第22話「言いたいのに言えない」
奉献式から、数日が経った。
銀杯の持ち手から蜜蝋が見つかったのは、翌日のことだ。教会側の検分は早かった。例の令嬢たちには謹慎が言い渡され、「聖女様の管理が」と囁いていた声は、何事もなかったかのように向きを変えた。
リーリエの濡れ衣は晴れた。手の傷も、もう包帯が取れたらしい。——らしい、というのは、あれから顔を見に行けていないからだ。医務室での笑顔と「私だけ、何も知らされないんですね」を思い出すたびに、扉を叩く手が止まる。
表向きは、全部元通り。
でも私は、あの日からアレクサンダーと一度も口をきいていない。
廊下ですれ違えば会釈はする。昼食の席で必要なら相槌も打つ。けれど目は合わせない。合わせられない。あの人の目を見ると、聖堂裏で自分が吐いた棒読みと、破片を拾うリーリエの手と、それを席から見ていただけの私が、まとめて返ってくるから。
だから図書室で二人きりになったのは——計画ではなかった。
私は魔法陣の構成式を調べに来ただけだし、アレクサンダーは、なぜいるのか知らないが、奥の閲覧席にいた。
西向きの窓が夕陽を受けて、革張りの背表紙が橙色に光っている。古い紙とインクの匂い。図書室特有の、静かな埃っぽさ。
他に誰もいない。
「……奇遇だな」
アレクサンダーが本から顔を上げて言った。
「ええ、奇遇ですね」
数日ぶりに交わした言葉が、よりにもよって「奇遇」。この単語、私たちの間ではそろそろ「気まずい」の同義語になりつつある。
引き返すなら今だった。でも、ここで引き返したら、次はもっと話せなくなる気がした。私は棚から本を一冊抜き取り、向かいの席に座る。テーブルを挟んで、ちょうど正面。
ページを開く。文字が頭に入らない。
アレクサンダーもページをめくっている。でも、その速度が不自然だ。三秒に一回。読んでいるのではなく、めくっている。
(お互い、読む気がない)
沈黙が落ちた。
図書室の時計が、かちり、かちりと秒を刻む。窓の外で鳥が鳴いた。遠くの訓練場から、剣がぶつかる金属音がかすかに届く。
何か言うべきだろうか。いっそ天気の話でも? 今日はいい天気でしたね。ええ、明日も晴れますわね。——だめだ。天気はあの人の十八番だ。借りたら負けな気がする。
以前の沈黙とは、重さが違った。
前は、言いたいことが一つあるだけだった。あなたが転生者だと知っている。私も転生者だ。お互いもう、とっくにバレている——たった三つの文。声に出せば五秒もかからないのに、その五秒分の勇気が出ない。前の沈黙は、そういう種類のものだった。
今は、その上にもう一枚、重しが載っている。
知らないふりを続けた結果が何だったか、私たちはもう見てしまった。リーリエの手のひらの赤。「私だけ、何も知らされないんですね」。二人とも知っていて、二人とも黙って、その代金を全部、何も知らない子に払わせた。
これは、共犯者の沈黙だ。
「リンデンバウム嬢」
顔を上げた。
アレクサンダーが本を閉じていた。こちらを真っ直ぐ見ている。夕陽が琥珀色の瞳を透かして、金色に光らせている。
「一つ、聞いてもいいか」
心臓がうるさい。
「……何でしょう」
「君は——」
言いかけて、止まった。
唇が開いて、閉じて、また開いた。何かを選んでいるような、何かを手放そうとしているような。
「……いや。何でもない」
閉じた。
今、この人は言おうとした。「君は転生者か」と。あるいは「俺は転生者だ」と。
でも言わなかった。
「そうですか」
私もまた、何も言わなかった。
本を開き直す。文字の列が夕陽にぼやける。
言いたいのに、言えない。
ページをめくる。アレクサンダーもページをめくる。読んでいない二人が、読んでいないページをめくり続ける。
かちり。かちり。時計だけが正直に時を刻んでいる。
「——殿下」
今度は私が口を開いた。
アレクサンダーの手が止まる。
「私、思うんです」
声が震えないように、膝の上で拳を握った。
「もし——もしも、誰かが大きな秘密を持っていたとして」
琥珀の瞳が揺れた。
「その秘密を打ち明けたら、何かが変わってしまうかもしれない。でも、黙っていたせいで誰かが傷つくことも——もう、あるとわかってしまった」
「……」
「そういうとき、どうすればいいんでしょうね」
仮定の話だ。どこまでも仮定の話。でも、その仮定が何を指しているかなんて、この人にはわかっている。
アレクサンダーが、ゆっくりと息を吐いた。
「……俺なら」
夕陽が、少し傾いた。二人の影がテーブルの上で長く伸びる。
「まだ、黙っている」
「誰かが傷ついても、ですか」
意地の悪い聞き方だと、わかっていた。アレクサンダーは目を逸らさなかった。
「——あの日から、ずっと考えている。黙っていたことと言えなかったことは、同じ罪なのか、違う罪なのか」
「答えは出ましたの」
「出ていない。出ていないが」
一拍。
「打ち明けて失うものと、黙っていて誰かに払わせるもの。その天秤が、前と同じ場所では釣り合わなくなった。それでも——今は、まだ黙っている。今は、まだ」
「今は」を強調した。まだ、と言った。二回も。
つまり、いつかは。
「そうですか」
笑った。泣きそうな顔で笑っていないことを祈りながら。
「私も——まだ、黙っています。天秤の傾きは、覚えておきますけれど」
アレクサンダーの目が、ほんの一瞬、大きく開いた。
今の「私も」が何を意味するか、気づいただろうか。いや、気づいている。この人は最初から気づいている。
でもお互い、それを認めない。
知らないふりは、私たちを守ってきたのか。それとも、少しずつ何かを傷つけてきたのか。答えはきっと両方で、両方だと知った上でまだ続けるのだから、これはもう癖ではなく選択だった。
「日が暮れるな」
アレクサンダーが窓の外を見た。空が橙から紫に変わり始めている。
「ええ。そろそろ戻りましょう」
本を棚に戻す。指先が背表紙に触れた。革の冷たさ。
出口に向かう。アレクサンダーが先に扉を開けてくれた。すれ違う瞬間、彼のマントの端が私の手に触れる。布の温かさが一瞬だけ残って、消えた。
廊下に出ると、ランプに火が灯っていた。夕刻、鍛錬の終わった訓練場は静まり返っている。
「リンデンバウム嬢」
「はい」
「また——図書室で会えるか」
振り返らずに言った。背中しか見えない。
奇遇のふりは、もうしないらしい。
「……ええ。きっと」
嘘つきの二人が、一つだけ本当のことを約束した夕暮れだった。




