最初の売上
古い魔導鍋は、火力の目盛りを三に合わせると、九の火を噴いた。
「……これは、直しがいがありますね」
「危なくて仕方ないよ。麦粥が三度、炭になった」
依頼主のおかみさんは笑ったが、声に棘はなかった。
鍋を裏返し、火力の調整弁を覗く。二十年ものの型で、弁の座金がすり減って、目盛りと実際の魔力量が噛み合わなくなっている。
座金だけの替えはもう売っていない。だから、ひと回り大きい汎用の座金を削って合わせる。
小一時間ほどで、鍋は行儀のよい火を灯すようになった。目盛り三で、三の火。
「まあ……。あんた、本当に直しちまうんだね」
「壊れたものなら、直せますので」
おかみさんは銅貨を数え、それから焼き立てだという黒麦の麺麭を一つ、勘定に載せて置いていった。
ミアのオルゴールの話は、リーゼが思っていたより早く町を回ったらしい。ここ数日、〈つぎはぎ屋〉には小さな依頼が続いている。
火力の暴れる魔導鍋。毎朝きっかり五分遅れる置き時計。子どもが石畳へ落として、泣きながら抱えてきた魔導灯。
中には、蓋を開けて確かめたうえで、
「これは……新品を買った方が、安いです」
とリーゼの方から告げた依頼もあった。断られる側の顔を知っているから、値段のことは正直に言うと決めている。
それでも依頼主のご隠居は、迷いもせずに言った。
「じゃあ、直しておくれ。安いかどうかの話じゃないんだ」
その夜、リーゼは帳簿に修理代を書き込んだ。銅貨が数枚。王都の屋敷なら茶菓子代にもならない金額を、寝る前に三度も見返した。
自分の手で直して、自分の店で受け取った、最初の売上だった。
頁の右上には、祖父の帳簿と同じ書式で日付を入れた。中身はまだ遠く及ばないけれど、様式だけでも継いでいる気がして、それが妙に嬉しかった。
翌る日の昼下がり、戸口の鈴を鳴らして駆け込んできたのはミアだった。
「リーゼお姉ちゃん、これ、おばあちゃんから!」
差し出された籠には焼き菓子。胸には、あのオルゴール。
「ちゃんと鳴ったよ。誕生日に、灯りの前で聴いたの」
息継ぎも忘れて報告する少女に、リーゼは椅子を勧めた。ミアはこのところ二日と空けずに工房へ来る。
工具の名前を覚え、部品箱の埃を拭き、今日も来て早々、螺子の小箱をひっくり返した。
「ミアちゃん」
「ごめんなさい。拾う。全部拾うから追い出さないで」
「追い出しません。数を確かめるだけ」
螺子は四十八本。二人で数えて、四十八本あった。ミアは誇らしげに胸を張った。町の子がひとり居着いただけで、工房の空気は目に見えて明るくなった。
町のほうも、浮き立っている。一週間後に春の〈灯火祭〉があるのだ。町中の魔導灯を一晩中灯し、広場から家々の窓まで灯りで繋ぐ、この町でいちばん大きな祭りだという。
窓辺へ色硝子の飾りを吊る家。店先の魔導灯を磨く店主。広場では子どもたちが、灯籠の行列の練習をしている。
リーゼにも、うっすらと覚えがあった。ずっと幼い頃、祖父の肩車の上から見た、揺れる灯りの帯。
あれはこの祭りだったのだろうか。
「お祭りの夜はね、お母さんのオルゴールも、灯りを見ながら鳴らすんだ」
ミアは、当然の予定のようにそう言った。楽しみが服を着て歩いているみたいだ、とリーゼは思う。
午後、戸口に見慣れた旅装が立った。
「今日も監査ですか?」
「それもある」
アルベルトはそう言いながら、作業台へ小さな包みを置いた。
「……私に?」
「昨日、素手で回路へ触れていただろう」
「いつもそうしています」
「だから持ってきた」
包みの中身は、作業用の革手袋だった。縫い目の脇に、技術局の安全規格の刻印がある。
「規格外の作業手順を見過ごすわけにはいかない。それだけだ」
「はあ」
「感謝される謂れはない」
「まだ何も言っていませんが」
アルベルトは咳払いを一つして、視線を棚の在庫へ逃がした。
嵌めてみると、革は柔らかく、指のつけ根までぴたりと合った。出張所にあった最小寸だという。
(……この大きさ、よく都合よくあったこと)
探したのだろうか、とは聞かなかった。聞いたところで彼は、在庫の管理番号でも読み上げるに決まっている。
贈られた手袋を二度三度と握り込んでいたとき、戸口の光が翳った。
大柄な男が立っていた。三十歳前後。日に灼けた顔、旅塵の染みた外套。ミアが遊びに来る工房の昼下がりには、少し不釣り合いな気配をまとっている。
腕には、布で巻いた細長いもの。
「……ここで、魔導具を直せると聞いた」
男が卓の上で布を解く。
現れたのは、旧式の魔導剣だった。刀身が中央から大きく折れ、断面が鈍く光っている。
折れている。けれど、荒れてはいない。柄の革は幾度も巻き直され、鍔の魔力受けは丁寧に磨かれ、刃の残った半分には手入れの油が薄く匂った。
持ち主に大切にされてきた剣だと、ひと目で分かる。
「戦場で折れた。直してほしい」
低い、平坦な声だった。
リーゼは剣を受け取り、作業台へ置いた。型は二十年ほど前の量産騎兵剣。除隊の際に払い下げられたものだろう。
構造は素直だ。刃を換え、魔力回路を繋ぎ直せば、武器として再び使える。診断だけなら、難しい依頼ではない。
状態を確かめるため、右の手袋を外し、折れた刀身の根元へ指先を添えた。
もらったそばから外すのか、という視線が横から刺さったが、これは素手でなければ分からない仕事だ。
――流れ込んでくる。
覚悟していたのは、戦場の恐怖だった。あるいは殺気か、怒りか。剣という道具の壊れ方として、それがいちばん自然だからだ。
違った。
押し寄せてきたのは、深い、深い〈安堵〉だった。
張り詰めていたものが切れて、膝から崩れ落ちるような。長く息を止めていた人が、ようやく吐き出したような。
温かくはない。むしろ底冷えのする、けれど紛れもない、安堵。
この感情は、剣が折れた瞬間に刻まれたものだ。つまり――折れたそのとき、誰かが、心の底からほっとしている。
リーゼは顔を上げた。男は、無表情に剣を見下ろしている。大切に手入れされた剣と、折れて安堵した誰か。
二つが、頭の中でうまく繋がらない。
(戦場で、大切な剣が折れたのに――)
(どうしてこの人は、安心したの?)




