未来を作れない女
「リーゼ。婚約を解消したい」
応接室に通されて、勧められた椅子に腰を下ろした直後だった。
リーゼ・アルトマンは膝の上で手を重ねたまま、婚約者を見つめ返した。聞き間違いを疑う余地はなかった。
クラウス・ベルナーは商談の条件を告げるときと同じ姿勢で、まっすぐこちらを見ている。
ベルナー魔導具商会の応接室には、最新式の魔導灯が白い光を落としている。棚には新型の通信魔導具、窓際の台には布を掛けられた開発中の試作品。
この部屋にあるものは、どれも新しい。クラウスは五年先の暮らしを作る品だけを選んで扱う。
(……窓際の試作品、留め具が仮止めのままだけれど)
場違いな考えがよぎって、消えた。
「……理由を、聞いてもいいですか」
声は思ったより落ち着いて出た。頭の芯だけが痺れて遠い。
「君に不満があるわけじゃない。商会はこれから、王都の供給網事業に本格的に加わる。だから、俺の隣に立つ人には――」
クラウスの言葉の途中で、リーゼの耳が小さな音を拾った。
きり、きり。細い金属糸を爪の先で弾くような音。
視線が勝手に動く。契約書の脇、クラウスの手元に置かれた魔導筆が、かすかに鳴いていた。
「……クラウス。その魔導筆、置いた方がいいですよ」
「何を言っている?」
「魔力管の音が変です。内部にひびが入っていると思います。そのまま使うと、インクごと弾けるかもしれません」
「今は筆の話をしているんじゃない」
「……そうでした」
リーゼは目を伏せた。婚約を解消される場で、壊れかけの筆に気を取られる。こういうところだ、と我ながら思う。
壊れていく婚約より先に、壊れかけた魔導具の音を聞いてしまう。物心ついたときから、ずっとそうやって生きてきた。
クラウスは短く息を吐き、それでも魔導筆を書類の向こうへ滑らせた。意地の悪い男ではないのだ。
「そういうところは、本当にすごいと思っている」
「……はい」
「君は優秀だ。でも、俺の隣に必要なのは未来を作れる人間なんだ」
未来。
壊れた場所なら、探せる。直し方も、たいていは見つけられる。けれど、この婚約のどこがいつ壊れていたのか、リーゼにはいまのいままで分からなかった。
リーゼは新しい魔導具を作れない。二十四年生きて、発明はひとつもない。
十八歳で新型魔導炉を発明した妹のセシリアとは、同じ家に生まれ、同じ工房で育ち、それでも決定的に違った。
――リーゼにも、いつか自分だけの発明ができる。
父は悪意なく、そう言い続けてくれた。その「いつか」は来なかった。彼女にできるのは、壊れたものを直すことだけ。
そしてこの国で、修理は未来を作る仕事とは呼ばれない。
「……分かりました」
抗弁は浮かばなかった。クラウスは間違ったことを言っていない。それが、いちばん深いところまで沈んだ。
手続きは呆気なかった。
二人の誓約環を卓に並べ、クラウスが解消の宣句を唱える。婚約者同士が一対で身につける、小さな銀の環。
中央の魔導石同士を結んでいた魔力が、音もなくほどけ――
ぱき。
リーゼ側の環の石に、細い亀裂が走った。
「……壊れたのか?」
クラウスが眉を寄せる。それより早く、リーゼの手は環を拾い上げていた。
「この割れ方、珍しいですね。接続を切っただけで、石までは割れないはずなのに」
「リーゼ」
「あ……すみません」
詫びながらも、指先は亀裂の断面に触れていた。
冷たい寂しさのようなものが、指から胸へ、ほんの一呼吸ぶん流れ込んで、消えた。
リーゼは動きを止める。
誰の感情なのかは分からない。なぜ残っていたのかも分からない。ただ、割れた石の奥に、行き場のない何かが取り残されている気がした。
「……壊れてしまいましたね」
小さく言って、環をハンカチに包む。クラウスには独り言に聞こえたはずだ。壊れた魔導具に触れたとき、ときどき、こういうことが起きる。
誰にも話したことはない。
「アルトマン家へ戻れば、生活には困らないだろう。侯爵には、俺からも書状を――」
「……いえ」
思いがけない強さで、声が出た。
クラウスが目を見開く。リーゼ自身も驚いていた。膝の上で、ハンカチ越しに割れた環を握る。
頭に浮かんでいたのは王都の屋敷ではなく、遠い辺境の、煤けた小さな工房だった。祖父の作業台。
油と古い木の匂い。子供の背丈では届かなかった、工具の掛かった壁。
――新しいものを作る奴ばかりが、技師じゃないさ。
幼いリーゼが古い魔導ランプを直した日、祖父はそう言って笑った。祖父が亡くなってから、あの工房は閉まったままでいる。
「私、お祖父様の工房を開けます」
「……辺境の、あの工房を?」
「はい」
クラウスは何か言いかけ、結局やめて、静かに頭を下げた。謝罪でも餞別でもない、商人の綺麗な礼だ。
それでいい、とリーゼは思う。
応接室を出ると、廊下の窓の外に、春にしては白い空が広がっていた。
追い出されるから行くのではない。帰る場所がないから行くのでもない。壊れたものを直すことしかできないのなら、一度くらい、直すための場所で生きてみたい。
婚約を失った日、リーゼ・アルトマンは初めて、自分の行き先を自分で選んだ。




