第11話「読み合いの午後」
音楽祭の二日前。私はリーリエへの手紙の返事を受け取っていた。
「クラーラ様のおすすめなら、ぜひ弾いてみたいです!」
リーリエの筆跡は丸くて柔らかい。封を開けた瞬間、ほのかにラベンダーの香りがした。この子は手紙にいつも花を一輪挟んでくれる。悪役令嬢の私にも分け隔てなく。
(いい子すぎて、逆に罪悪感がすごいんだけど)
ゲームのリーリエはもっと控えめで、自分の意見をはっきり言わないタイプだった。でもこの世界のリーリエは、手紙ひとつにも自分の言葉がある。ゲームとは違う——そう思うたびに、この世界がただのプログラムではないと実感させられる。
ともあれ、曲目の変更は成功した。
ゲームではリーリエが「月光の舞曲」を弾き、アレクサンダーが「母が好きだった曲だ」と感慨深げに語るイベント。それが別の曲になれば、王子の台本は崩れる。
(さて、あの人はどう出るかしら)
答えは、その日の午後に来た。
学院の中庭。薔薇のアーチの下を歩いていると、進行方向にアレクサンダーがいた。ベンチに座り、分厚い本を読んでいる。まるで偶然そこにいたかのように。
でも、この時間帯にこの場所にいるのは偶然ではない。ゲーム二章の水曜午後、悪役令嬢クラーラが中庭を散歩するイベントがある。王子はそれを知っていて待ち構えている。
(偶然装うの、もう少し上手にやれないのかしら)
無視して通り過ぎることもできる。でもそれは不自然だ。悪役令嬢クラーラは社交の場で王太子を無視するようなキャラクターではない——少なくとも、ゲーム上の設定では。
「ごきげんよう、殿下」
足を止めて、完璧な角度でお辞儀をする。
「ああ、リンデンバウム嬢か」
本から顔を上げた王子の表情が、あまりに自然すぎて逆に怪しい。この人、鏡の前で練習しただろう。
「珍しいですね、殿下がこの庭に」
「たまには静かな場所で読書をしたくなる」
(嘘つき。あなたの読書場所は北棟の書斎でしょう。ゲームの個人イベントで描写されてたもの)
内心のツッコミを押し殺して、私は微笑んだ。
「何をお読みで?」
「古典音楽の楽譜集だ」
——は?
楽譜集。音楽祭の直前に。しかもわざわざ私の目の前で。
(これ、当てつけじゃない?)
曲目を変えたことに、もう気づいている。だからわざと「音楽に詳しい王子」を演出して、どんな曲が来ても対応できるというポーズを取っている。
背筋に緊張が走る。同時に、こみ上げてくるものがある。
(この人、本気で勝負してきてる)
「殿下は音楽にもお詳しいのですか?」
「最近興味を持ってね。知識の幅は広いほうがいい」
最近。最近というのはつまり、曲目が変わったと知ってから慌てて勉強した、という意味では。
「素敵ですわ。では音楽祭、殿下のご感想が楽しみです」
「ああ。楽しみにしている」
目が合う。琥珀色の瞳が、穏やかに笑っている。けれどその奥に、研ぎ澄まされた計算が光っているのを私は見逃さない。
(この笑顔の裏で何手先まで読んでるの、この人)
お辞儀をして、その場を離れる。背中を向けた瞬間、全身の力が抜けるような感覚。息を止めていたことに気づく。
自室に戻り、扉を閉めて壁にもたれた。
楽譜集。わざわざ楽譜集。
(私が曲目を変えたことを知っている。でも「なぜ知っているのか」は問い詰めない。なぜなら、問い詰めたら自分が転生者だとバレるから)
この構造が、もどかしい。
——そして、思い返して血の気が引いた。
楽譜集、と聞いた瞬間。私は固まった。「は?」と言いかけたのを呑み込み、頬に笑顔を貼り直すまでの、ほんの一拍。
あの人は、あれを見ていた。間違いなく。
考えてみれば、曲目の変更に私が関わっているという確証は、あの時点ではなかったはずだ。リーリエが自分で選び直した可能性だってある。あの「偶然」の読書は、それを確かめるための踏み絵だった。そして私は、まんまと固まって答え合わせをしてあげたわけだ。
知らないふり選手権、本日の失点一。
(顔に出した。私としたことが)
前世の私は、ポーカーフェイスには自信があった。理不尽なクレームの電話にも、心を無にして「さようでございますか」と返せる程度には。それが王子相手だと、どうしてこうも崩れるのか。
原因の分析は——保留にしておく。長考した挙句、相手の罠の中心に駒を置く未来しか見えないから。
お互い、相手の手の内が読めている。読めているのに、読めていないふりをしなければならない。チェスで言えば、相手の駒が全部見えているのにフォグ・オブ・ウォーのふりをしている状態。
……前世のゲーム用語が出てくるあたり、私もだいぶ毒されている。
机の上に放置していたリーリエの手紙を見つめる。ラベンダーの残り香が、まだかすかに漂っている。
(リーリエは、何も知らない)
この駆け引きの真ん中にいるのに、彼女だけが本物の住人として生きている。私と王子が勝手にゲーム知識で盤面を動かしている中で、リーリエだけが自分の意志で選び、自分の言葉で手紙を書いている。
それが、少しだけ眩しい。
と、そんなことを考えていたら、ノックの音。
「クラーラ様、王太子殿下のお付きの方がお見えです」
マルタの声に、背筋が伸びる。
「お付き? フリッツ様のこと?」
「はい。お手紙をお預かりしたいと」
手紙。王子からの手紙。嫌な予感がする。
封を切る。蝋印は王家の紋章。便箋には几帳面な文字が並んでいる。
「音楽祭の演目について、事前に打ち合わせたいことがある。明日の午前、音楽堂にて——」
手紙の最後に、さりげなく一文。
「リンデンバウム嬢は音楽に造詣が深いと聞いている。ぜひご意見を賜りたい」
(音楽に造詣が深い? 私が?)
ゲームのクラーラは確かにピアノが弾ける設定がある。でもそれは隠し設定で、本編では一度も演奏シーンがない。つまり、この情報を知っているということは——。
(やっぱり、この人はゲームの裏データまで知ってる)
二周目の特権、というやつだろうか。一周クリアすると解放されるキャラクターの詳細プロフィール。そこにクラーラのピアノの設定があったのかもしれない。
そしてもう一つ、この一文は通告だ。曲目の変更はあなたの仕業だと確定させた——昼間の失点を、きっちり回収しに来ている。一瞬の隙が、そのまま次の盤面の不利になって返ってくる。この読み合い、思っていたより授業料が高い。
手紙を畳み、机に置く。指先がわずかに汗ばんでいた。
明日の打ち合わせ。王子は何を仕掛けてくるのか。曲目変更への対抗策を直接探りに来るのか。それとも、もっと別の意図があるのか。
(読み合い、ね)
ため息をひとつ。窓の外では夕陽が落ちかけて、中庭の薔薇を橙色に染めている。
明日の支度を考えなければ。衣装は——いや、そこは関係ない。
……関係ない、はず。
なのに、なぜかクローゼットの前で10分ほど立ち尽くしてしまったのは、きっと音楽祭の衣装選びのせいだ。打ち合わせの服を選んでいたわけでは、断じてない。




