第20話「何のことだ(棒読み)」
フリッツの言葉が、応接室の空気を凍らせた。
「殿下は——転生者ではないかと」
私は扉の陰で息を殺していた。
なぜここにいるかというと、舞踏会の後始末の書類を届けに来たのだ。応接室の扉が薄く開いていて中からフリッツの声が聞こえ、内容が内容だったので反射的に壁に張りついた。盗み聞きではない。戦略的情報収集である。
アレクサンダーの声が返ってくる。
「何のことだ」
棒読みだった。
壊滅的なまでの棒読み。学院の演劇部に入部したら初日で追い出されるレベルである。
(この人、嘘をつくのが下手すぎる)
「殿下。まず、先日の書庫の件です」
書庫。壁に押しつけた背中が、勝手にこわばった。あの日のことだ。私とこの王子が、言葉にしないまま共犯になった日。
「あなたは手続きも待てないほど急いで鍵をお求めになった。初めて入られるはずの書庫で、迷わず奥の区画へ向かわれた。そして『見つからなかった』とおっしゃった文書の管理番号が、その日のうちに台帳から消えています」
「……台帳の不備だろう」
「私が確認したとき、番号を消した線のインクは、まだ新しゅうございました」
沈黙。
(詰んでる。完全に詰んでます、殿下)
「偽給仕の件もです。あなたは騒ぎが起きる前に、あの男が偽物だと見抜いておられた。舞踏会では、最初の一曲をリンデンバウム嬢に申し込むと——会場の誰よりも先に、当然のことのように決めておられた」
「勘がいいだけだ」
「リンデンバウム嬢も同じです。音楽祭の曲目変更を言い当て、偽の給仕を騒ぎの前に遠ざけ、舞踏会ではあなたの申し込みに、会場で唯一驚いておられなかった。殿下とあの方は、同じ種類の振る舞いをなさいます。まるでお二人だけが、同じ台本を読んでいるかのように」
(待って。どさくさに紛れて私の分まで列挙しないで)
「……天気が読めるんだ」
天気。天気と来たか。
私は壁の向こうで唇を噛んだ。笑いを堪えるのに必死だ。天気が読めると書庫の棚の位置までわかるのなら、この国の気象台は宮廷書庫より物知りということになる。
フリッツが沈黙する。長い沈黙。紅茶のカップが置かれる陶器の音だけが響いた。その沈黙には「本気でそれで押し通すおつもりですか」という感情がびっしり詰まっていた。
「殿下。もうひとつだけ」
フリッツの声が、一段低くなる。
「舞踏会の夜。あなたは申し込みの口上を述べながら、リンデンバウム嬢の返事を最後まで聞く前に頷いておられました。返事の言葉を、先にご存じだったかのように」
長い間が空いた。
扉の隙間から、衣擦れの音。それから、独り言のような声がぽつりと落ちた。
「——一周目の台詞は、覚えている」
……は?
「は?」
フリッツの声と、私の心の声が完全に重なった。
「一周目、とは」
「何のことだ」
棒読みが返ってきた。自分から口にしておいて「何のことだ」はないでしょう。撤退が雑すぎる。
(でも、今、確かに言った)
一周目。
その言葉を、この人自身の声で聞いたのは初めてだった。一周目があって、二周目がある。今のこれが、あの人にとっての二周目。わかっていたはずのことなのに、本人の声で輪郭を与えられると、胸の奥がざわついて仕方がない。
「フリッツ」
アレクサンダーの声の温度が変わる。低く、真剣な声。
続きを立ったまま聞ける気がしなくて、私は扉の陰で、音を立てないように床へ膝を沈めた。
「仮に——仮にだ。私が未来を知っていたとして」
胸の奥で、何かがきゅっと固くなった。絨毯の毛並みに膝を押しつけたまま、私は耳を澄ませる。
「それを誰かに話すことは、何の得にもならない。知っているのは私だけでいい」
「……殿下だけ、ですか」
「ああ」
嘘だ。
あなたの目の前で同じ秘密を抱えている人間が今、壁の向こうで正座している。
「一つだけ教えてください」フリッツの声が少しだけ柔らかくなる。「なぜリンデンバウム嬢を、そこまで気にかけるのですか」
間が空いた。
長い間だった。私の鼓動が三回、四回と打つあいだ、アレクサンダーは黙っていた。
