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小説 足利義輝 鳳凰の刀 1536-1565  作者: 山田 誠一


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第四章:十七歳の初陣、東山に血が舞う


天文二十一年(1552年)春。

足利義輝は、実におよそ五年ぶりに京の土を踏んだ。


かつて応仁の乱で焼け野原となり、その後も幾度となく戦火に包まれた京の街であったが、それでも室町第(花の御所)周辺には、天下の都としての格式が奇妙に残っていた。民衆は道端に平伏し、「公方様のお帰りだ」と手を合わせた。


だが、その行列の前後を固めているのは、足利家の直参旗本ではない。

前支配者である細川晴元を叩き出し、新たな京の主となった男――三好長慶が配した、阿波や讃岐から連れてこられた屈強な三好の兵たちであった。彼らは平伏する民衆を冷たい目で見下ろし、行列の中央にいる十六歳の将軍を、いつでも捕らえられる獲物のように監視していた。


義輝が案内されたのは、二条にある新御所であった。御所のしつらえは贅を尽くしたものであったが、義輝にとっては、朽木谷の泥むき出しの土間よりも息が詰まる「黄金の檻」であった。


「公方様、三好筑前守(長慶)殿が拝謁を求めております」

側近の細川藤孝が、緊張で声を上ずらせながら告げた。間もなくして、広間に一人の男が入ってきた。


三好長慶。このとき三十一歳。

この男こそ、のちの織田信長よりも二十年も早く、圧倒的な軍事力で近畿八ヶ国を支配し、日本で最初の「天下人」の座に就いた規格外の怪物であった。

戦国の覇王といえば、織田信長のように鋭利な光を放つか、武田信玄のように山のような威圧感を持つ者を想像しがちだが、長慶はまるで違った。小柄で、色の白い、細面の顔立ち。どこか一流の連歌師か高貴な公家のような、洗練された静けさをまとっていた。


しかし、義輝は騙されない。


長慶のまとう「静けさ」とは、生まれの気品から来るものではない。己の感情を完璧に管理し、中世の神話や血筋を一切信じず、物事をすべて「冷徹な損得の計算」で処理できる者だけが持つ、最先端の合理主義の静けさであった。


長慶にとって足利将軍など、日ノ本を統治するための都合の良い「便利な道具(看板)」にすぎない。平伏しているこの男こそが、自分の自由をすべて奪い、足利家を滅ぼしかねない最大の脅威なのだ。


「上様、この度のご帰洛、まことにおめでたく存じまする。これよりは、この長慶が不忠の輩から上様をお守りいたします」

長慶は、完璧な礼儀作法で平伏した。その言葉にはいかにも臣下としての恭順が溢れていた。しかし、その背後には数万の軍勢という、圧倒的な暴力の現実が控えている。


「筑前(長慶)、大儀である。留守中の京の静謐、見事であった」

義輝は、あえて淀みなく、父・義晴がそうであったような「尊大な将軍」の声音で答えた。


長慶が、ふと顔を上げた。

その瞬間、二人の視線が空中で激突した。長慶の目が、わずかに細くなる。


(……聞いていた話と違うな)

長慶の胸に、冷たい警戒が走った。

風聞では、近江の山奥で泥にまみれて育った、世間知らずの小倅のはずだった。だが、いま目の前に座っている若者の眼光は、ただの飾り物の人形のそれではない。いつでもこちらの喉笛を食い破ろうと牙を研いでいる、野生の獣の輝きがあった。何より、直衣の袖に隠されたその肉体から、極限まで鍛え上げられた武人の気配が、隠しきれずに滲み出ている。


「筑前、何か申したいことがあるか」

「いえ……。上様が、まことに健勝であられること、天下の至福と存じまする」

長慶は不気味なほど穏やかな微笑を浮かべ、再び深く頭を垂れた。


この日、二人の現実主義者は、言葉ではなく、互いが放つ「気配」によって、相手が容易ならぬ領域の敵であることを瞬時に悟り合ったのである。



京での生活が始まったが、義輝に与えられた権力は、やはり「紙切れ(御内書)」を出すことだけであった。

毎日、諸国の大名からの訴訟や、所領の安堵を求める書状が山のように届く。

義輝はそれらに次々と花押を記していくが、そのすべては、三好家の右筆(書記)が事前に内容を検閲し、「これなら出しても良い」と許可したものばかりであった。


「公方様、本日の分にございます」

三好家から遣わされた若い役人が、傲慢な態度で書状を畳に置く。

義輝は何も言せず、ただ黙々と筆を走らせた。


側近たちは、その屈辱的な日々に涙を流し、「いつか三好を誅罰せねば」と陰口を叩き合っていたが、義輝自身の心は、驚くほど凪いでいた。


(長慶は、俺の『筆』を縛っているつもりだろう)

