第23話「ゲームにない展開」
あの夏至の奉献式から、夏がまるごとひとつ過ぎた。
学院の制服は夏物から替わり、中庭の楡の葉が黄色く縁取られはじめている。リーリエの手の傷はとうに癒えて、彼女は前と同じように笑う。前と同じように、でも、あの日の言葉は一度も繰り返さずに。繰り返されないことが、かえって忘れさせてくれない。私とアレクサンダーは、あれから何度か図書室で「奇遇」を重ねて、口をきける程度には戻った。
戻った、というのは正確ではないかもしれない。前と同じ場所には戻っていない。沈黙の底に一枚、あの日の借りが沈んだままで、私たちはその上で以前と同じ茶番を続けている。視線が合えば逸らし、廊下で会えば「偶然ですね」と言い合う。けれどお互い、もう知っている。この知らないふりには、代金がつくことを。
——そんな秋の日の授業が、野外演習だった。
学院の裏手に広がるエルベルク森林。魔法陣の実地訓練という名目で、生徒たちが班に分かれて森に入る。ゲームでも秋の定番イベントだ。落ち葉を踏む音、湿った土と苔の匂い。頬をかすめる風はもう冷たくて、夏の終わりをはっきり告げている。
「全員、動くな!」
教官の怒号が、木々の間を突き抜けた。
地面が、低く震えた。靴底から伝わる振動。鳥の群れが一斉に梢から飛び立って、空が一瞬だけ黒くなる。
鉄錆の匂い。生臭い、獣のにおい。
森の奥から現れたのは、角が三本ある巨大な猪——トリコルヌ。本来はエルベルク森林の深部にしか生息しない魔獣で、学院の演習区域に現れるはずがない。
(台本に、ないんですけど)
ゲーム一周分の記憶を必死で掘り起こす。森のイベント。野外演習。魔獣の出現。どれだけ引っ張り出しても、少なくともこの時期のシナリオに、こんな展開は存在しない。攻略サイトにも書いてなかった。この時期の野外演習は、ハーブを採集して帰るだけの平和イベントだったはずだ。
——いや。
魔獣のイベント自体なら、見覚えがある。物語のずっと終盤、雪の章のどこかで戦う大型の獣。でも季節も場所もまるで違う。本来なら、こんなところに出てくるはずのものじゃない。
なのに目の前にいるのは、学院のハーブ畑を踏み荒らす巨大猪である。
トリコルヌが前脚で地面を掻いた。土煙が上がる。目が赤い。完全に興奮状態だ。湿った鼻息の音が、この距離まで届く気がする。
生徒たちが教官の指示で後退していく。悲鳴と、折れる枝の音と、誰かが転ぶ音。その流れの中で、私は足が動かなかった。動かなかったのではなく、動けなかった。
足元に、リーリエがいた。
さっきの突進で転んだのだ。右足首を押さえて、顔を歪めている。
「リーリエさん、立てますか」
「す、すみません、足が——」
捻挫だ。まずい。トリコルヌがこちらを向いている。三本の角が秋の陽を反射して鈍く光った。
彼女の腕を肩に回させて、近くの倒木の陰まで引きずるように下がる。土の冷たさが膝に染みた。リーリエの呼吸が浅い。私の心拍も、たぶん同じくらい浅い。
「すみません、私のせいで、クラーラ様まで」
「喋らないで。舌を噛みますよ」
(ゲームにない敵。ゲームにない状況。前世の知識が、通じない)
頭が真っ白になりかけた、そのとき。
「全員下がれ!」
アレクサンダーの声だった。
振り返ると、王子が剣を抜いていた。授業用の訓練剣ではなく、腰に吊っていた本物の——いや、あれは護身用の短剣だ。あの長さで魔獣と戦う気か。
「殿下、危険です!」
フリッツが制止するが、アレクサンダーはすでに駆け出している。
トリコルヌの突進をぎりぎりで横に躱し、短剣で角の付け根を狙った。金属と骨がぶつかる甲高い音。弾かれた。力が足りない。巨体が振り向きざまに薙いだ角が、王子のマントの端を裂く。
「殿下!」と、フリッツの悲鳴に近い声。教官たちが魔法陣を展開しようとしているが、詠唱が間に合っていない。重い足音の振動が、地面づたいに私の膝まで響いてくる。
あの動きでは、決め手がない。躱し続けるしかない。そして躱し続ければ、いつか躱しそこねる。
でも私は知っている。トリコルヌの弱点を。
ゲームの攻略情報ではなく、前世の動物学の授業で読んだ本の記憶。三本角猪のモデルになった実在の動物——サイの一種は、耳の後ろの皮膚が薄い。そしてこの世界の魔獣図鑑にも、同じ記述があった。
叫べばいい。たった一言。
