母のオルゴール
オルゴールから離した指先が、まだかすかに震えていた。
「どうした?」
アルベルトが繰り返す。リーゼは、考えるより先に口を開いていた。
「……誰かが、すごく怖がっていたみたいで」
「何?」
しまった、と思った。残響のことを、そのまま口にしかけている。
「あ……いえ。この落下痕です」
「落下痕?」
「かなり強く床へ落ちています。持ち主が、よほど慌てていたのかなと」
我ながら苦しい言い換えだった。アルベルトはリーゼの顔をしばらく見ていたが、
「……そうか」
とだけ返し、それ以上は追及してこなかった。ただ、その視線が一拍長かったことを、リーゼは覚えておくことにした。
作業を続けながら、考える。
愛情と、恐怖。読み取れたのはそれきりで、恐怖といっても意味は幅広い。事件とは限らないし、死の間際の怯えとも限らない。
感じ取れるのは感情まで。その意味は、いつも自分の手で調べるしかない。
糸口は、意外な場所にあった。
蓋の裏側。ゆるんだ布張りを留め直そうと外したとき、木地に刻まれた文字が現れたのだ。
『ミア、十歳のお――』
刻みは、そこで途切れている。
リーゼは顔を上げた。
「ミアちゃん。今、何歳?」
「九歳」
「お誕生日は?」
「明後日。十歳になるの」
もう一度、刻印を見る。十歳の、お。――お誕生日、だろうか。文字は途中で止まり、箱には強い落下の痕がある。
「これが壊れたのは……お母さまが、亡くなった頃?」
「うん。去年」
残響。刻印。落下痕。時期。ばらばらだった欠片が、リーゼの中で一本の線になりかけていた。
そのとき、工房の扉が勢いよく開いた。
「ミア!」
息を切らせた年配の女性が飛び込んできて、ミアを抱き寄せる。夕方になっても帰らない孫を、探し歩いていたらしい。
ミアの祖母だった。
安堵の次に、祖母の目が作業台の上で止まった。分解されたオルゴールを認めて、表情が揺れる。
リーゼは静かに聞いた。
「これを――お母さまが、ミアちゃんの十歳のお誕生日に、渡そうとしていたんですね」
祖母は目を見開き、それから、ゆっくりと頷いた。
ミアの母は、長く病を患っていた。娘の十歳の誕生日まで、自分の身体がもたないかもしれない。それが分かっていたから、一年も前から支度をしていた。
この工房の老技師に何度も直してもらいながら使い続けてきた、古いオルゴールを手入れし、蓋の裏へ、娘への言葉を少しずつ刻んでいた。
「この曲はね、あの子が――母親が、ミアを寝かしつけるのに、毎晩かけてやっていた曲なんですよ」
祖母の声は、途中から掠れた。
オルゴールなら、自分がいなくなった後も、娘のそばで同じ曲を鳴らし続けてくれる。そう考えての贈り物だったのだろう。
容体が急変したのは、刻印を彫っている最中だった。
手からオルゴールが滑り落ち、刻みかけの文字は、途切れたまま残された。ミアはそのとき、まだ事情を知らされる歳ではなかった。
壊れた箱だけが、形見として少女の手元に残った。
――そういうことか。
リーゼは、指先に残る感触を思い返す。あの恐怖は、死への怯えだけではなかった。渡したかったものを、渡せないまま終わってしまう。
娘の十歳に、間に合わない。あれは、そういう恐怖だ。
感情そのものは、答えを教えてくれない。壊れ方と、刻まれた文字と、生きている人の言葉が、ようやくその意味を埋めてくれた。
「お母さん……十歳の私に、渡したかったの?」
ミアの問いに、祖母が頷く。少女は、壊れたままのオルゴールをじっと見つめた。
明後日が、その十歳の誕生日だった。
リーゼは作業台の部品をひとつずつ確かめてから、顔を上げた。
「明後日、ですよね。お誕生日」
「……うん」
「なら、間に合わせます」
ミアと祖母が、同時にリーゼを見た。アルベルトも、だ。
問題は部品だった。劣化した絶縁管は交換するほかないが、旧規格の純正品はとうの昔に廃番になっている。
工房の棚を漁れば代わりが見つかるか――思案するリーゼの横で、アルベルトが口を開いた。
「……君、止めても直すんだろう」
「はい」
「即答するな」
「すみません」
アルベルトは額を押さえ、それから、腰の検査器の留め具を外した。
「なら、俺が見る」
「え?」
「危険な状態で勝手に動かされるより、俺の監督下で安全に直させた方がいい」
言い方はどこまでも役人のものだ。それでも、検査器を作業台へ据えるその手つきに、迷いはなかった。
方針は、すぐに割れた。アルベルトの案は、最新型の絶縁管を出力を絞って流用すること。
「規格が合いません」
「そのままならな」
彼は手帳の頁を破り、簡単な接続図を書いてみせた。理屈は通っている。ただ、新型部品を旧式回路へ直に繋げば、出力差の負荷が別の部位へ回る。
今度はリーゼが、図の余白へ描き足す番だった。旧式部品を削って間に挟む、小さな中継機構。
「……なるほどな」
