第24話「台本が通じない」
トリコルヌ事件の翌日から、空気が変わった。
野外演習は当面中止。森への立ち入りは禁止され、騎士団の調査隊が入った。短剣一本で魔獣を仕留めた王太子の武勇は学院中の語り草になり、当の本人は「運がよかった」と棒読みで返している。運で魔獣の急所は突けない。
そして、もっと大きな変化がある。
ゲームの展開が、当たらなくなった。
ゲームのシナリオなら、秋のこの時期——物語で言えば第五章のあたりに、聖女リーリエの魔力覚醒イベントが来るはずだった。学院の礼拝堂で突然光に包まれ、教官が「これは……聖女の力!」と叫ぶ、あのイベントだ。
来ない。
三日待っても来ない。
礼拝堂を毎朝チェックしに行ったが、リーリエはいつも通り花に水をやっているだけだった。捻挫した右足首にはまだ包帯が巻かれていて、水差しを持ってひょこひょこ往復するものだから、見かねた下級生が手伝っている。光に包まれる気配はゼロだ。
(おかしい。タイミングがずれている)
もう一つ。
同じ時期には「宰相派による王太子排斥の噂」が流れるはずだった。それにアレクサンダーが毅然と対応して、好感度が上がるイベント。
これも来ない。
代わりに起きたのは、学院の食堂でシチューの大鍋がひっくり返ったことと、図書室の蔵書整理で禁書区画の鍵が見つからなくなったことだ。
ゲームに全く関係ない。シチューの掃除で一日が潰れた。しかも厨房によれば、こぼした原因は床の蜜蝋掃除のしすぎで足が滑ったからだという。蜜蝋。あの単語には当分、にらみを利かせていきたい。
(……禁書区画の鍵。まさかあの人、また何かやったんじゃ)
いや、考えすぎだ。書庫の鍵騒ぎは一度で勘弁してほしい。鍵は結局、翌日に司書の引き出しから出てきたらしい。世界は時々、ゲームと無関係に散らかる。
「クラーラ様、どうかしましたか? 朝からずっと難しい顔をしていますけど」
リーリエが首を傾げた。朝食のテーブルで、私はパンをちぎったまま手を止めていたらしい。
「いえ——少し、予定通りにいかないことがあって」
「予定?」
「その、勉強の計画が」
苦しい。嘘がどんどん苦しくなってくる。
ゲームの展開を「台本」として頼りにしてきた私にとって、台本が通じない状況は恐怖だ。次に何が起きるかわからない。仕込まれた罠も、避けるべき死亡フラグも、全部見えなくなる。
「無理は禁物ですよ。あ、来週から収穫祭の準備も始まりますし」
リーリエが包帯の足首をものともせず、楽しそうに言う。中庭に特設舞台を建てて、学院中が浮き立つ秋の祭り。彼女はこういう行事を、本当に世界の中から楽しんでいる。台本の照合なんてせずに。少しだけ、羨ましい。
午後の魔法学の授業中、隣の席のアレクサンダーが小声で話しかけてきた。
「……リンデンバウム嬢」
「はい」
「最近、何か気になることはないか」
(気になることだらけだ)
「特には。殿下は?」
アレクサンダーの眉間に、わずかな皺が寄った。
「予測と違うことが増えている」
予測。
この人も、同じことを感じていた。転生者の勘が一致する瞬間。ゲーム通りに進まない世界への不安が、二人の間で共鳴する。
「……殿下のおっしゃる予測とは」
「天気予報だ」
また天気。この人、困ると天気のせいにする癖があるのだろうか。
「殿下、最近天気の話が多くないですか」
「気のせいだ」
フリッツが後ろの席で「気のせいではありません」と小声で呟いた。聞こえている。
放課後、私は一人で学院の回廊を歩いていた。
壁に掛けられた歴代学院長の肖像画が、ランプの灯りでゆらゆらと揺れている。三代前の学院長の肖像画は妙に目つきが悪く、夜に見ると心臓に悪い。今夜も目が合った。負けた気がして早足になる。
(来るはずのものが、来ない。来ないはずのものが、来る)
トリコルヌがそうだった。あの獣は本来、物語の終盤に出てくるはずのものだ。それが季節も場所も間違えて、ふらりと前倒しで現れた。台本の頁が破れて、順番が入れ替わっている。
考えられる答えの一つ目。私とアレクサンダーが、シナリオを変えすぎた。本来あるべき行動を取らなかったぶんだけ世界の歯車がずれて、イベントの順番が崩れている。バタフライエフェクト。羽ばたきどころか、二人がかりで季節風を起こし続けてきたのだから、当然の報いかもしれない。
二つ目。そもそもこの世界には、「ゲーム通り」に動く義務がないということ。
どちらにしても、結論は同じだ。私たちの台本は、もう信用できない。頼れるのは即興と——同じ舞台の上で、同じ事情を抱えて立っている、もう一人の役者だけ。
回廊の角を曲がったとき、ぶつかりそうになった。
「わっ」
「すまない」
アレクサンダーだった。向こうも一人で歩いていたらしい。考え事をしていたのか、珍しく驚いた顔をしている。
「殿下こそ、こんな時間に」
「少し考え事を」
「奇遇ですね。私もです」
また奇遇。この学院で二人きりになる確率が高すぎる。ゲームの力か、それとも単に、考え込む人間の足が向かう場所は似るのか。
「……リンデンバウム嬢」
「はい」
「もし——台本のない舞台に立たされたら、どうする」
息が詰まった。
台本のない舞台。
この人は今、ゲームの展開が崩れてきたことを比喩で言っている。しかも私に聞いている。この質問自体が、「お前もゲームを知っているだろう」という告白に限りなく近い。
答えを間違えたら、全てが崩れる。
「……即興で演じるしかないのでは」
慎重に、言葉を選んだ。
「台本があったほうが安心です。でも、台本がなくても物語は続きますから」
アレクサンダーが目を見開いた。
すぐに、ふっと口元が緩む。
「そうだな。——続くな、確かに」
笑っていた。穏やかに、少しだけ寂しそうに。
その表情がゲームのどのスチルにもないものだったから、私は見とれてしまって、慌てて視線を逸らした。
窓の外。月が昇り始めている。夜風が回廊を抜けて、髪を揺らした。冷たい。秋が、日ごとに深まっていく。
「戻りましょう。遅くなりました」
「ああ」
並んで歩く。台本のない二人。
来週には収穫祭が来る。ゲームでは何も起きない、ただの楽しい祭りのはず——という予測を、私はもう半分しか信じていない。
次に何が起きるか、誰にもわからない。わからないまま、隣を歩く人の足音だけが、妙に確かに聞こえていた。