義輝は、夜の帳が下りた御所の奥で、一人で腕をさすった。

政治の主導権を握られていることは事実である。

だが、長慶の致命的な誤算は、義輝という男の本質が「政治家」ではなく「剣客」であるという点を見抜けなかったことだ。


義輝は、昼間の屈辱を、夜の鍛錬の糧に変えた。

京に戻ってからも、彼は密かに上泉信綱(のちの新陰流開祖)らの剣客を御所に招き、あるいは夜を徹して一人で刀を振り続けた。


手の中の鉄だけが、彼を裏切らない。

昼間、三好の役人に頭を下げさせた肉体は、夜になれば、いつでもその役人の首を撥ね飛ばせる凶器へと研ぎ澄まされていく。

この二重生活こそが、義輝の精神を狂気から救い、逆に恐るべき冷徹さを植え付けていった。


この時期の京には、もう一人の「怪物」がいた。

長慶の執事(のちの家老)であり、将来、義輝の運命を根底から変えることになる男――松永久秀まつなが ひさひでである。


久秀はこのとき、四十代半ば。

松永久秀は出自の怪しい素浪人から、その圧倒的な知略だけで三好家家臣の最上位へと登り詰めた男だった。


主君である長慶が「最先端の政治家」であるとするなら、久秀はその陰で汚れ仕事をすべて引き受ける「冷酷無比な執行人」であった。神仏を恐れず、主君すら欺く男として後世に悪名を轟かせるこの男は、主君の長慶よりもはるかに深い冷徹さで、若き将軍・義輝を観察していた。


「長慶様、あの公方様は生かしておくと、いずれ厄介なことになりまする。早いうちにその首を刎ねるべきかと」


久秀は、ある夜の酒席で、長慶にさらりと恐ろしい進言をした。


「なぜだ、弾正(久秀)。公方様は大人しく我らの指図に従い、毎日黙々と判を突いておられるではないか。無害な人形よ」

長慶が不思議そうに首を傾げると、久秀は細い目をさらに細め、声音を落とした。


「あれは、従っているのでございませぬ。『堪えている』のでございます。己の爪を、肉の中に深く突き立てて、時が来るのを待っている」


長慶は久秀の言葉を「考えすぎだ」と笑い飛ばしたが、この男の直感は正しかった。


義輝は、ただ耐えているのではなかった。彼は三好政権という巨大な建造物の「構造上の弱点」を、剣術の間合いを測るように、冷酷に見定めようとしていたのである。



天文二十二年(1553年)八月。

京の夏は、例年にない酷暑の澱を盆地の底に溜め込んでいた。

京に戻ってわずか一年余り、義輝が十七歳のとき、偽りの静謐は突如として破られる。


京の周囲に潜伏し、虎視眈々と権力の座を狙っていた前管領・細川晴元が、三好打倒を目指してついに兵を挙げたのである。晴元の軍勢は破竹の勢いで洛中へと迫り、これに呼応した幕府の直参旗本、奉公衆の一部が二条御所の門を内側から開け放った。


「公方様! 細川晴元殿の軍勢が、すでに鴨川を越えて東山へ進出しております! 三好の包囲網を破る好機にございます、これへ!」


御所の回廊に、甲冑の擦れ合う乾いた音と、側近たちの興奮した悲鳴が響き渡る。

若き細川藤孝が、息を荒くして主殿の敷居を跨いだ。藤孝の背後では、三好の報復を恐れて顔を青ざめさせた古参の家臣たちが、右往左往と狼狽している。


しかし、十七歳の将軍・足利義輝は、驚くほど冷静であった。

彼は大名たちの差し出した上等の直衣を無造作に脱ぎ捨てると、近江の朽木谷から持ち帰った、煤けた漆黒の当世具足を自らの手で締め直した。


「上様、晴元殿に御味方なされるのですな! あやつの軍勢を神輿として担ぎ、三好を京から叩き出すのですな!」


縋り付くような進藤貞治の言葉に、義輝は冷たい視線を向けた。

義輝は床板に突き刺してあった一振りの太刀を引き抜き、鯉口を静かに切った。


「藤、勘違いするな。晴元に味方するのではない。あのような、戦のたびに逃げ回る男に、この足利の命運を預けられるか。……これは、俺が俺の肉体と鉄の力で、京の街を勝ち取るための戦いだ」


