第10話「先読みされている」
王子アレクサンダーの行動パターンを掴んだのは、三日前の図書室がきっかけだった。
ゲームの二章中盤、リーリエが聖典の解読に苦しむイベントがある。攻略対象であるアレクサンダーが図書室で手を差し伸べ、好感度が上がる場面。私はそれを知っていたから、リーリエより先に図書室へ向かい、該当の聖典を借りておくつもりだった。
——断罪は、もう起きている。
あの夜に発生して、王子本人の手で中断され、取り消された。確定した過去だ。でも、終わった話だとは思っていない。私の悪評は学院に根を張ったままだし、断罪の場で頷いていた貴族たちの不満も消えていない。シナリオの強制力が本物なら、一度潰れたイベントは形を変えて芽を出す。
二度目の断罪。それが今の私の警戒対象だ。
だからヒロインの好感度イベントは潰しておく。物語が「悪役令嬢の断罪」へ転がるための燃料を、先回りして一つずつ抜いていく。地味だけれど、これが私の生存戦略の基本方針である。
ところが、だ。
図書室の受付で司書に「その本なら先ほど王太子殿下がお借りになりました」と言われたとき、背中を冷たいものが走った。
(先に借りられた?)
王太子が聖典を? あの人が?
ゲームでは、アレクサンダーがこの聖典に触れるのはリーリエと出会ってからのはず。それより前に動いているということは——。
(この人、イベントの順番を知っている)
確信めいたものが胸の奥で硬く結ばれる。やはりこの王子、転生者だ。しかも私と同じゲーム知識を持っている。
問題は、その知識を何に使っているか。
そしてもう一つ、その場で思い知らされた問題があった。
受付を離れようとしたとき、書架の陰から囁き声が滑り出てきた。
「ご覧になって。リンデンバウム嬢よ。聖典を借りに来たんですって」
「聖女様がお使いになる本でしょう? また何か企んでいらっしゃるのでは……」
……ああ、そういうこと。
断罪を取り消されても、私は「あの悪役令嬢」のままなのだ。本を一冊借りようとしただけで「また嫌がらせか」と囁かれる。この囁きが積もり積もれば、二度目の断罪の薪になる。
イベントを潰すための先回りが、先回りした痕跡そのもので悪評を太らせる。笑えない構造だった。盤面の上だけ見ていたら、足元の火種を踏む。
翌日。中庭の東屋で紅茶を飲んでいると、侍女のマルタが慌てた様子でやってきた。
「クラーラ様、例のルドヴィック商会への口添えの件、先方が快諾いたしました」
「……え?」
ルドヴィック商会。ゲーム三章で悪役令嬢クラーラの実家が資金難に陥るイベントに絡む商会だ。私はまだ口添えの手紙を送っていない。というか、今朝やっと文面を書き終えたばかりで、封蝋すらしていない。
「マルタ、私はまだ手紙を出していないのだけれど」
「はい。ですがルドヴィック商会の代表が『王太子殿下からのお話で十分です』とおっしゃって」
紅茶のカップが、かちりと音を立てた。
(先回りしている)
王子が、私の行動を先読みして、さらにその上を行っている。
これで二度目。偶然で片づけるには出来すぎている。
私は紅茶の残りを飲み干して立ち上がった。少し苦い。砂糖をひとつ入れ忘れていたことに、今さら気づく。
「マルタ、王太子殿下は今どちらに?」
「確か、剣術場にいらっしゃるかと」
剣術場。ゲームの二章では、アレクサンダーが午前中に剣術の稽古をつけるのは火曜と金曜だけ。今日は水曜日。ゲームの予定にない行動を取っているということは、彼も何かのイベントを先回りしている可能性がある。
——いや、あるいは。
(わざと私に気づかせようとしている?)
足が止まる。
考えてみれば、バレないように動くなら痕跡を消すはず。ルドヴィック商会の件だって「王太子殿下から」と名前を出す必要はなかった。匿名で後援すればいい。それをわざわざ自分の名前で通したということは。
(私に、知ってほしいの?)