——叫べば、「なぜ知っている」と問われる。
喉の奥で、声が凍った。
奉献式の朝と、まったく同じ場所で、まったく同じ理由で。黙っていれば怪しまれない。黙っていれば私の正体は安全で——黙っていた結果がどうなったかを、私はもう知っている。
白い祭服に落ちた赤。包帯の白。「私だけ、何も知らされないんですね」。
黙って後悔するのは、一度で十分だ。
「殿下!」
叫んでいた。叫べた。
「耳の後ろ! 角じゃなくて耳の後ろを!」
アレクサンダーが一瞬、こちらを見た。
その目が。
(なぜそれを知っている)と問いかけていた。
一秒。視線が交差する。
知っているんです、と目で返した。理由は聞かないで。あなたと同じで、説明できないから。
次の瞬間、アレクサンダーは迷いなく方向を変えた。トリコルヌの突進を紙一重で横にかわし、回り込みながら短剣の握りを順手から逆手に替える。その手つきに、迷いがなかった。まるで一度、どこかで同じ獣と向き合ったことがあるみたいに。
短剣が、耳の後方に突き立った。
魔獣の悲鳴が森の空気を割った。鼓膜の奥が痺れるような音圧。前脚が崩れ、巨体が地響きとともに倒れる。土と千切れた草の匂いが舞い上がって、それから——静寂が、森に戻ってきた。
自分の口の中が、からからに乾いていた。
倒木の陰で、リーリエが小さく息を吐く。
「……勝った、んですよね?」
「ええ。勝ちました」
「……リーリエさん、大丈夫ですか。足は」
リーリエの肩を支え直す。手が震えている。私の手が。
「はい、私は——クラーラ様こそ、すごい。なぜ弱点を」
「た、たまたま本で読んだことがあって」
苦しい言い訳だ。野外演習で魔獣図鑑の知識がたまたま出てくる令嬢がどこにいる。
でも、後悔はなかった。あの一瞬、喉が凍って、それでも声を出した。出せた。それでよかったと、震える手のままで思う。
教官たちが駆けつけてきて、生徒たちの安全確認が始まった。リーリエは教官に支えられ、足を引きずりながら救護の列へ運ばれていく。離れ際に振り向いて、「クラーラ様、ありがとうございました」と笑った。あの笑顔に、今日は嘘の影がない。
よかった、と思う。守れた。奉献式の朝に守れなかったものを、今日は一つだけ。
騒然とした中で、アレクサンダーが短剣の血を草で拭いながら、こちらに歩いてきた。
「リンデンバウム嬢」
「は、はい」
「助かった。あの助言がなければ仕留められなかった」
「いえ、殿下こそ。あの突進を躱す判断は——」
普通の会話だ。戦闘後の、ごく普通のやり取り。
でも、アレクサンダーの目は「普通」ではなかった。琥珀色の瞳が、探るように私を見ている。
(なぜ知っていた?)
その問いが、声にならないまま空気に溶けた。
聞かないでくれるのだと、少ししてから気づく。書庫のときと同じだ。「今日は聞かない」。この人はいつも、踏み込める場所の半歩手前で止まる。
「……偶然だな」
「ええ。偶然です」
二人して、嘘をついた。
ついた嘘の質が、前と少し違っていた。隠すための嘘ではなく、かばい合うための嘘。同じ棒読みなのに、不思議と嫌な味がしない。
フリッツが遠くで頭を抱えているのが見えた。彼は彼で、この偶然の連鎖をどう処理すればいいのか悩んでいるのだろう。側近は大変だ。
私は自分の班に戻った。足が少しふらついている。膝の裏が、まだ震えていた。
(ゲームにない展開が起きた。ゲームの知識では対処できない状況が)
いや——正確には、少し違う。
あの獣は、本来なら終盤に出てくるはずのものだった。それが季節外れに、場所違いに、ふらりと現れた。台本の頁が、破れて順番が入れ替わっているような気味の悪さ。私とあの人がシナリオを変え続けてきたことと、無関係だと言い切れるだろうか。
森の梢を見上げた。葉の隙間から午後の陽が差し込んで、地面にまだらの影を落としている。樹皮の匂いと、倒れた魔獣の獣臭が混じって、鼻の奥がつんとした。
この世界は、もうゲームの枠には収まらない。
それは怖いことだ。でも——アレクサンダーがいる。同じ知識を持ち、同じ不安を抱え、同じ茶番を演じている共犯者。台本がなくても、二人ならどうにかなるかもしれない。
いや。まだ知らないふりをしている相手を「共犯者」と呼ぶのは早い。
でも心のどこかで、もう手遅れだということは、わかっていた。




