第九話 「分解」
式典まで、あと二日になった。
その夜、冴は覚書のノートを開いた。〈見取り〉のページ。〈羽〉〈風〉〈群れ〉——三つの言葉の下に残っていた空白を、しばらく見つめた。
今日一日を、順に思い出してみることにした。
搬入口。ハトが二羽出てきたとき、飛ばさなかった。三羽目が出て、飛ばした。理由は、と自分に問う。
風が、搬入口から施設の外に向かって抜けていた。二羽のときは、まだ弱かった。三羽目が出た瞬間、少し強くなった。疾が向かい風に乗れば、追う速度が上がる。
それだけではなかった。
二羽のときは、隊列がまとまっていた。三羽目が出て、少し崩れた。群れは、隊列が崩れた瞬間の方が散りやすい。
疾の姿勢も見ていた。腕の上で、二羽のときはまだ体が沈んでいた。三羽目が出た瞬間、わずかに重心が前に出た。
風。群れの隊列。疾の重心。
一つ一つを、今まで別々に意識したことはなかった。ただ、同時に見ていた。全部が重なった瞬間に、体が動いていた。
冴は鉛筆を止め、しばらく天井を見た。
言葉にならなかったのは、根拠がなかったからじゃない。
根拠が多すぎて、同時に見ていたから、分けて言えなかっただけだ。
その考えに行き着いたとき、冴は初めて、覚書に手を戻した。
〈風だけでは決めない〉
〈鳥だけでも決めない〉
〈疾だけでも決めない〉
〈全部を見る。重なったところに、放つ瞬間がある〉
書きながら、冴はふと気づいた。
これを、源蔵は「間」と呼んでいたのではないか。
間は、勘じゃない。
ただ、言葉になっていなかっただけだ。
冴は鉛筆を置いた。手が、少し震えていた。
源蔵の「見ろ」を、ずっと不親切だと思っていた。今も、その気持ちが完全に消えたわけではない。ただ、一つだけ分かったことがある。
「見ろ」は、間違っていなかった。見なければ、何も分からない。それは本当だった。
ただ、「見ろ」の次がなかった。
見た先で何を、どう分けて、どう言葉にするか。そこから先を、源蔵は残さなかった。教えなかったのか、教えられなかったのか、それはもう分からない。
残さなかった「次」を、今、自分が書いている。
冴はページをめくり返した。〈手〉とだけ書かれたページが出てきた。その下は、まだ白紙のままだった。
見取りは、分解できた。間も、言葉になりかけている。放ちにも、理由がある。
それでも、〈手〉の下だけは、何も書けなかった。
鷹を乗せるんじゃない。預けるんだよ。
源蔵の言葉が、また頭の中で鳴った。何を預けるのか。まだ、分からなかった。
冴はノートを閉じずに、そのままにしておいた。
時計を見ると、日付が変わっていた。
机の上のページは、半分以上が文字で埋まっていた。
冴は明かりを消した。
ノートは、開いたままだった。




