第16話「内心だけが大騒ぎ」
舞踏会当日の夕方。マルタが私のドレスの背中のボタンを留めていく。鏡に映る自分は、深い藍色のドレスに身を包んだ悪役令嬢。
「クラーラ様、とてもお似合いです」
「ありがとう、マルタ」
ゲームでは、クラーラは舞踏会に赤いドレスで出席する。赤は攻撃的な色——ヒロインへの敵意を視覚的に表す演出だった。
だから私は藍色を選んだ。ゲームと違う選択。台本に乗らないための第一手。
会場である大広間に足を踏み入れると、シャンデリアの光が目を刺す。蝋燭の灯りが何百と揺れ、壁面の金箔を照らしている。楽団の音合わせが低く響き、令嬢たちのドレスの絹が擦れる音が波のように広がっていく。
(この世界、CGじゃないのに美しいのよね)
前世でゲーム画面越しに見た舞踏会は、フラットな一枚絵だった。でも今、実際に立っている会場は立体で、音も匂いもある。蝋燭の蝋が溶ける甘い煙。令嬢たちの香水が混ざり合って、むせるほどではないけれど鼻の奥がくすぐったい。
「クラーラ様!」
リーリエが寄ってきた。白いドレスに薄桃色のリボン。聖女らしい清楚な装い。
「素敵ですね、その色。赤かと思ってました」
(ゲーム通りなら赤だったものね)
「気分を変えてみたの。たまには」
「お似合いです! 殿下もきっと——あ」
リーリエが何かを言いかけて口を閉じ、にこっと笑った。最近のリーリエは、この手の「意味深な笑い」の頻度が上がっている。
舞踏会が始まる。
最初の一曲は王太子のエスコートで開幕するのが慣例。ゲームではアレクサンダーがリーリエを誘い、会場がどよめく場面。
楽団が演奏を始める。ワルツ。
アレクサンダーが歩み出た。銀髪を丁寧に整え、紺のフロックコートにゲームと同じ銀のブローチ。堂々とした足取りで、会場の中央を横切り——。
——私の前で、止まった。
(え)
「リンデンバウム嬢。最初の一曲を」
右手が差し出される。手袋は白。指が長い。
会場が、しんと静まった。
(待って。これ、ゲームと違う)
ゲームではリーリエに向かうはず。最初の一曲はヒロインと踊る。それが二章クライマックスの設計。なのに王子は、悪役令嬢の私を選んでいる。
(何を考えているの、この人は)
拒否できない。王太子の申し出を断れば社交的に死ぬ。周囲の視線が突き刺さるように集まっている。令嬢たちのひそひそ声。驚き。困惑。
内心は誰よりも驚いている。でも、顔には出さない。口元に淑女の微笑を貼りつけて、背筋ひとつ揺らさずに立つ。動揺した顔なんて、この王子にだけは見せてやらない。
「……光栄です、殿下」
手を取る。手袋越しの体温は、練習のときと同じ。少し高い。
踊り始める。
会場の照明がくるりと回る。いや、回っているのは私のほうだ。王子のリードで身体が旋回する。練習のときと同じ正確さ。一、二、三。呼吸が合う。
「殿下」
「何だ」
「なぜ、私を?」
小声で尋ねる。ワルツのステップに紛れて、周囲には聞こえないように。
「聞きたいか」
「ええ」
「君が藍色のドレスを着ていたからだ」
意味がわからない。
「赤ではなく、藍色を選んだ。それが答えだよ」
(この人、私がドレスの色を変えたことに気づいている。しかもその意図——ゲームの台本から外れようとしていること——を読み取っている)
背筋がぞわりとする。ダンスのステップを踏みながら、頭の中ではまったく別の回路が全速力で動いている。
王子は言っている。「台本から外れるなら、こちらも外れる」と。リーリエではなく私を選ぶことで、ゲーム二章のクライマックスを丸ごと書き換えた。
「殿下はリーリエさんと踊るべきでしたわ」
「なぜ?」
(ゲームの筋書きだから——とは言えない)
「聖女との最初の一曲は、王太子殿下にふさわしいかと」
「ふさわしさで選ぶなら、俺は今の選択に満足している」
心臓がうるさい。ワルツの三拍子に重なって、胸の奥がどくどくと脈打つ。
(これは駆け引きの一環。感情ではなく戦略。王子は私を味方につけようとしているだけ。悪役令嬢を断罪ルートから外すために、公に庇護しているだけ)
自分にそう言い聞かせる。
曲が終わる。拍手。王子が私の手を離し、一歩下がる。
「ありがとう、リンデンバウム嬢。見事なワルツだった」
「こちらこそ」
離れた手が、妙に冷たい。さっきまで手袋越しに感じていた温度が消えて、指先だけが空気にさらされている。
二曲目が始まる。今度はアレクサンダーがリーリエの前に歩み寄り、手を差し出す。リーリエが嬉しそうに受ける。会場の空気が少し和む。「やはり殿下は聖女と」という声がちらほら聞こえる。
(一曲目が私で、二曲目がリーリエ。順番を入れ替えた)
ゲームの筋書きを完全に無視したわけではない。リーリエとのイベントは残しつつ、その前に私との一曲を挟んだ。悪役令嬢への好意を周囲に見せつけ、かつヒロインとの関係も維持する。
(一手で二つの目的を達成してる。……器用すぎるでしょ)
壁際に戻り、給仕からグラスを受け取る。白ワイン。口をつけると酸味が強くて、少し顔をしかめる。甘いのが良かったのに。
「クラーラ様」
リーリエが——二曲目を踊り終えて——息を切らしながら戻ってきた。
「殿下と踊ったんですね! 最初の一曲!」
「……ええ、まあ」
「びっくりしました。でも——」
リーリエが私の顔をじっと見つめる。
「すごく綺麗でした。二人のダンス」
悔しそうでもなく、嫉妬しているわけでもない。純粋に綺麗だと思ったという、まっすぐな感想。この子は本当に、ゲームのシナリオに縛られない。
「ありがとう、リーリエさん。あなたのダンスも素敵だったわ」
「ほんとですか? 途中でステップ間違えちゃって……」
リーリエが照れ笑いをする。その向こうに、アレクサンダーが次のダンス相手を探す振りをしながら、ちらりとこちらを見ているのが映る。
目が合う。
王子が、ほんの少しだけ口角を上げた。勝利の笑みではなく、共犯者の笑み。
私は——反射的に目を逸らし、白ワインを一口飲んだ。酸っぱい。けれど、さっきより不味くない。
舞踏会の夜は、まだ始まったばかり。この先に何が待っているのか、ゲームの台本にはもう書いていない。
足元を見る。藍色のドレスの裾が、シャンデリアの光で微かに青く揺れていた。
赤を選ばなくて、良かったのかもしれない。




