第21話「嘘が下手な二人」
翌日の昼食は地獄だった。
いや、地獄は言い過ぎかもしれない。煉獄くらいだ。
向かいにアレクサンダーが座っている。昨日、壁越しに聞いたあの声が、まだ耳の奥に残っているというのに。
(助けられなかったことがある)
やめろ。思い出すな。今は昼食の時間だ。冷製スープの時間だ。
「クラーラ様、最近、殿下とよく目が合いますよね」
リーリエがスプーンをくるくる回しながら言った。
スープが気管に入りかけた。
「そ、そうかしら。気のせいでは」
「気のせいじゃありません。さっきもこちらを見ていらっしゃいました。3回、数えました」
アレクサンダーの手が、ぴたりと止まる。パンを持ったまま石像のように固まっている。
「……見ていない」
棒読みだった。昨日の今日でそれか。
「見てましたよ?」
「光の加減だ」
光の加減で3回も視線が合うわけがない。隣でフリッツが小さくため息をついている。昨日の今日なので、ため息の含蓄が深い。
「ふふ。クラーラ様も殿下も、嘘が下手ですね」
リーリエが両手で頬を支えて笑う。
(知ってる)
このテーブルで嘘が上手い人間は一人もいない。転生者特有の察しの良さはお互いピカイチのくせに、隠す能力だけは底辺。前世でポーカーをやったら、二人とも初手で負けるタイプだ。
——このときの私は、まだ笑えていた。
嘘が下手なら、せめて嘘をつかなければいい。そんな単純なことに気づくのは、もっと後になってからだ。
異変に気づいたのは、その日の放課後だった。
回廊の柱の陰で、令嬢が3人、声を潜めて笑っていた。ゲームで悪役令嬢クラーラの取り巻きだった顔ぶれ。二周目の私が取り巻きを持たないと決めたから、今は私と関わりのない、ただ意地の悪いだけの令嬢たちだ。
「——奉献式で——」
「——聖女様の銀杯に——」
「——蜜蝋を——」
切れ切れに拾った単語が、頭の中で一枚の絵になる。
知っている。この絵を、知っている。
ゲーム三章後半の小イベント。夏至の奉献式——聖女が代々の銀杯を祭壇に捧げる儀式で、悪役令嬢の取り巻きが杯の持ち手に蜜蝋を塗る。聖女は満座の前で杯を取り落として砕き、「聖女ともあろう方が」と嘲笑を浴びる。
ゲームで細工を命じるのは、悪役令嬢クラーラだった。
私は何も命じていない。それなのに、イベントだけが律儀に起きようとしている。シナリオの慣性。私が脚本から降りても、舞台は勝手に幕を開けるらしい。
顔を上げたとき、回廊の反対側にアレクサンダーがいた。
令嬢たちを見て、それから、私を見た。
目が合った瞬間にわかってしまった。聞こえていたのだ、あの人にも。そして思い出している。一周目に見た、このイベントを。
琥珀色の瞳が私に問う。(気づいたか)
私の目も、答えてしまっている。(気づいてます)
ここまで通じ合っておいて、私たちはどちらも、口を開かなかった。
その夜、私は机に向かって羽根ペンを3本だめにした。
リーリエに警告する文面を、考えては破り捨てる。
『奉献式の銀杯に細工がされています』——誰が? どうして知っているの? 差出人のない手紙は脅迫状として扱われるのが関の山で、筆跡を辿られたら終わる。悪役令嬢が聖女の儀式の細工を言い当てた。それは警告ではなく、自白として読まれる。二度目の断罪の薪に、これほどよく燃えるものはない。
では教官に? 根拠は盗み聞きの切れ端だけ。証拠もなく同級生を告発すれば、公爵家の権勢で令嬢たちを潰す悪役令嬢の構図ができあがる。これも薪だ。
では令嬢たちに釘を刺す? 悪役令嬢が聖女をかばう——不自然すぎて、やはり「なぜ」と問われたら返す言葉がない。
どの道を選んでも、行き止まりに同じ問いが立っている。
——なぜ、知っているの?