感心を悟られたくないのか、アルベルトは新しい頁を開き、無言でリーゼの図を写しはじめた。
「……写すんですか?」
「記録だ。安全管理上の」
「はあ」
「……いい機構だと言っている」
問題は、肝心の新型絶縁管が、監査の携行品に含まれていないことだった。
「隣町に技術局の出張所がある。早馬を頼めば、明日の昼には届く」
明日の昼に部品。組み上げと調整に半日。リーゼは頭の中で工程を並べて、頷いた。
「なら――明日の夕方には、鳴らせます」
それから、ミアの前に屈み込む。
「明日の夕方、また来てくれる? 誕生日の、前の日ね」
ミアは大きく頷いて、祖母に手を引かれながら、何度も工房を振り返って帰っていった。
翌日、早馬は昼過ぎに絶縁管を届けてきた。
据えるのはアルベルト、中継機構を削り出すのはリーゼ。最新の部品と、旧い技。どちらが欠けても、このオルゴールは安全には直らない。
互いの手順に口は出しても、互いの手元を疑うことは、いつの間にかなくなっていた。
約束の刻より早くやって来たミアは、作業台の端に顎を載せ、瞬きも惜しむように二人の手元を見ている。
祖母は持参した焼き菓子の包みを、工具の邪魔にならない隅へそっと置いた。
窓の外が藍色に変わる頃、最後の部品が納まった。
リーゼは慎重に魔力を通す。
静寂。
歯車がひとつ噛み、回転機構が目を覚ます。
そして、旋律が流れはじめた。
ゆっくりとした、優しい曲だった。眠る前の子供のための、静かな速さ。
「……お母さんの曲」
ミアの声はそこで震え、あとは言葉にならなかった。少女は目を閉じ、箱に額を寄せるようにして聴いている。
毎晩この曲で眠っていた頃の、母親の手の温度を確かめるみたいに。祖母が孫の肩を抱き、リーゼたちへ深く、長く頭を下げた。
リーゼは口を挟まず、曲が終わるまで、ふたりと一緒に聴いていた。修理を終えた直後の回路は、まだほんのり温かい。
その温もりが魔導具のものか、残っていた愛情のものか、リーゼにも区別がつかなかった。
一年前に途切れた贈り物が、明日、本来の日付に間に合う。
――俺の隣に必要なのは、未来を作れる人間だ。
ふいに、クラウスの声が耳の奥で蘇った。リーゼは自分の両手を見る。油で汚れた、発明をひとつも生んだことのない手。
新しいものは、今日も何ひとつ作らなかった。
それでも、失われるはずだったものを、あの子の未来へ渡すことはできた。
……これも、技師の仕事なのだろうか。
答えはまだ出ない。ただ、初めてそんなふうに問えた自分がいた。
帰り際、ミアは箱を胸に抱えたまま、戸口で振り返った。
「あのね。誕生日、終わったらまた来てもいい?」
「ええ、いつでも。――明日、いいお誕生日をね」
少女は初めて、年相応に笑った。
ミアと祖母を送り出し、戸口の鈴が鳴りやんだあと。
「見事だった」
アルベルトが言った。リーゼは工具を拭く手を止める。
「……え?」
「修理の話だ。設計図も純正部品もない第三型を、安全基準を満たした状態まで戻せる技師は、技術局にもほとんどいない」
世辞の色のない、報告書のような口ぶり。だからこそ、まっすぐ届いた。クラウスは、優秀だが未来を作れないと言った。
この男は、修理そのものを、修理の言葉で認めた。
礼を言いかけたリーゼへ、アルベルトは続けた。
「だが」
「……?」
「旧式を使い続けることに賛成したわけじゃない」
「……そこは、譲らないんですね」
「安全の話だからな」
技術は認めて、思想は譲らない。線の引き方があまりに明快で、リーゼは怒るより先に、頬がゆるんでしまった。
その和らぎは、長くは続かなかった。
帰り支度のついでに、と修理後のオルゴールへ検査器をかざしていたアルベルトが、ふいに手を止めたのだ。
「待て」
「どうしました?」
「回路に残っている魔力が……持ち主のものにしては、妙だ」
リーゼも覗き込み、回路の縁へ指を添えた。技師としての目にも、それは分かった。ミアの母のものらしい柔らかな魔力痕とは別に、もう一種類。
人工的で、気味が悪いほど均一な痕。
「新型供給網の魔力だ」
アルベルトが言い切る。
「……あり得ません。この型は携帯式です。持ち主が魔力石へ注いだ魔力だけで鳴る。供給網へ繋ぐ口が、そもそもないんです」
「だから、おかしい」
繋がる線の一本もない小さな箱に、供給網の魔力が入り込んでいる。経路がないのに、痕だけがある。
アルベルトは戸口へ出ると、薄闇の通りを帰っていくミアを呼び止めた。
「最後にひとつ。この町で最近、古い魔導具が壊れたという話はあるか?」
ミアはきょとんとして、それから、何でもないことのように答えた。
「いっぱいあるよ?」
一拍、通りの物音だけが流れた。
振り返ったアルベルトの表情から、夕暮れの疲れが消えていた。
「……悪いが」
「はい?」
「もう少し、この町にいることになりそうだ」




