壊れたものなら、直せます
看板は、見事に傾いていた。
『アルトマン魔導具修理工房』。彫られた文字は雨風に洗われて薄い。その下に、誰かが別の塗料で書き足している。――〈つぎはぎ屋〉。
「……ひどい名前」
呟いてから、リーゼは軒下で頬をゆるめた。古いものを継ぎ接ぎしてでも直す店。揶揄のつもりだろうが、看板としては存外正直だ。
「でも、お祖父様らしいかも」
王都を出て、数日。乗合馬車を三度乗り継いで、リーゼは祖父の暮らした辺境の町に着いた。石畳より土の道が多く、家々の軒に下がる魔導灯は、どれも懐かしいほど型が古い。
そして工房の扉は、鍵を回した途端、埃の匂いを深々と吐き出した。
中は、祖父が出ていった日のままだった。
壁一面に掛かった工具。棚に並ぶ旧規格の部品箱には、祖父の几帳面な字でひとつずつ型番が書いてある。
作業台には分解途中の時計が残り、隅では魔導ランプが埃を被っていた。用途の分からない装置も、いくつかある。
作業台の時計を手に取ってみる。針は止まっているのに、部品の並びは今日の作業の続きを待っているようだった。
工具掛けへ目をやれば、使う順に、届く高さに、すべてが並んでいる。子供の頃に見上げた壁が、いまは目の高さにあった。
――ここで、生きていく。
誰に宣言するでもなく、リーゼは灰みを帯びた蜂蜜色の髪をうなじの低い位置で結わえ、袖をまくった。
棚に掛かっていた祖父の革エプロンは丈が合わない。構わず、埃を払って身につけた。
雑巾を手に、棚ひとつぶんの埃を拭い終えた頃、扉の鈴が鳴った。
「ここ、魔導具を直してくれるんですよね?」
振り向くと、少女が立っていた。十歳にならないくらいだろうか。古いオルゴールを、胸に抱え込むようにして持っている。
「あの、おじいさんは? 白いおひげの……」
「……祖父は、亡くなったの。今はわたしが、この工房を」
少女の目から、見る間に光が引いていった。
「じゃあ……これも、だめですか?」
差し出されたのは、木の箱に真鍮の飾りのついた古い型のオルゴール。据置きの魔導具と違って供給網には繋がず、内蔵の魔力石へ持ち主が魔力を注いで鳴らす携帯式だ。
蓋の蝶番は歪み、底の石室の蓋には罅が見える。
少女はミアと名乗った。オルゴールは亡くなった母親の形見で、町の工房には二軒続けて断られたのだという。
よく見れば、少女の靴は爪先まで土に汚れていた。この小さな腕で箱を抱えたまま、町中を歩き回ってきたのだろう。
「修理するより、新品を買った方が安いよって」
その一言が、思いのほか深く、リーゼの胸を突いた。
断った工房が悪いわけではない。手間を数えれば、修理代は新品を超える。勘定としては、それで正しい。
新しくない。未来を生み出さない。だから、価値が低い。――ついこの間、自分が受け取った評価と同じ形をしている。
「……見せてもらえますか?」
両手を差し出すと、ミアの腕からオルゴールがそっと移ってきた。軽い。子供が毎日抱えて歩ける重さだ。
それだけ手放せなかったのだろう。
作業台に置き、蓋の具合を確かめ、裏返して魔力口を覗く。さて、開けようか――工具へ手を伸ばした、そのときだった。
「その魔導具を動かすな」
低い声が、戸口から飛んだ。
振り返る。旅装の青年が立っていた。埃っぽい外套でも隠しきれない、整った顔立ち。けれどリーゼの視線は、顔よりも先に彼の腰へ吸い寄せられていた。
(……魔力検査器。それも最新型。王都でもまだ、ほとんど出回っていないのに)
見つめる先に気づいたのか、青年は器械を庇うように半歩引いた。
「……検査器は貸せない」
「まだ何も言っていません」
「目が言っている」
言い切って、青年は胸元から徽章を示した。王立魔導技術局、安全管理部門。添えられた証票にはアルベルト・レインとある。
町に残る旧式魔導具の、安全監査に来たのだという。
アルベルトは作業台のオルゴールへ目を落とすと、ほとんど間を置かずに言った。
「グラーツ工房、第三型。二十八年前に生産終了。内部絶縁に問題がある型だ」
一目で言い当てられ、リーゼの胸の内で、警戒と、それによく似た感心が同時に動いた。
「修理して動かすべきじゃない」
「直せます」
「直せることと、安全に使えることは別だ」
ミアが、オルゴールと大人ふたりを不安そうに見比べている。リーゼは息を整えた。この子の前で、言い合いにはしたくない。
「……まず、状態を確認してから判断します」
返事を待たずに、工具を取った。
途端、指先から余計なものが消えていく。婚約のことも、王都のことも、戸口の役人のことも。
目の前にあるのは二十八年前の箱と、その中で止まっている小さな仕組みだけになる。
蓋を外し、外装の留め具をゆるめ、魔力回路の覆いへ。手は迷わなかった。この型なら、幼い頃に祖父の隣で三度は開けている。
一般的な型なら、右の固定具から外す。リーゼは左へ工具を掛けた。
「待て。そこを先に抜けば魔力が逆流する」
「第二型まではそうです。でも第三型だけ、安全弁が内側へ移されています」
アルベルトが覆いの奥を覗き込む。数秒、検分して、彼はわずかに姿勢を改めた。
「……誰に習った?」
「祖父です」
短い答えに、アルベルトは何か考える様子で口を閉じた。それから、回路の一角を指す。
「そこは駄目だ。絶縁材が寿命を超えている」
検分すると、指摘の通りだった。表面こそ形を保っているが、爪で軽く押すだけで粉が落ちる。旧い構造を読むなら自分、今の安全基準ならこの男。
認めたくはないけれど、腕は確かだ。
絶縁材の状態を確かめようと、リーゼは回路の芯へ、素手の指を添えた。
――流れ込んできた。
温かい。陽だまりに似た愛情。長い年月、大切に扱われてきたものだけが持つ、穏やかな手触り。同じ愛情が、数え切れないほど重ねられた厚みがある。
ミアの母親は、このオルゴールを本当に慈しんでいたのだ。
誓約環のときとは比べものにならない、はっきりとした流れだった。リーゼは息を細くして、その温かさを辿る。
そう思った、次の瞬間。
奥から、強烈な恐怖が噴き出した。
胸を締めつける、切迫した、悲鳴のような感情。温かさの底に、それは氷の欠片のように埋まっていた。
指が震え、リーゼは反射的に手を離していた。
「どうした?」
アルベルトの声が、妙に遠くで聞こえる。リーゼは壊れたオルゴールを見つめたまま、すぐには動けなかった。
怖い。
これが壊れたとき――誰かが、ひどく怖がっていた。
愛情に包まれた母の形見に、どうして、こんな恐怖が残っているのだろう。




