第12話「二手先を行く」
音楽堂は学院の西棟にあり、天窓から朝の光が降り注ぐ構造になっている。中央にグランドピアノ。壁面にはヴァイオリンやチェロが並ぶ棚。空気にはかすかに松脂の甘い匂いが混じっていて、ここが日常的に使われている場所だとわかる。
約束の時間より五分早く着いた。先手を取るためだ。
——のだが。
「おはよう、リンデンバウム嬢」
アレクサンダーは既にピアノの前に座っていた。楽譜を広げ、鍵盤に軽く指を載せている。余裕の笑み。
(十分前に来てる、この人)
五分前では足りなかったらしい。次は十五分前に来よう。いや、それも読まれるかもしれない。
「おはようございます、殿下。お早いですのね」
「少し練習していたんだ。待たせたくなかったからね」
(練習って何を。あなたゲームではピアノ弾けない設定でしょう)
ゲーム一周目のアレクサンダーは剣と魔法の人で、芸術方面はからっきしだったはず。それが楽譜を読めるようになっているということは、二周目の人生で新しく習得したのだろう。
つまり、この人は転生してからの数年間を、一周目と違う過ごし方をしている。ゲームの台本に従わず、自分の意志で能力を増やしている。
(厄介すぎる)
「それで、打ち合わせというのは?」
「音楽祭の演目についてだ。聖女リーリエの演奏曲が変更になったと聞いた」
直球。この人、遠回しにやるときと正面から来るときの緩急が激しい。
「ええ、私がリーリエ嬢に別の曲を提案しましたの。『月光の舞曲』も素敵ですけれど、もっと彼女の技巧に合った曲があると思いまして」
嘘ではない。半分は本当のことを言っている。残りの半分——王子の台本を崩すため——は口が裂けても言えない。
「なるほど。どんな曲を?」
「『風に散る花弁』です。ベルシュタイン作。ゆるやかな三拍子から始まって、後半で転調する構成が——」
「ああ、知っている」
え。
「ベルシュタインの中期作品だな。確か、王妃がこの曲を気に入って宮廷楽団に編曲させた逸話がある」
(知ってるの!? 昨日今日で勉強したにしても、マイナー作曲家の中期作品の逸話まで?)
鳥肌が立つ。この人の学習速度、前世でもこうだったのだろうか。それとも二周目の余裕がそうさせているのか。
「……殿下、博識でいらっしゃるのですね」
「たまたまだよ。昨夜読んでいた楽譜集に載っていた」
(たまたまじゃないでしょ。私が提案する曲を予測して、候補を全部調べたんでしょ)
でも、それを指摘することはできない。指摘したら「なぜ私がこの曲を選ぶとわかっていたんですか」と聞かなければならず、それは「あなたが転生者だと知っています」と同義になる。
この茶番の息苦しさ。お互い全部わかっているのに、わからないふりの仮面が外せない。
「では殿下は、この曲でもリーリエ嬢を称賛できますわね」
「もちろん。いい曲だ。彼女の演奏で聴けるのが楽しみだよ」
にっこり。王子がにっこり笑っている。その笑顔が完璧すぎて、かえって作り物めいている。
(この人の本当の顔、いつ見られるのかしら)
と——そこでふと、気づいてしまった。
王子の狙いは、曲目への対応じゃない。
私をこの場に呼び出したこと自体が、本命だ。
「殿下。ひとつ、お聞きしてもよろしいですか」
「何だい?」
「この打ち合わせ、音楽祭の委員会を通していませんわよね」
アレクサンダーの笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。すぐに元に戻るけれど、私は見逃さない。
「王太子殿下が直々に、断罪騒ぎの令嬢を音楽堂に呼び出す。委員会も介さず、二人きりで。これが他の生徒に目撃されたら、どんな噂が立つかしら」
沈黙。ピアノの蓋に反射した朝日が、王子の横顔を白く照らしている。
「……鋭いな」
「お褒めにあずかり光栄ですわ」
そう。この打ち合わせの真の目的は、「王太子と悪役令嬢の関係」を周囲に印象づけること。ゲーム三章で悪役令嬢が孤立するイベントに対する予防線。私と王太子が親しい間柄だと見せることで、クラーラ・リンデンバウムを社交界から切り離す動きに牽制をかけている。
二手先。いや、三手先かもしれない。
(曲目の対応は表面。私を呼び出す口実に過ぎなかった)
「殿下は、二手先を読むのがお好きなようですわね」
皮肉を込めたつもりだった。でも王子は、少し考えるようにして答えた。
「二手先で足りると思うか?」
挑発だ。穏やかな声のくせに、中身は完全に挑発。
「三手先が必要だとおっしゃるなら、私も考えを改めますわ」
「改める必要はない。君はもう、十分先を読めている」
息が、一瞬止まった。
これは褒め言葉なのか、それとも「お前の手は読めている」という宣告なのか。どちらとも取れる言い方をするのがこの人の厄介なところで、私は返す言葉を探して口を開きかけ——。
「殿下!」
音楽堂の扉が開き、フリッツが入ってきた。王子の側近。真面目な顔に困惑を貼りつけている。
「殿下、次の公務のお時間です。それと——」
フリッツの視線が私に移り、眉がわずかに上がる。明らかに「なぜ悪役令嬢がここに」という顔。
「打ち合わせが長引いた。すまない、フリッツ」
「はあ……。音楽祭の打ち合わせを、なぜあの問題の……リンデンバウム嬢と、殿下が直接……」
フリッツが言いかけて飲み込んだ言葉。「問題の」の先に続くはずだったものは、聞かなくてもわかる。断罪騒ぎの令嬢。悪評まみれの令嬢。ゲームの役割なんて知らないはずのフリッツですら、私にはそういう印象があるということ。
王子が立ち上がり、フリッツとともに出ていく。扉際で一度だけ振り返り、軽く頭を下げた。社交辞令の所作。でも、その視線に含まれた意味を、私は読み取る。
(「次の手を楽しみにしている」、ね)
一人残された音楽堂で、私はピアノの鍵盤に触れた。低い音がひとつ、広い空間に溶けていく。
——そして、遅れて気づいた。
委員会を通さない二人きりの面会。それを誰かに目撃されたらどんな噂が立つか、と警告したのは私だ。その十分後に、当のフリッツ様に目撃された。
あの疑念に満ちた目。あれはもう「なぜここに」では済まない。側近というのは、主君の周りを観察するのが仕事の人種だ。王子の不自然な行動の記録に「悪評の令嬢との密会」という一行が、今日確かに書き加えられた。
盤上の駒が、一つ増えた。しかも、私の都合でも王子の都合でも動かない駒が。
フリッツ様は忠臣だ。忠臣というのは、いざとなれば主君の意向すら無視して「主君のため」に動く。あの生真面目な側近が「殿下をたぶらかす悪評の令嬢」を排除すべきだと決意したら、その動きはゲームのどのイベントにも載っていない。読める駒より、読めない駒のほうがずっと怖い。おまけに排除の口実なら、私の悪評がいくらでも提供してくれる。
二手先を行く王子。その先を読む私。そのどちらの手の内も知らないまま、確実に疑念を溜めていく第三者。
駆け引きがどこまでもエスカレートしていく予感に、胸の奥がざわつく。困ったことに、それは不安ではなく期待に近い色をしていた。——期待だけで済めばいいけれど。




