何が分かって、何が分からないのか
リーゼの手が、止まった。
気のせいではない。歯車を一枚外しただけで、石臼のようだった後悔が、確かに軽くなっている。
理屈は、考えるまでもなく分かってしまった。残響は、壊れた瞬間と積み重なった日々の痕だ。部品を替えるということは、その痕を、新品の沈黙で置き換えていくということ。
修理を進めれば、後悔はさらに薄れる。完全に直せば――おそらく、ほとんど消える。
直すことと、残すこと。この時計では、両立しない。
「手が止まっている」
アルベルトの声がした。
「……少し、考えているだけです」
「オルゴールの時も、同じ顔をしていた」
心臓が、跳ねた。
落下痕です、と言い換えた、あの夕方。一拍だけ長かった視線。この人は、忘れていなかったのだ。
アルベルトは検査器を置き、作業台を挟んでリーゼの正面に立った。
「話せないことなら、それでいい」
間があった。
「ただし、安全に関係するなら、話してくれ」
詰問ではなかった。先に逃げ道を用意しておく聞き方だった。だからこそ、ごまかしの言葉が出てこなかった。
リーゼは、手の中の時計を見た。
誰にも話さずに来た。両親にも、妹にも。祖父にも――言わなかった。あの人なら、たぶん笑わずに信じてくれた。
分かっていて、それでも言えなかった。口にした瞬間、自分が「技師」ではない別の何かになってしまう気がして、怖かったのだ。
けれどこの数日、隣で同じ謎を調べてきた人に、手品の種を隠したまま組みつづける方が――よほど、不誠実な気がした。
「……笑わないで、聞いてもらえますか」
「約束はできない」
「そこは嘘でも約束してください」
「善処する」
リーゼは、話した。
壊れた魔導具に触れると、感じ取れるものがあること。持ち主の感情。魔力の重なり。過去の修理の痕。
外から流れ込んだ魔力。オルゴールの恐怖も、剣の安堵も、そうやって知ったこと。
そして、できないことも。映像は見えない。言葉は聞こえない。誰の感情かは、分からないことの方が多い。
感情の理由は――決して、分からない。
アルベルトは、最後まで口を挟まずに聞いた。
聞き終えて最初に出てきたのは、疑いの言葉ではなかった。
「何が分かる?」
「……え?」
「いまの説明の通りなら、君に分かるのは感情と魔力の痕。それ以上に、何が分かる?」
「それ以上は、何も」
「なら、何が分からない?」
「誰の感情か。いつのものか。……どうしてそうなったのか」
アルベルトは自分の腰から検査器を外し、卓の上へ置いた。
「これから何か分かるか」
「……いえ。損傷も変質もない、健全な魔導具からは読めません」
「俺の外套は」
「魔導具ではないので、読めません」
「そうか」
試したな、とリーゼは思ったが、咎める気にはならなかった。話を疑うのではなく、輪郭を確かめている。
この人の信じ方は、たぶん最初からこういう形なのだ。
アルベルトは数秒、宙を見た。数値の合わない計算を検分するときの目つきで。それから、結論を置いた。
「なら、証拠じゃない」
胸の奥が、すっと冷えた。やはり、そう言われるのか。
「だが、手掛かりにはなる」
顔を上げると、彼はもう検査器の記録を繰っていた。
「オルゴールの恐怖も、剣の安堵も、物証と証言に先回りしていた。使い方を間違えなければ、使える」
使える。
気味が悪い、でもなく。信じられない、でもなく。この人は真っ先に、道具としての精度を測った。
それは、リーゼが想像していたどんな反応より、息のしやすい評価だった。
「今後は分担する。残響側で分かることは君が見る。物理側は俺が見る」
「……一緒に調べる、ということですか」
「今までも、そうしていただろう」
当然のことのように言われて、リーゼは返事に少し困った。困りながら、手袋の指先を意味もなく直した。
秘密がひとつ減った工房は、妙に風通しがよかった。おかしな話だ。窓の数は、昨日と変わらないのに。
翌朝、依頼人の女性がまた来ることになっている。その前に、伝えることを決めておかなければならなかった。
夕方、灯具を取りに来た女性を、リーゼは呼び止めた。
「時計のことで、一つだけ」
言葉は、慎重に選んだ。
「古い魔導具には、持ち主の使い方の痕が残ります。魔力の癖のようなものですが……お父様のこの時計には、とても強い『後悔』の痕が残っています」
女性の目が、見開かれた。
「何を後悔していたのかまでは、分かりません。ただ、ここから先を直すと、その痕は消えていきます。古い部品ごと、新しいものに置き換わってしまうので」
「……消える」
「はい。直すことと、痕を残すこと。この時計では、両立しないんです」
嘘は言っていない。ぜんぶを言ってもいない。それでも、選ぶために要る事実は、これで卓の上に揃ったはずだった。
女性は、長いこと時計を見つめていた。
「後悔って……私と喧嘩したことを、でしょうか」
「分かりません。そこまでは、どうしても」
「そう、ですよね」
女性は薄く笑って、それから、笑いを引っ込めた。
「変なことを言いますけど。壊れたままのこれを見てると、父と話してるときより、父のことを考えてる気がするんです」
止まった針。四時十二分。その時刻に何があったのかさえ、娘は知らない。
父が何を後悔していたのか。それを知る手掛かりは、この壊れた時計の中にしかない――ように、見える。
そして父は、明後日の朝、町を出る。
「……一晩、考えさせてください」
女性は時計を置いて、帰っていった。
リーゼは、四時十二分で止まったままの針を見下ろした。
(残響を、追うか)
(それとも――生きている本人に、聞くか)
どちらを選ぶにしても、残された時間は、明日一日しかなかった。
その夜、リーゼは時計を柔らかい布で包み、棚のいちばん静かな段へ仕舞った。
読もうと思えば、まだ読める。裏蓋に触れて、あの石臼の後悔をもう少し辿れば、何か掴めるかもしれない。
……読まない。
手袋を、外さないまま棚を閉めた。これは彼女の時計で、彼女の父で、決めるのは彼女だ。修復師が先回りして聴いていい声ではない。