藤孝は、その言葉に若き主君の凄まじい「個の覚意」を見た。義輝は、三好が配した監視の兵たちの喉笛を、御所の闇の中でまたたく間に切り裂き、自ら直参の兵数百人を率いて、戦火の立ち上る東山へと出陣した。

これが、第十三代将軍・足利義輝の、歴史に刻まれるべき「初陣」であった。

しかしその初陣の相手とは、自分を囲い、自分を傀儡として飼い慣らそうとしていた、三好長慶の巨大な軍事力そのものであった。


東山の如意ヶ嶽。

盆地を見下ろす山肌には、夜明け前から不気味なほどに深い霧が立ち込めていた。一寸先も見えぬ白濁の世界から、無数の兵たちの足音と、馬の嘶きが重低音となって響いてくる。


その霧の向こう、三好軍の本陣。

仮設の陣幕の中で、松永久秀は床に地図を広げ、冷ややかな目で戦況を凝視していた。


「弾正(久秀)殿! 急報にございます!」

伝令の兵が、泥塗れになって陣幕に転がり込んできた。

「東山の麓、我が先鋒の陣へ、突如として奇襲を仕掛けてきた軍勢がございます! 旗印は……、足利家の家紋! 公方様自らが先頭に立ち、斬り込んできておりまする!」


「何だと……?」

傍らにいた三好軍の当面の総大将・三好長慶が、立ち上がって声を荒らげた。

「晴元の賊軍ではなく、公方様自らがだと? 十七の小倅が、一体何の真似だ。神輿の分際で、戦場の砂を噛みにきたか!」


しかし、松永久秀は驚かなかった。むしろ、その色の白い細面の顔に、薄気味悪い納得の笑みを浮かべた。

「だから申し上げたのです、長慶殿。あの若公方は、檻に入れて飼えるような大人しい鳥ではない、と。……あれは、自らの爪で人間の臓物を引き裂く、兇鳥でございますよ」


久秀は立ち上がり、陣幕の隙間から、白く煙る如意ヶ嶽の山肌を睨みつけた。


「面白い。神輿が刀を持ってどこまで踊れるか、見せていただきましょう。長慶殿、貴殿が本陣を動かして奴を叩き潰しなされ。容赦は要らぬ。将軍の権威ごと、泥の中に突き伏せるのです」


その頃、如意ヶ嶽の麓は、視界を遮る霧と、飛び散る鮮血によって、完全な修羅の庭と化していた。

足利義輝は、本陣の奥でどっしりと控えているような、床の上の将軍ではなかった。彼は愛馬の腹を激しく蹴り、自ら烈風のごとく前線へと突っ込んでいた。


「上様! 突出が行き過ぎております! お下がりくだされ!」

後方から細川藤孝が槍を振るいながら叫ぶが、義輝の耳には届かない。


霧の壁を割って、三好軍の精鋭、屈強な槍兵三人組が「恩賞の首だ!」と怒号をあげて突きかかってきた。三本の鋭い穂先が、容赦なく義輝の胸元へと殺到する。

その刹那、義輝は馬上で驚異的な体術を見せた。新当流の極意「間合いの見切り」により、上体をわずかに反らすだけで、二本の槍を空に切らせる。


「邪魔だ――!」


義輝が吼えた。馬上から振り下ろされた太刀が、電光となって霧を切り裂く。

最初の男の槍の樫の柄が、一刀のもとに叩き折られた。男が驚愕に目を見開いた瞬間、義輝の返しの一撃が、男の兜の隙間、剥き出しの首筋を深々と引き裂いていた。噴き出した大量の返り血が、朝の霧の中に赤く霧散する。


二人目の男が、その尋常ならざる腕前に怯んで足を止めた。戦場において、一瞬の躊躇は死を意味する。

義輝は馬を躍らせ、その男の頭上から、全体重を乗せた一撃を叩き込んだ。堅牢なはずの鉄兜が、不気味な骨の砕ける音とともに真っ二つに割れる。男は悲鳴すらあげられず、脳漿をぶちまけて泥の中に崩れ落ちた。


「化け物か! これが本当に、京の公方様なのか!」

三人目の兵は、目の前で起きたあまりに凄絶な殺戮に、完全に心を折られた。男は持っていた槍を放り出すと、恐怖に顔を歪め、身内のいる霧の向こうへと脱兎のごとく逃げ出した。