羽根ペンの先が、またぽきりと折れた。インクが指先を黒く汚す。
(大丈夫。あの人が動く)
気づけば、そう考えていた。アレクサンダーはいつも先回りしてきた。偽給仕のときも、書庫のときも。王太子の権限なら、令嬢たちを怪しまれずに止める方法がいくらでもあるはず。私と違って、あの人なら動ける。
それに、あれはゲームでは小さな出来事だ。リーリエは恥をかいて、泣いて、それで終わる。誰も死なない。断罪にも繋がらない。
……そうやって自分に言い聞かせる声のいやらしさには、気づかないふりをした。
知らないふりは得意だ。ずっと練習してきたから。気づかないふりも、同じ筋肉でできている。
夏至の奉献式は、雲ひとつない朝に始まった。
聖堂に全校の生徒が並ぶ。乳香の煙が高窓の光の帯をゆっくり横切って、石壁の聖句を霞ませていた。私の席からは祭壇への階段がよく見える。アレクサンダーは王族の席。表情までは見えない。
リーリエが、銀杯を捧げ持って進み出る。
白い祭服。真剣な横顔。代々の聖女が受け継いできた銀杯は、両腕で抱えるほどの大きさがある。
(あの人が、止めたはず)
階段の一段目。二段目。
三段目で、リーリエの指が滑った。
銀杯は一度、彼女の腕の中で跳ねた。リーリエは必死に抱え直そうとして——届かなかった。
石の床で、銀杯が砕けた。
音は、思ったより軽かった。軽いのに、聖堂の隅々まで届いた。乳香の煙だけが、何事もなかったように流れ続けている。
嘘でしょ。
止まっていたのは私の息だった。起きた。本当に起きた。画面の中の小イベントが、目の前で、本物の音を立てて。
忍び笑いが、さざ波のように広がっていく。
「まあ……聖女様ともあろう方が」
「あの杯、300年前から伝わるものでしょう?」
「管理を任されていたのは聖女様ご自身ですもの。ねえ?」
ねえ、と笑い合う声の中心に、あの3人がいた。
リーリエは床に膝をついて、破片を素手で集めようとしていた。司祭が止めるより早く、細い指が銀の縁をつかむ。
赤いものが、白い祭服の袖に落ちた。
手のひらを切ったのだ。それでもリーリエは拾うのをやめない。「ごめんなさい」と小さく繰り返しながら、欠片を一つずつ、震える手で集めている。
立ち上がりかけて、膝が椅子を鳴らした。でも、そこまでだった。立って、何を言う? 「細工です」と叫ぶ? なぜ知っているのかと、聖堂中の目が私に向くだけだ。
王族の席を見た。
アレクサンダーは、動いていなかった。
拳を膝の上で固めて、まっすぐ祭壇だけを見ていた。
ゲームのこのイベントには、続きがある。嘲笑の中で王子が立ち上がり、聖女の隣に膝をついて破片を拾う。『杯は砕けても、捧げる心は砕けない』——好感度の上がる、見せ場の台詞。
王子は、動かなかった。
私と同じ理由で動けないのだと、わかってしまった。ここで台本通りに動けば、台本を知っていると認めるのと同じだから。
結局、リーリエを助け起こしたのは年老いた司祭だった。彼女は血の滲む手で最後の欠片を捧げ持ち、深々と頭を下げた。
「……申し訳、ありませんでした」
誰のせいでもないのに。
誰のせいか、私は知っているのに。
式の後、私は人の流れに逆らって、聖堂裏の回廊に出た。
そこにアレクサンダーがいたのは、偶然ではなかったと思う。お互い、同じものから逃げてきたのだから。
「殿下」
声が、自分でも驚くほど硬かった。
「殿下なら——止められたのではありませんか」
踏み込んではいけない領域だと、わかっていても止まらなかった。
アレクサンダーがゆっくり振り返る。その目には、見たことのない色があった。怒りに似ていて、もっと内側に向いた色。
「……君こそ、ずいぶん落ち着いて見ていたな」
「なんのことでしょう」
「あの令嬢たちの動きに、君が気づいていなかったはずがない」
「なんのことか、わかりかねますわ」
