第15話「疑惑のダンス練習」
舞踏会が近い。
学院主催の初夏の舞踏会。ゲーム二章のクライマックスイベントにあたる。ここでアレクサンダーがリーリエをダンスに誘い、周囲がざわめき、悪役令嬢クラーラが嫉妬で暴走する——というのがゲームの筋書き。
もちろん、暴走するつもりはない。
問題は別のところにあった。
「クラーラ様、殿下からのお達しです。舞踏会に先立ち、主要な出席者全員でダンスの合同練習を行うと。明日の午後、大広間にて」
マルタが持ってきた通達を受け取り、私は長いため息をついた。
予告どおり、来た。
(本当にやる気だ、あの男)
準備委員会の帰り際に「合同練習の場を設ける」と宣言され、練習相手の申し出まで受けてしまったのが、先日のこと。数日のうちに、と言っていた割には音楽祭やら何やらで日程が押したらしいけれど、忘れてくれてはいなかったわけだ。しかもその通達が、こうも堂々と全出席者宛ての公式文書で届くとは。
建前の完成度だけは認める。これなら「王太子と悪役令嬢の個人練習」ではなく「委員会主催の合同練習」だ。誰にも文句のつけようがない。
改めて確認するまでもなく、合同練習なんてイベントはゲームに存在しない。あの人がオリジナルで仕込んだ展開——それも、私ひとりのために大勢を巻き込む規模の。
(何を企んでいるの、というより——どこまでやるの、あの人は)
翌日。学院の大広間。
磨き上げられた大理石の床に、十数名の生徒が集まっている。楽団が端に控え、調弦の音が天井に反響していた。
私は壁際に立ち、全体を観察する。リーリエが少し緊張した面持ちで入ってくる。令嬢や令息たちが三々五々、ペアを組んでいく。
「では、練習を始める。まずは基本のワルツから」
アレクサンダーが広間の中央に立ち、指示を出す。音楽教師ではなく王子が直接仕切るあたり、この練習が彼の主導であることが丸わかり。
楽団が演奏を始める。三拍子。ゆったりした旋律が広間を満たす。
ペアを組んだ生徒たちが踊り出す。私はまだ壁際にいる。悪役令嬢は社交に長けているが、積極的にペアを求めるタイプではない。待つのがクラーラの流儀だ。
——と、思っていたのだが。
「リンデンバウム嬢」
当然のように、アレクサンダーが私の前に立っていた。右手を差し出して、にこやかに。
「約束どおり、だ。——練習相手が必要だろう」
(ええ、お言葉に甘えると言いましたとも)
承諾済みの申し出。予定どおりの展開。なのに、呼吸がひとつ分だけ浅くなったのはなぜだろう。予測していたのだから動揺する理由がない。ないはず。
「光栄ですわ、殿下」
差し出された手を取る。手袋越しに感じる王子の体温。少し高い。剣術で鍛えている人間は体温が高いのかもしれない——と、どうでもいい分析で気を紛らわせる。
踊り始める。基本のワルツ。一、二、三。ステップは身体が覚えている。ゲームのクラーラは幼少期からダンスの英才教育を受けている設定で、その記憶がこの身体に残っている。
「上手だな」
「お褒めにあずかり光栄ですわ」
「嫌味ではなく、本当に。君のリードの受け方は完璧だ」
社交辞令を超えた、具体的な褒め方。ステップの技術を見る目がある人間の言葉。ゲーム一周目のアレクサンダーはダンスが下手だった設定があるから、この技術も二周目で習得したのだろう。
(どれだけスキルを増やしてるの、この二周目王子)
「殿下もお上手ですわ。いつ頃から?」
「子供の頃から少しずつ。最近になって本腰を入れた」
最近。やっぱり最近。二周目に入ってからの話だ。
旋律が変わる。——第二楽章だ。
変則的な拍子。増えていくターン。楽団が「練習曲」として、例の運命の転換点の曲を平然と差し込んでくる。選曲したのが誰かなんて、考えるまでもない。
崩れない。リードする側が手順を知らないと崩れる、と本人が言っていた拍子の罠を、王子は涼しい顔で渡っていく。私の身体が自然に動く。足元ではなく、互いの呼吸でタイミングを合わせている感覚。
「——なあ、リンデンバウム嬢」
「何でしょう」
「君は、この舞踏会をどう思う」
妙な聞き方だ。「楽しみですか」でも「誰と踊りますか」でもなく、「どう思う」。
「楽しい催しだと思いますわ。日頃の学業の息抜きにもなりますし」
「そうか。俺は少し心配している」
「心配?」
「舞踏会には予測できないことが起きやすい。人が多いから」
予測できないこと。ゲームにない展開。王子はそれを警戒している。
(この人、ゲームから外れることを恐れている?)