「公方様は、本物の武人だ!」

周囲を囲んでいた三好の兵たちに、爆発的な恐慌が広がった。


だが、敵は一万の大軍である。次から次へと地平線を埋め尽くすように湧き出る兵の波。馬上から激しく刃を振るい続ける義輝の手元で、ついに最初の刀が肉と骨の脂を吸い、切れ味を失って鈍い音を立て始めた。


「ちっ……なまくらめ!」

義輝は容赦なくその刀を投げ捨てると、鞍の横に予備として括り付けていた二振目の太刀を素早く引き抜いた。


「行くぞ!」

馬を疾駆させ、群がる敵の頭上から再び白刃の嵐を巻き起こす。胴を裂き、腕を飛ばし、瞬く間に五人を斬り伏せるが、大軍の肉の厚みは異常であった。二振目もすぐに脂が乗り、骨に当たって刃こぼれを起こす。


「無ければ奪うまで!」

義輝は並走してきた三好の騎馬武者の顔面を鉄拳で殴りつけると、男が落馬する瞬間に、その腰から太刀を力任せに分捕った。


「これでどうだ!」

奪い取った刀を即座に引き抜き、襲いかかる足軽たちの首を真横に薙ぎ払う。斬れなくなれば捨て、死体から次の刀を拾い、あるいは突き出された槍を素手で掴んで奪い取り、敵を叩き潰す。十七歳の少年は、戦場のすべての武器を使い捨てる狂戦士と化していた。


その凄まじい突破力は、霧を割り、ついに三好軍の心臓部――総大将・三好長慶の旗本陣へと到達した。


「な、何だと……本当にここまで来ただと!?」

馬上の長慶が顔を強張らせたとき、霧を引き裂いて突進してきたのは、全身に敵の返り血を浴び、鬼の如き形相をした足利義輝であった。


「三好長慶!その首貰い受ける!」


義輝は愛馬を跳躍させ、長慶の目の前へと肉薄した。新当流の全霊を込めた「一の太刀」が、上段から長慶の脳天へと目がけて一直線に振り下ろされた。


しかし、運命は非情であった。


冷酷に響く甲高い破砕音。

義輝が手合にしていたのは、先ほど戦場で名もなき雑兵から奪い取った、大量生産の粗悪な刀(数打ち物)であった。全身の渾身の力で振り下ろそうとするその瞬間、なまくらの鉄が耐えきれず、根元から無残に折れ飛んだのである。


周囲の空気が一変した。


「総大将をお守りせよ!」

「公方様の刀が折れたぞ! 囲め、突き殺せ!」


我に返った長慶の旗本衆、数百人の精鋭たちが、怒濤の如き地鳴りを立てて義輝の周囲へと殺到した。長慶の身体は、瞬く間に何重もの鉄の盾と槍の林の向こうへと隠され、完全に護衛の壁に遮られてしまった。


そこへ、背後から馬を急ぎ飛ばしてきた細川藤孝が、義輝の前に割り込んだ。


「 上様!細川晴元殿の軍勢が、壊滅いたしました! 包囲されるまであと僅か!ご決断を!」


全身に敵の返り血と自らの血を浴びた藤孝が、声を枯らして絶叫した。


晴元軍の壊滅。そして、目の前で再び強固に再編成されていく敵総大将の護衛陣。

どれほど個の武勇が神懸かっていようとも、ここから長慶を討ち取ることは不可能であった。


「……藤、退くぞ」

義輝は、低く、しかし驚くほど澄んだ声で言った。


義輝は巧みな手綱捌きで愛馬を反転させると、押し寄せる槍ぶすまのわずかな隙間を縫うようにして、霧の向こうへと疾風のごとく撤退を開始した。


(だが、俺の牙は折れてはいない。足利の鳳凰が、三好どもに屈したわけではないことを、思い知らせてやる)


如意ヶ嶽の戦いは、三好の完全な勝利に終わった。

足利義輝は、わずかな手兵とともに、再び京を追われ、近江国・朽木谷へと落ち延びていくことになる。五年前の逃亡の再現であった。


再びの敗北。再びの流浪。

しかし、馬を走らせて逢坂の関を越え、近江へと向かう義輝の顔に、悲壮感は微塵もなかった。彼の返り血に染まった唇は、闇の中で妖しく、不敵に釣り上がっていた。


(長慶。俺の太刀の味はどうであった。次に出会うときは、本物の名刀を揃えて、お前の首を貰い受ける)


京を包む深い霧の向こうで、若き剣豪将軍の執念は、敗北という名の極上の砥石によって、さらに黒く、さらに鋭く、その牙を研ぎ澄まされていくのであった。


(第四章・了)

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