殿下! 設営は係の者に任せてくださいと、あれほど」
「騒ぐな。受け身は取った」
受け身は取った、ではない。3メートルの高さから落ちてきた人間ひとりを、自分の背中ごと地面に叩きつけて受け止めておいて。
アレクサンダーはフリッツの肩を借りて立ち上がった。立ち上がって、一瞬だけ、膝が落ちる。すぐに立て直したけれど、私は見てしまった。一度見たものは、もう取り消せない。
「リンデンバウム嬢に怪我は」
「ありません。殿下のおかげで」
答えた声が、自分でも情けないほど揺れていた。
担架を勧める医務官に「歩ける」と言い張って、あの人はフリッツに支えられながら医務室へ向かった。破れた肩口から、当て布もまだない擦り傷が覗いている。
見送る私の手の中に、旗布の端切れがまだ握られていた。いつから握っていたのかも、わからない。
片付けの間、何度も医務室の方角へ目が行った。
(どうして、間に合ったの)
足場が傾いてから腕の中に落ちるまで、2秒あったかどうか。離れた場所から走って受け止めるなんて、反射神経の話ではない。
あの人は、朝からずっと舞台の下にいた。王太子が収穫祭の設営を視察するのは不自然ではない。でも思い返せば、視察にしては動かなすぎた。私が足場に上ってから、同じ場所に。
あらかじめ知らなければ、あの位置には立てない。
崩れると、知っていなければ。
考え込む私の隣に、リーリエが包帯の足首でひょこひょこと並んで、結び損ねた旗の紐を一緒に拾ってくれた。
「クラーラ様、本当にお怪我はないんですか」
「ええ。殿下が受け止めてくださったから」
「殿下、すごかったですね。まるで——落ちるのを知っていたみたいに」
拾いかけた紐の先が、指から滑り落ちた。
リーリエは旗布を畳みながら、ふふ、と小さく笑う。怒っているのでも、探っているのでもない。——静かだった。
「……って言ったら、また『運動神経がいいから』って答えが返ってくるんでしょうけど」
「リーリエさん」
「すみません、意地悪でした」畳んだ旗を、彼女は胸に抱えた。「殿下もクラーラ様も、いつも知ってるんですよね。私が驚くことを、お二人は驚かない。今日も、そうでした」
返す言葉を探す私に、リーリエは「あ、その旗、上下が逆です」と笑って、次の旗の山へ歩いていった。
爆発しない。問い詰めない。あの子はもう、そういう段階を通り過ぎて、静かな場所に立っている。そのことが、どんな詰問よりも重い。
夕方、検証の結果が掲示された。原因は足場の留め金の腐食。長雨の季節に錆びたものが、点検をすり抜けていたという。誰の悪意でもない、ただの劣化。
——ただの劣化で済むなら、どうしてあの人は、崩れる前から下で待てたのだろう。
思い当たったのは、部屋に戻って窓を閉めた後だった。
ある。見覚えが、ある。
ゲームの終盤、雪の章。冬の祝祭で観覧台が崩れて、悪役令嬢が巻き込まれる場面があった。救出も分岐も用意されていない。画面が一度暗転して、それきり彼女は立ち絵ごと物語から消える。退場のためだけに置かれた、短い場面。
季節が違う。場所も違う。崩れたのは観覧台ではなく祭りの足場で、巻き込まれたのは祝祭の客ではなく、旗を結んでいた私。でも骨組みは同じだ。トリコルヌと同じ。台本の終わりのほうの頁ばかりが破れて、前のほうに紛れ込んでくる。
あの人は気づいていたのだ。たぶん、舞台の骨組みが立った時点で。だからあの場所に立って、半日、待ち続けていた。
一周目のあの人は、この場面を画面のこちら側から見ている。
声は届かない。手も届かない。暗転していく画面の前で、消える悪役令嬢をなすすべなく見送る。応接室で聞いたあの掠れ声は、きっとこの場面のことも数えていた。
二周目の今日、腕が届いた。
届かせるために、自分の背中を地面に差し出して。
窓の桟に置いた指先が冷えていく。さっき腕の中で感じた体温との差のぶんだけ、秋の夜気が際立った。
気がつけば、医務室への廊下を歩いていた。理由は、後から考えることにした。
扉は薄く開いていて、中からフリッツの声がする。
「——湿布は朝晩に替えてください。骨に異常がないのは奇跡だと、医務官が」
「わかった。わかったから、その顔をやめろ」
「どの顔ですか」
「俺が悪うございましたという顔だ」
「事実、殿下が悪うございます」
ノックをすると会話が止まり、扉を開けたフリッツは私を見て、何も言わずに廊下へ出ていった。気を利かせたというより、これ以上主の醜態を見ていられないという顔で。
アレクサンダーは寝台の縁に腰掛けていた。シャツの背中側に、湿布の白い縁が透けている。肩口の擦り傷には当て布。消毒液の匂いが、つんと鼻に届いた。
「夜分に失礼します。お加減を伺いに」
「平気だ。打っただけだ」
「打っただけで、湿布が背中いっぱいに要るんですね」
「……医務官が大袈裟なんだ」
棒読みだった。怪我の申告まで棒読みになるのか、この人は。
窓際の椅子に腰を下ろす。聞きたいことは山ほどあった。なぜあの場所にいたのか。いつから気づいていたのか。あなたの一周目は、どこから私を見ていたのか——どれも、聞けば「なぜ知っている」がそのまま私に跳ね返る質問だ。
代わりに、いちばん小さくて、いちばん大きい質問をした。
「殿下。落ちるとき、私を——名前で、呼びましたよね」
アレクサンダーの肩が、わかりやすく固まった。
「……呼んだか」
「呼びました。クラーラ、と」
「……とっさのことで、記憶にない」
「私は一生覚えていると思います」
言ってから、自分の言葉の温度に気づいた。遅い。私の口は、いつも心より半歩先を行く。
アレクサンダーがゆっくりとこちらを向く。ランプの灯りの中でも、耳が赤いのがはっきり見えた。
「……忘れてくれ」
「お断りします」
沈黙。それから、二人同時に、息だけでふっと笑った。笑った拍子に背中へ響いたらしく、あの人は小さくうめいて、それでまた少し笑ってしまった。ひどい夜だ。ひどいのに、ちっとも嫌じゃない。
「もう休んでください。明日は収穫祭ですから」
「ああ。……リンデンバウム嬢」
戻った。呼び方が、定位置に戻った。落胆と安心が同じ場所から湧いてくるのが、我ながら謎である。
「明日——祭りのどこかで、少し時間をもらえるか」
「……ええ。空けておきます」
廊下に出ると、フリッツが壁際に控えていた。すれ違いざま、彼は深々と頭を下げる。
「本日は、殿下をお助けいただきました」
「助けられたのは私のほうです」
「いいえ」フリッツは静かに首を振った。「あなたが無事でなければ、あの方は今夜、湿布では済まない傷を負っておられました」
自室に戻って、窓を細く開けた。夜風が頬を撫でる。冷たいのに、胸の奥だけが熱を持ったまま冷めない。
クラーラ、と呼んだ声。差し出された背中。画面のこちら側から、世界のこちら側へ——二周ぶんの距離を、あの人は今日、2秒で詰めてみせた。
知らないふりの蓋が、胸の中できしんでいる。釘が一本ずつ抜けていく音がする。
明日。祭りのどこかで。
あの人が何を言うつもりなのか、先が読めない。台本を全部覚えてこの世界に来たはずの私が、初めて、明日の頁を知らない。
知らないのに——怖くないのが、いちばんの限界だった。