言いながら、自分の声が完璧な棒読みになっているのがわかった。あの人と同レベルの、壊滅的な棒読み。こんなところでお揃いにならなくていいのに。
「——そうか」
アレクサンダーは短く言った。
「俺は、君が動くと思っていた。君はいつも、俺より先に動くから」
「っ……私は、殿下が動くと」
言い返した声が、途中で失速した。
同じだ。私たちは完全に同じことを考えて、同じ期待を相手に押しつけて、同じ場所で黙っていた。鏡に向かって怒っているのと変わらない。
わかっているのに、苛立ちは消えなかった。自分への嫌悪を相手にぶつけている自覚があって、それでもやめられない。この人に苛立っている間だけは、破片を拾うリーリエの手を思い出さずに済むから。
「失礼します」
頭を下げて、返事を待たずに歩き出した。アレクサンダーは引き止めなかった。
回廊の柱の影が、二人の間に何本も横たわっていた。
夕方、医務室を訪ねた。
せめて見舞いを、というのは口実で、本当は何をしに来たのか自分でもわからないまま、扉を叩いていた。
「クラーラ様! 来てくださったんですか」
リーリエは寝台の縁に腰掛けて、いつもの顔で笑った。右手に包帯。白い布から、消毒液の匂いがつんと漂う。
「手は——」
「掠り傷です。聖女なのに、自分の傷は治せないんですよ。変ですよね」
冗談めかして言って、リーリエは包帯の上から自分の手のひらをそっと押さえた。
「杯のことは、いいんです。司祭様が、形あるものはいつか壊れるものだとおっしゃってくださって。でも……」
窓の外に目をやる。夕焼けが、彼女の横顔を半分だけ染めていた。
「式の間じゅう、考えていたんです。変なことを」
「変なこと?」
「クラーラ様と殿下は、今日、一度も驚いていらっしゃらなかったなあって」
医務室の空気が、すっと薄くなった気がした。
「みんな悲鳴を上げたり、立ち上がったりしていたのに。お二人だけ、最初から最後まで——何かを確かめるみたいな目で、ご覧になっていました」
「それは……」
「お二人って、いつも偶然会いますよね。私、その偶然に一度も混ざれたことがないのに——って、前に言ってしまったこと、覚えていますか」
覚えている。回廊での、あの一瞬の顔。
「あのときから、ずっと思っていました。お二人は何かを知っていて、それはきっと、私の知らない何かなんだろうなって」
リーリエは笑顔のままだった。笑顔のまま、まっすぐ私を見た。
「私だけ、何も知らされないんですね。今日みたいな日でも」
返す言葉が、どこを探してもなかった。
謝れば、認めることになる。否定すれば、嘘がもう一つ増える。黙っていれば——黙っていたことこそが、今日の私の罪のすべてなのに。
「……あっ、ごめんなさい! 怪我をした日って、心が弱くなるみたいです」
リーリエはぱっと両手を振って、それから包帯に響いたのか、小さく「いたた」と眉を寄せた。
「来てくださって、嬉しかったです。本当ですよ?」
その一言が、今日聞いたどの言葉より深く刺さった。嘘が下手な私たちと違って、この子の言葉には、嘘の混じりようがないのだ。
医務室を出ると、廊下はもう薄暗かった。
ランプに火を入れて回る用務の老人とすれ違う。遠くの食堂から、夕食のスープの匂いが流れてくる。世界は何事もなかったように夜の支度をしている。砕けたのは銀杯一つ。怪我は掠り傷一つ。
——そう数えようとした自分が、心の底から嫌になった。
嘘が下手な二人、とリーリエは笑った。
その通りだ。嘘が下手なくせに、知らないふりだけは一人前に続けて、一番嘘をついてはいけない子に、一番大きな嘘をつき続けた。
窓の外は、よく晴れた夜だった。明日もきっと晴れるのだろう。
あの人の下手くそな「天気が読めるんだ」を、なぜか今になって思い出す。読めるなら、教えてほしかった。今日という日に、こんな土砂降りが降ることを。