「——前に、一度」
声が、掠れていた。
「彼女を助けられなかったことがある」
呼吸が止まった。
「助けられなかった、とは」
「……ずっと遠くから、見ていることしかできなかった。声は届かない。手も届かない。彼女が踏み潰されていく筋書きだけが、目の前で進んでいく。俺は最後の一行まで、それを眺めていることしかできなかった」
「それは、いつのお話ですか。私は殿下のお側を離れたことが、ほとんどございませんが」
「いいんだ、フリッツ。おまえの知らない話だ」
一周目の話だ。
一周目で、クラーラ・リンデンバウムは断罪され、追放された。おそらくは、ゲームのバッドエンド通りの結末まで。
でも——今の言い方。
声は届かない。手も届かない。筋書きが目の前で進んでいくのを、止める術が一つもない。その距離を、私は知っている。画面のこちら側から物語を眺めるしかない人間の距離。前世の私がこのゲームを一周したとき、立っていた場所と同じだ。
この人の「一周目」は、この世界の中ですらなかったのかもしれない。台本を全部知っていて、台本を一行も変えられない場所。そこから彼女の破滅を最後まで見届けて——だから二周目は、世界の中に立っている。台詞を、変えられる側として。
あの断罪の日、この人の台詞はゲームと違っていた。わざと変えていた。変えられることを、確かめるみたいに。
「だから今度は、と?」
「……何のことだ」
また棒読みに戻った。でも今度は、声がわずかに震えている。
(ずるい)
目の奥が熱くなる。袖で押さえた。泣いている場合ではない。ここは廊下だ。
私はゆっくりと壁から背中を離し、足音を殺して廊下を戻った。
書類は、明日届ければいい。今日はもう、これ以上何も聞きたくない。
応接室の扉が閉まる音が、背中の向こうで小さく響いた。
曲がり角を折れるとき、廊下のずっと先で、白い布がひらりと翻った気がした。聖女の祈りの時間には、まだ早いはずだけれど——確かめる余裕は、今の私のどこにも残っていなかった。
自室に戻って、ベッドに倒れ込む。
枕に顔を押しつけると、洗いたての布の匂いがした。
(助けられなかったことがある)
あの声が、頭から離れない。
知っていた。この王子が転生者だということは、もうほぼ確信していた。お互い、バレバレのまま今日まで来ている。
でも「なぜ」の部分は、知らなかった。
二周目をやり直す理由。
ゲームが楽しかったからとか、別ルートを見たかったからとか、王子の暇つぶしとか。そんな軽い動機だと思い込んでいた。だって、そうじゃないと困る。重い理由があったら、こちらの心構えが全然違ってくる。
(違った)
あの人は、後悔していたのだ。
画面のこちら側から、一周目の私を救えなかったことを。
考えてみれば、私だって同じゲームを一周した。悪役令嬢クラーラの断罪シーンを「うわ、このシナリオ容赦ない」と思いながら、お菓子でもつまんで眺めていたはずだ。それが前世の、ごく普通の遊び方で、誰に責められる筋合いもない。
でもあの人は、それを「助けられなかった」と数えている。ゲームのバッドエンドを一つ、自分の罪として抱え続けている。
「……ばか」
枕に向かって呟いた。誰に言っているのかは、自分でもわからない。
知らないふりを、続けなければいけない。
私が転生者だと明かせば、あの人の二周目の計画が狂う。あの人が転生者だと認めさせれば、この微妙なバランスが崩れる。
今のままでいい。お互い知らないふりをして、裏で助け合って、表では何食わぬ顔をして。
——そのはずなのに。
枕から顔を上げた。天井の染みを数える。一つ、二つ、三つ。数えても気持ちは落ち着かない。
「言いたい」
声に出した。
「私も知ってるって、言いたい」
でも言えない。
言えない理由が、今日、一つ増えてしまった。「一周目の台詞は、覚えている」——あの掠れた声を聞いた後で、「実は私もなんです」なんて軽く言えるわけがない。
枕にもう一度顔を埋める。布の匂いの向こうで、あの下手くそな「何のことだ」が、いつまでも再生されていた。




