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小説 足利義輝 鳳凰の刀 1536-1565  作者: 山田 誠一


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第三章:鉄の重さ、言葉の軽さ


近江の山々を渡る風が、青葉の匂いを運んでくる。

朽木谷のさらに奥、鬱蒼とした杉林に囲まれた古寺の境内で、毎朝、乾いた音が響き渡っていた。


カァン。

木刀と木刀が激突する音ではない。

足利義輝が、ただ一人で素振りを繰り返す音であった。

その風切り音があまりに鋭いため、まるで堅い樫の木が空気を叩き割っているかのように聞こえるのである。


「公方様、腰が高い」

境内の隅、苔むした石段に腰掛けた塚原卜伝が、退屈そうに口を開いた。

手には、地元の大尽から贈られたという酒の瓢箪を握っている。


義輝は答えず、ただ黙々と木刀を振り下ろした。

彼の全身は、すでに汗で輝いていた。

高貴な生まれの者がまとう白皙の肌は、近江の陽光に焼かれて見事な小麦色に変わり、肩から背中にかけては、戦場の足軽たちも驚くほどの筋が幾筋も浮かび上がっている。

このとき義輝は、十五歳から十六歳になろうとしていた。


卜伝の指導は、およそ将軍に対するものとは思えぬほど苛烈であった。

「我らの新当流は、戦場の剣にござります。華麗な舞いではございませぬ。敵の鎧の隙間を、いかに正確に、いかに泥臭く突き刺すか。公方様、あなたの腕の長さはそのためにある。その長い腕を、なぜもっと冷徹に使わぬか」


卜伝が、手にした竹箒の柄で、無造作に義輝の足を払った。

泥の上に見事に転がった将軍を、近臣の奉公衆たちが血相を変えて助け起こそうとするが、義輝はそれを手で制した。

彼は口の中の砂をペッと吐き出し、卜伝を睨みつけた。

その目は、激しい怒りと、それ以上の「渇き」に満ちていた。


「もう一度だ、卜伝」

義輝は再び立ち上がり、木刀を構えた。


余談ながら、卜伝はこの時期の義輝を、のちに門大兄たちにこう語っている。

「あれは、将軍の器ではない。あれは、天下の凶器である」と。


義輝の強さは、その技術もさることながら、己の命に対する「奇妙なまでの淡白さ」にあった。

彼は、自分が足利将軍という重い看板を背負っていることを、剣を握っている間だけは完全に忘れることができた。

いや、忘れたがっていた。

剣術における究極の極意とは、「我」を捨てることである。

義輝にとって、捨てるべき「我」とは、あの呪わしい「室町将軍」という虚名そのものであった。


ある夜、卜伝は静かに義輝の前に座り、一本の真剣を差し出した。

それは、足利家に伝わる名刀ではなく、卜伝が数々の修羅場をくぐり抜けてきた、地味ながらも恐ろしく研ぎ澄まされた一振りの打刀であった。


「公方様、新当流の奥義『一の太刀』を伝授いたします。これよりは、木刀ではなく、鉄を握りなされ。鉄の重み、鉄の冷たさ、それだけが、戦国を生き抜く人間の唯一の友にござります」


義輝がその柄を握ったとき、冷たい鉄の感覚が彼の掌から脳髄へと駆け抜けた。

言葉(権威)は裏切る。

人は裏切る。

だが、この手の中にある鉄だけは、自分が鍛えた分だけ、正確に敵の肉を断つ。

鉄だ。

誰よりも強く鉄を振るうのだ。

重い鉄を一つ、また一つ振るう度に、義輝は己の肉体が心が強くなっていくのを確かに感じるのであった。



義輝が朽木谷で己の肉体を鋼に変えている間、京都の「政治」は凄まじい速度で回転していた。

天文二十一年(1552年)、畿内の勢力図に決定的な変化が訪れる。

かつて足利家を傀儡として操っていた管領・細川晴元が、自身の重臣であった「三好長慶みよし ながけい」に敗れ、京都を追われたのである。


この三好長慶という男は、日本の歴史においてもっとも過小評価されている大名の一人であろう。

彼は、のちの織田信長よりも二十年も早く、京都を中心とする畿内八ヶ国を支配し、合理的な官僚機構を作り上げた「最初の天下人」であった。

長慶は連歌を愛する教養人でありながら、その内面は、古い権威や神話を一切信じない、冷徹な無神論者であった。


長慶から見れば、近江の山奥で木刀を振っている十六歳の将軍・義輝など、いつでも踏みつぶせる羽虫にすぎなかった。

しかし、長慶は賢明であった。

(足利の看板は、まだ利用価値がある)

長慶は、自らが新しい幕府を開くほどの軍事力を持っていたが、あえてそれをしなかった。

古い室町幕府という「外箱」を残し、その中に自分が入り込んで実権を握るほうが、諸国の守護大名たちを納得させるのに都合が良いと考えたのである。


「公方様、三好長慶より、和睦の条件が提示されました。京への帰還を許す、とのことにございます」

近江の御所に、細川晴元の没落に伴って義輝の側近となった奉公衆たちが、興奮した面持ちで駆け込んできた。

彼らにとって、京都へ帰ることこそが至上の命題であった。


十六歳になった義輝は、卜伝から譲り受けた刀の刃紋を、懐紙で静かに拭いながらそれを出迎えた。

彼の顔には、側近たちのような喜びの色はまったくなかった。

「長慶の条件は何か」


「は……。管領の細川晴元様を切り捨て、三好家を幕府の主柱として認めること。そして、将軍の政務はすべて、三好家の承諾を要すること、にございます」


それは、京都へ戻る代わりに、三好長慶の「完全なる傀儡」になれ、という宣告であった。

かつての父・義晴なら、激怒したのちに絶望し、また新しい手紙を諸国に送って調停を試みたであろう。

しかし、義輝は違った。


彼はフッと短く笑った。

その笑みには、大人の政治の汚さを軽蔑する少年の青臭さはなく、むしろ「やはりな」という、乾いた納得があった。

「よかろう。京へ戻る」


「公方様、よろしいのですか! それでは三好の傀儡に……」

「構わぬ」


義輝は刀を鞘に収め、パチンと静かに鯉口を鳴らした。

「長慶は、俺をただの『神輿』だと思っている。だからこそ、京の二条御所という、もっとも警備の厳重な檻の中に俺を閉じ込めようとする。だがな……」


義輝は立ち上がり、開け放たれた障子の向こうに広がる、朽木谷の美しい新緑を見つめた。

「神輿の中に座っているのが、ただの人形ではなく、いつでも奴らの喉笛を掻き切れる『人斬りの化け物』だとは、長慶もまだ気づいておるまい」


天文二十一年(1552年)一月、足利義輝は、三好長慶の軍勢に警護されるという屈辱的な形で、ついに念願の京都への帰還(帰洛)を果たす。

しかし、それは平和の始まりではなかった。

戦国という巨大な怪物の胃袋の中に、一人の若き剣豪が、自ら飛び込んでいくための開戦の合図であった。


(第三章・了)

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