だったら、本人に聞きます
女性が戻ってきたのは、翌朝、開店より早い時刻だった。
目の下に、眠れなかった夜の色がある。それでも声は、昨日より静かだった。
「直してください」
リーゼは、確かめるように聞いた。
「いいんですか。手掛かりは、消えてしまいます」
「一晩、考えました」
女性は、勧められた椅子に腰を下ろした。
父が何を後悔していたのか、知りたい。それは本当だ。壊れたままの時計を調べてもらえば、いつか何かが分かるのかもしれない。
「でも、それって……壊れた時計に、父の代わりに喋らせるってことですよね」
リーゼは、言葉を失った。
「父は、生きてるんです。汽車と馬車で二日の場所へ、引っ越すだけで。……死んだ人みたいに、遺したものから気持ちを探るのは、まだ早いと思うんです」
だから、と女性は顔を上げた。
「だったら、本人に聞きます。時計は、時計に戻してあげてください」
夜通し迷った末の結論にしては、あっけらかんとした声だった。
リーゼは深く頷いて、作業台へ向かった。
修理は、昼過ぎまでかかった。
祖父の抽斗から、同系統の歯車を探し出す。ラベルの古い字を頼りに三つの箱を開けて、三つ目でようやく見つかった。
四十年前の部品が、油紙に包まれて、新品のまま眠っていた。いつかどこかの時計のために、祖父が仕舞っておいたものだ。
(お借りします、お祖父様)
摩耗した歯車を三枚。乾いた軸受けに油。緩んだ竜頭の噛み合わせ。部品を替えるたび、指先の奥で後悔が薄れていくのが分かった。
石臼が、少しずつ、回るのをやめていく。
申し訳なさは、不思議となかった。この後悔は、時計に預けたままにしておくものではない。持ち主が、自分の口で話すべきものだ。
最後のねじを締め、竜頭をゆっくり巻く。ぜんまいの手応えが、四十年前の設計図の通りに指へ返ってくる。
ち、ち、ち。
四時十二分で止まっていた針が、動き出した。
女性は息を呑み、それから泣き笑いのような息を吐いた。
「……動くと、ちゃんと時計なんですね」
「時計ですから」
時計の中の後悔は、もうほとんど感じられない。代わりに真新しい油と、これから刻まれていく時間の気配だけがあった。
女性は時計を両手で受け取り、耳に当てて、長いこと音を聞いていた。
「明日の朝、停留所へ行きます。……渡すものが、できたので」
その日の夕方、閉店間際に、アルベルトが立ち寄った。時計が直ったと聞くと、彼は少し迷ってから言った。
「……信じるんですね」
「何を」
「残響のことです。昨日の今日で、疑いもせずに」
「君が嘘をつくなら、もう少しましな嘘をつくだろう」
「それ、信用されているんでしょうか」
「少なくとも、嘘の才能は信用していない」
リーゼが呆れて笑うと、アルベルトは真顔のまま付け加えた。
「この件は、君が話していいと言うまで、誰にも言わない」
それは宣言というより、監査官が規約を読み上げるような、几帳面な約束だった。だからこそ、守られると分かった。
「……ありがとうございます」
「何がだ」
「昨日の、聞き方が」
うまく言えずに口ごもると、アルベルトは視線を検査器へ落とした。
「事実を確認しただけだ」
耳の後ろを掻きながら言うので、説得力はあまりなかった。
帰りぎわ、彼は手帳を短く確かめた。
「オルゴール。懐中時計。どちらも携帯式、供給網に繋がらない、町に長くあった」
「剣には、なかった」
「……接続の有無じゃない。別の条件だ」
それが何なのかは、二人とも、まだ言葉にできなかった。
「祭りの前に、塔の点検記録を見せてもらう手筈をつけた。何か出るかは分からんが」
戸口でそう言い残して、アルベルトは帰っていった。監査は一区切りのはずなのに、この人はまだこの町にいる。
理由を聞くのは、やめておいた。
翌朝。
リーゼは直した吊り灯を町内会へ納めるため、朝早くから広場へ出ていた。朝靄の中、祭りの櫓に半分だけ飾りが付いて、町はまだ眠りと支度の間にいる。
広場の端、乗合馬車の停留所に、荷物を積んだ馬車が停まっていた。長年の暮らしを畳んだにしては、荷は少ない。
その前に、昨日の女性と、白髪まじりの大柄な男の人が、少し離れて向かい合って立っていた。
声が届く距離ではない。リーゼは吊り灯の箱を抱えたまま、足を止めた。
女性が、懐中時計を差し出す。父親が受け取りかけ、思い直したように押し返す仕草をする。おまえが持っていろ、とでも言ったのだろう。
女性は首を振った。それから父親の手を取って、時計をその掌に握らせ、指を上から畳ませた。何かを言う。
短く、一言か二言。
父親が、下手くそに頷いた。頷き方を長く使っていなかった人の、ぎこちない首の動きだった。
馬車が動き出す。父親は窓から顔を出さなかったが、時計を握った手は、最後まで膝の上にあった。
女性は、馬車が角を曲がって見えなくなるまで、通りに立っていた。
リーゼは箱を抱え直し、そっと広場を横切った。声をかけるのは、今ではない。
昼過ぎ、女性は工房へ寄って、勘定の残りを払っていった。
「時計、渡しました。返してもらいに行くから、って」
そう言って、少しだけ得意そうな顔になった。
「父ったら『今聞かないのか』って言うんですよ。今聞いたら喧嘩になるでしょう、って言ってやりました。そうしたら『……そうか』って。あの人、昔から返事が二種類しかないんです」
「来年の灯火祭は、父のところから帰ってきてから見ます。……ちゃんと聞けたら、そのときに」
女性は深く頭を下げて、帰っていった。
夜、店じまいのあとで、リーゼは便箋を一枚、出してみた。
結局、書けたのは宛名だけだった。侯爵家の家名も、様も付けない、ただの「お父様へ」。
続きは、また今度でいい。
窓の外では、灯火祭を明後日に控えた町が、試し灯りにひとつ、ふたつと火を入れはじめている。
あの灯りを全部ともすために、明日は町の魔導塔で出力の試験があるらしい――と、帰りぎわのアルベルトが、少しだけ仕事の顔に戻って言っていた。