いや、違う。知らないふりをしている人間が、自分から正体を明かすような真似はしない。
これは牽制だ。
「あなたの動きは全部お見通しですよ」と言外に告げることで、こちらの出方を制限しようとしている。チェスで言えば、盤面の中央を制圧する手。私に自由に動かせないための布石。
(面白い)
不思議と、口元が緩んでいた。腹は立たない。むしろ、対等に駆け引きできる相手がいることに、奇妙な高揚感を覚えている自分がいる。
前世で、私はこのゲームを一周しかしていない。攻略サイトは隅々まで読んだけれど、記憶を掘っても出てこないページがある。文字で読んだだけの情報は、自分の目で見た場面より先に薄れていく。だから抜けている知識もある。けれど、ゲーム本編に描かれたイベントとその順序は、ほぼ完璧に記憶している。
対して王子は——おそらく二周目だ。一周目で蓄積した情報に加えて、ゲーム内では見えなかったNPCの動きや裏設定にも詳しい可能性がある。
情報量では負けるかもしれない。でも、先読みの精度ならどうだろう。
回廊を歩きながら、私は頭の中に盤面を描いた。
次のイベントは四日後の音楽祭。ゲームではリーリエがヴァイオリンを演奏し、アレクサンダーが称賛することで好感度が大きく上昇する場面。私が妨害するなら、会場の手配を混乱させるか、演奏順を入れ替えさせるのが定石。
王子がそれを見越しているなら、会場の手配を事前に固めに来るはず。
ならば。
(こちらは、手配じゃなくて曲目を変えさせる)
演奏する曲がゲームと違えば、アレクサンダーの用意した称賛の台詞は空振りする。好感度イベント自体は起きても、王子の「台本」が機能しなくなる。
足取りが軽くなっていることに、自分で驚く。
まるでゲームの中にもうひとり、プレイヤーがいるような感覚。NPCではない、意志を持った駒がもうひとつ盤上にある。それが不快ではなく、むしろ——。
(楽しい、と思ってしまうのは不謹慎かしら)
二度目の断罪の芽を摘むための、地味で切実な作業のはずなのに。図書室の囁き声みたいな火種が、そこらじゅうに転がっているのに。
でも、一周目のゲーム画面を眺めていたときには絶対に味わえなかった感覚が、今ここにある。
剣術場の前を通りかかると、金属がぶつかる乾いた音が聞こえてきた。覗くつもりはなかった。ただ、音に引かれて目線だけ向けてしまっただけ。
汗で額に張りついた銀髪。鋭い踏み込み。相手の騎士が二歩下がる。
一瞬だけ、アレクサンダーの視線がこちらを捉えた。
私は何食わぬ顔で歩き続ける。見ていないふりをする。立ち止まったら負けだ。
背中に、視線が刺さっている。あの人も知っている。私がここを通ることを、たぶん、計算していた。
(水曜日に剣術場にいたのは、私を誘い出すため?)
考えすぎかもしれない。でも、この王子に関しては考えすぎるくらいでちょうどいい。
角を曲がり、視界から消えてから、ようやく息を吐いた。
初夏の風が廊下を吹き抜けて、髪をさらう。汗ばみかけた首筋に、風だけがひんやりと涼しい。頬が熱いのは、早歩きのせいだと自分に言い聞かせた。
四日後の音楽祭。そこが次の盤面になる。
先読みされている自覚がある。だから、読まれない一手を打つ。
私は自室に戻ると、リーリエへの手紙を書き始めた。曲目の提案——ゲームには存在しない、この世界のオリジナル楽曲を勧める内容。
手紙は残る。痕跡になる。図書室の囁き声を思い出して、文面は何度も書き直した。悪役令嬢が聖女に「親切な提案」をする——それ自体が次の囁きの種にならないように、言葉を一つずつ選ぶ。
ペンを走らせる指先が、インクの匂いとともに少し震えていた。緊張ではない。たぶん。