ゲームの筋書きを知っている転生者にとって、最大の脅威は「台本にないイベント」だ。予測も対策もできないから。
「殿下が心配なさることはないと思いますけれど。周囲の方々が対応してくださるでしょう」
「周囲の方々、ね」
王子が少しだけ力を込めた。手のひらに、ではなく、リードに。私の身体がくるりと回転する。予定にないターン。
バランスを崩しかけ、反射的に王子の肩を掴む。手袋の下の布地が、指に硬い感触を伝えてくる。
「失礼。少しリードが強すぎたか」
「いえ、大丈夫です。次は予告してくださいまし」
「予告したら練習にならないだろう」
(それはダンスの話? それとも——)
二重の意味を持つ会話。表面上はダンスの話。でも裏では「予測できない事態」についてのやり取りになっている。
楽団の演奏が一段落し、休憩が入る。私は王子から離れ、壁際に戻って水を飲む。喉が渇いていた。
リーリエがフリッツと組んで踊っていた。フリッツは真面目な顔で黙々とステップを踏んでおり、リーリエがくすくす笑っている。
「クラーラ様」
ふいに、リーリエが駆け寄ってきた。
「見てました。殿下とのダンス、すっごく息が合ってましたね」
「そう見えた? 普通に踊っただけよ」
「普通じゃなかったですよ! だって、途中のターンのとき、殿下がリードを変えたのにクラーラ様がぴったりついていって——」
「あれは反射で……」
「反射であんなに綺麗に回れます? フリッツ様なんて、基本のステップでも私の足を踏むのに」
遠くで、フリッツが申し訳なさそうな顔をしているのが見えた。
「リーリエさん、深い意味はないの。ダンスの技術が合っていただけで」
「でも、技術が合うっていうのはすごいことですよ。フリッツ様が言ってました。殿下のリードについていける人は宮廷でも数えるほどしかいないって」
リーリエの目がきらきらしている。何かを確信した顔。
「クラーラ様と殿下って、ほんとに——」
「変じゃないわよ」
「まだ何も言ってないです」
(またやってしまった)
先読みで否定する癖を、いい加減に直さなければ。
練習が再開される。二曲目。今度はリーリエが王子とペアを組み、私は別の令息と踊る。
相手の子爵令息は礼儀正しいが、リードが読みにくい。右に行くのか左に行くのか、直前まで判断がつかない。これが普通なのだ。
(あの人のリードが読みやすすぎたのよ)
視線だけ、リーリエと踊る王子のほうに向ける。リーリエは楽しそうに笑い、王子は穏やかな笑顔でリードしている。ゲームの好感度イベントそのもの。
なのに。
アレクサンダーの視線が、一瞬だけこちらに飛んだ。リーリエの肩越しに、私を見て。
——すぐに逸らされる。
私も目を逸らし、相手の子爵令息に集中する。ステップ。一、二、三。足元に意識を向ける。足元だけ。
練習が終わり、大広間を出る。廊下の空気がひんやりとして、汗ばんだ首筋に気持ちいい。
舞踏会は五日後。この学期最大の催し。
王子が何を仕掛けてくるのか。私は何を仕掛けるのか。
手袋を外しながら、先ほどの王子の体温を思い出している自分に気づき、慌てて手を握りしめた。
汗のせいだ。練習で手汗をかいただけ。それ以外の意味はない。
——ない、はず。




