第19話「殿下は転生者では?」
フリッツの訪問から三日後。私はまだ、あの会話を反芻していた。
「リンデンバウム嬢も、同じような振る舞いをされていませんか」
あの台詞。フリッツは王子だけでなく、私にも異変を感じ取っている。しかも「同じような」という言い回し。王子と私を並列に置いている。
(あの人、もう半分くらい答えに辿り着いてるんじゃないの)
学術発表会の準備を進めながら、そんなことを考える。魔法薬学の文献を積み上げ、ノートに要点を書き出す。ペン先がかりかりと紙を引っかく音だけが続く午後。
と——廊下から声が聞こえた。
「殿下、お待ちください」
フリッツの声。少し切迫している。
「待てない。書庫の鍵が必要だ」
アレクサンダーの声。急いでいる。
廊下を覗くつもりはなかった。でも、声の方向がこの部屋の前を通過するルート上にあり、自然と耳に入ってしまう。
「書庫の鍵は教務課の管理です。殿下のお立場でも、手続きなしには——」
「手続きを踏んでいる時間がない」
(書庫?)
学院の禁書庫。ゲーム三章中盤、悪役令嬢クラーラの断罪で切り札として突きつけられる「証拠文書」が保管されている場所。断罪そのものは取り消された。でも、文書は今もそこに眠っている。二度目の断罪を望む誰かの手に渡れば、いつでも切り札に化ける代物が。
(まさか、あの人——証拠文書を先に処分しようとしている?)
声が遠ざかる。足音が階段のほうへ向かっていく。
私は席を立った。文献をノートごと鞄に押し込み、部屋を出る。足早に、しかし走らずに廊下を進む。悪役令嬢は走らない。常に優雅に——これはゲームの設定ではなく、私自身のプライドの問題。
階段を降り、東棟の書庫前に着く。
アレクサンダーとフリッツがいた。書庫の鉄扉の前で、王子が腕を組んでいる。フリッツは教務課の係員と何やら交渉中。
「殿下」
声をかけると、二人が振り返る。
「リンデンバウム嬢。なぜここに」
「勉強の資料を探しに。書庫に用がありますの」
嘘ではない。魔法薬学の古い文献は確かに書庫に収蔵されている。でも本当の理由は——王子が何をしようとしているのか確認するため。
「奇遇だな。俺も資料が必要でね」
「殿下も魔法薬学を?」
「いや。歴史文書だ」
歴史文書。ゲーム三章の「証拠文書」は、形式上は歴史的な家系記録として書庫に保管されている。王子はそれを「歴史文書」と呼んで取りに来ている。
(やっぱり。証拠文書を先に押さえるつもりだ)
フリッツが交渉を終え、係員が鍵を開ける。重い鉄扉がきしみながら開く。中から冷たい空気が流れ出し、埃っぽい紙の匂いが鼻に届いた。
書庫の中は薄暗い。窓がなく、魔道灯の青白い光だけが書架の間を照らしている。
「殿下、私も入ってよろしいですか」
「構わない。係員もいるし、問題はないだろう」
フリッツの視線が私と王子の間を往復している。明らかに「この二人を書庫に入れて大丈夫か」と考えている顔。
書架の間を歩く。足音が石の床に反響して、自分のものなのに少し不気味に聞こえる。
アレクサンダーは迷いなく奥に進んでいく。どこに何があるか知っているかのように——いや、知っているのだ。二周目だから。
私も知っている。ゲーム三章のイベントで、証拠文書は「B-7区画の第三棚、上から四段目」と描写されていた。
王子がB-7区画に入る。私も続く。フリッツは入り口で係員と話しており、ついてきていない。
書架と書架の間。狭い通路に二人。青白い灯りが、王子の横顔を冷たく照らしている。
「殿下」
「何だ」
「お探しの文書は、上から四段目ですわ」
沈黙。
アレクサンダーの手が、伸ばしかけた姿勢のまま止まる。まさに四段目に手を伸ばそうとしていた、その瞬間。
「……なぜわかる」
低い声。振り返った王子の表情は、初めて見る種類のものだった。驚きでも怒りでもなく——緊張。
