父の懐中時計
祭り用の古い吊り灯は、七つ目まで直して、八つ目に取りかかったところだった。
灯火祭まで、あと四日。〈つぎはぎ屋〉の作業台には、町内会から預かった旧式の魔導灯が列を作っている。
百年続く祭りだけあって、灯具も年代物が多い。磨けば灯るもの。笠の油紙を張り替えるもの。魔力線の繋ぎが甘いもの。
一つずつ確かめては点し、消し、次へ移る。
灯具を持ち込んだ町内会の年配は、預けるとき、しみじみと言った。
「あんたの祖父さんも、毎年これを直してたよ。祭りの前だけは、店を閉めてでもね」
それなら、と引き受けた仕事だった。二十の吊り灯は、つまり祖父が二十年直してきた灯だ。手順の癖が、あちこちの補修痕に残っている。
答え合わせをしながら進むようで、捗った。
単調で、静かで、いい仕事だった。手伝いに来ているミアが、点いた灯を数える係を勝手に引き受けている。
「八つ! あと十二!」
「数えると増えた気がするから、やめてほしいのだけれど」
「二十って言うと、おばあちゃんは『あら少ない』って言うよ」
祭りの前は、どこの家もそんな調子らしい。ミアは今日も灯籠行列の練習帰りで、頬がまだ上気していた。
八つ目の灯が行儀よく点ったのを見届けて、ミアが帰っていったすぐあと、戸口の鈴が控えめに鳴った。
入ってきたのは、二十代半ばの女性だった。仕立てのいい外出着に、疲れの染みた目元。胸の前で、小さな布包みを抱えている。
戸口で一度ためらい、看板をもう一度見上げてから、ようやく敷居をまたいだ。
「あの……修理を、お願いしたくて」
包みから出てきたのは、古い懐中時計だった。
銀の蓋には細かな傷が無数に入り、竜頭は磨り減って丸い。鎖の環は二度ほど付け替えられている。
長い年月、毎日、同じ人のポケットで生きてきた時計だ。
蓋を開けると、針は四時十二分で止まっていた。
「父のものなんです」
女性は、ぽつりぽつりと話した。
父は、この町で長く建具屋をしていたこと。二年前、店を継ぐ、継がないで大喧嘩をして、彼女は隣町の仕立物の工房へ勤めに出たこと。
それきり、父とは必要な話以外していないこと。
その父が――明後日の朝、この町を出る。店はもう畳んだ。親戚のいる土地で暮らすのだと、本人からではなく、人づてに聞いた。
「昨日、急にうちへ来て、これだけ置いていったんです。何も言わずに」
荷物の整理で出てきたのだろう、壊れた時計を一つ、卓の上に。
「……捨てろって意味なのか、持っていろって意味なのかも、分からなくて」
直せば、何か分かる気がしたんです。そう言って、女性は目を伏せた。
リーゼは時計を受け取り、状態を確かめた。四十年ほど前の携帯式。竜頭の巻きは重く、耳を近づけると、歯車が噛みかけては空回りする微かな音がする。
摩耗が進んでいて、分解整備が要る。部品は――祖父の抽斗に、同じ系統の型があったはずだ。頭の中で工程を並べる。
けれど、直せる。それは確かだった。
「お預かりして、明日にはお渡しできます」
「……お願いします」
女性が帰り支度をするあいだに、リーゼは右の手袋を外し、裏蓋の内側へ指先を添えた。
――流れ込んでくる。
まず、幾重にも重なった、同じ人の魔力の癖。穏やかで、変わらない気配が、何十年ぶんも積もっている。
その奥に。
重い、〈後悔〉。
怒りのように熱くはない。恐怖のように鋭くもない。同じ場所を、ゆっくりと巡りつづける、石臼のような感情だった。
(……何を、後悔しているの?)
それが、分からない。娘との喧嘩か。家業のことか。それとも、もっと別の何かか。感じ取れるのは感情の重さだけで、中身までは伝わってこない。
「……どう、ですか」
女性の声に、リーゼは顔を上げた。
「直せます。歯車を三枚替えて、油を差し直せば、また動きます」
女性の肩から、わずかに力が抜けた。
「おいくら、ですか」
リーゼは部品代と手間賃を伝えた。仕立物の工房勤めに無理のない額のはずだが、女性は金額を聞いていないような顔で頷いた。
値段の話をしに来たのではないのだ、この人は。
アルベルトが工房へ顔を出したのは、その日の夕方だった。祭り前の監査は今日で一区切りらしい。
彼は挨拶より先に作業台の時計へ目を留め、検査器を取り出した。
「借りるぞ」
「どうぞ」
触針が時計をなぞる。読み取りを二度繰り返して、彼の眉が寄った。
「……これも、か」
差し出された記録紙を、リーゼも覗き込む。薄い。オルゴールのときよりずっと薄い。だが、あの気味の悪いほど均一な波形が、確かに出ている。
「この時計、供給網には」
「繋がりません。携帯式です。巻いた魔力だけで動く型ですから」
「持ち主は」
「この町の建具屋さんです。長く、この町で」
アルベルトは記録紙の端へ、時計の型番と日付を書き付けた。オルゴール。そして、この時計。繋がっていないはずのものが、二件。
一件なら、偶然と呼べた。二件目からは、呼び方を探さなくてはならない。
リーゼは作業台へ戻り、摩耗した歯車の一枚目を、そっと外した。
その瞬間。
指先の奥で、あの重い後悔が――ほんのわずか、薄くなった。