「直感です」
「直感で書庫の棚番号がわかるのか」
「よく当たる直感なんです」
馬鹿な答えだとわかっている。でも、本当のことは言えない。
長い沈黙が降りた。魔道灯がちりちりと小さな音を立てている。書庫の奥から、紙が古びていく匂い——乾いた、少しだけ甘い——が漂ってくる。
「リンデンバウム嬢」
「はい」
「君は、何者だ」
質問の形をした確認。もう九割がた答えを持っている人間の聞き方。
心臓がどくどくと鳴っている。ここで正直に言えば、この茶番は終わる。「私は転生者です」「あなたもでしょう」。それで全部が片づく。
でも——。
「何者、と聞かれましても。クラーラ・リンデンバウムですわ。リンデンバウム公爵家の長女」
「そういうことを聞いているんじゃない」
「では、何をお聞きに?」
王子が一歩近づいた。書架に背中が当たる。退がれない。
近い。魔道灯の青い光の中で、琥珀色の瞳がまっすぐこちらを見ている。
「もういい。今日は聞かない」
一歩、退いた。
(……何、今の)
心臓がまだ暴れている。書架の木の手触りが背中に残っている。
アレクサンダーは四段目の文書を手に取り、中身を確認して棚に戻した。取り出さない。
「二度と証拠に使われないよう、管理番号を書庫台帳から外しておく。そのほうが安全だ」
独り言のように呟く。でも、明らかに私に聞かせている。
(この人、証拠文書を隠滅するのではなく、台帳から外すことでアクセスを困難にする。破壊ではなく、遮断。痕跡を残さない方法を選んでいる)
頭が良い。二周目で得た知識を、力任せではなく精密に使っている。
「殿下」
「何だ」
「その文書のこと、私は何も見ていませんわ」
「ああ。俺も、君がここにいたことは忘れよう」
共犯。言葉にはしないけれど、この瞬間、私と王子は明確に共犯関係に入った。
書庫を出る。フリッツが待っていた。
「殿下、お目当ての文書は?」
「見つからなかった。管理番号が間違っていたようだ」
嘘を、平然とつく。フリッツは少し怪訝そうな顔をしたが、それ以上追及しない。
私は自分の資料——本当に魔法薬学の文献——を抱えて書庫を後にした。鉄扉が閉まる音が背中で響く。
廊下に出ると、昼下がりの陽射しが眩しかった。書庫の冷たい空気から解放されて、肌がじわりと温まる。
中庭に面した回廊で、リーリエとすれ違った。礼拝の帰りらしく、祈祷書を胸に抱えている。
「あ、クラーラ様。……殿下とご一緒だったんですか?」
私の後ろ——書庫の方角からアレクサンダーとフリッツが歩いてくるのを見て、リーリエが言った。
「ええ、偶然ね。書庫で資料を探していたら」
「偶然。そうなんですね」
リーリエはいつもの笑顔で頷いた。頷いてから、祈祷書を抱える腕に、ほんの一瞬だけ力がこもったのを私は見た。
「お二人って、いつも偶然会いますよね。私、その偶然に一度も混ざれたことがないのに」
「リーリエさん?」
「あっ、変な意味じゃないです! じゃあ私、お祈りの続きがあるので!」
ぱたぱたと駆けていく。聖女の白い裾が、回廊の角を曲がって消えた。
今のは、何だったのだろう。笑顔の形は完璧だった。完璧すぎて——その下に、別のものが一瞬だけ透けた気がした。陽だまりの中で一人だけ日陰に立っているような、そんな顔が。
考えすぎかもしれない。今日は、考えることが多すぎる。
知らないふりの壁が、あの書庫の中でまた少し崩れた。
「何者だ」と聞かれて、答えられなかった。答えたくなかった、のではない。答えたら——この駆け引きが終わってしまうのが、怖かった。
(駆け引きが終わるのが怖い? 私は何を言っているの?)
自分の感情の正体がわからないまま、足だけが自室に向かって動いている。
抱えた文献が重い。でも、胸の中のほうがもっと重かった。




