もう、それを知らなくても平気です
クラウスが〈つぎはぎ屋〉の戸口に立ったのは、祭りの余韻がまだ通りに残る、数日後の昼だった。
「久しぶり、リーゼ」
「……クラウス」
驚きは、思ったより小さかった。安全通達が商会にも届いていることは、アルベルトから聞いていた。
この人は、確かめずにいられない人だ。婚約者としてではなく、商人として。
クラウスは、工房の敷居で足を止め、中をゆっくり見回した。
壁一面の古い工具。祖父の字のラベルが並ぶ部品箱。作業台の分解途中の魔導灯。町の人が持ち込んだ修理待ちの品々。
壁に貼られた、技術局との調査の書き付け。
王都の応接室とは、何もかも正反対の部屋だった。新しいものは、ほとんど何もない。それなのに、この部屋は動いている。
「……いい工房だ」
最初に出てきたのは、その一言だった。世辞の色はなかった。商人が、回っている店を見たときの声だった。
用件は、二つあった。
一つは、仕事の話。報告書の技術的な中身の確認。共鳴の観測条件。旧式側の損耗の傾向。ベルナー商会が扱ってきた新型魔導具と供給網事業に、どこまで関わる話なのか。
リーゼは、答えられる範囲で正確に答えた。塔の安定機構が波を増幅していたこと。増幅器のない町では、同じ損耗がもっとゆっくり進むはずであること。
つまり、これはこの町だけの話では、おそらくないこと。
クラウスの質問は的確で、理解は速かった。この人の能力を、疑ったことは一度もない。途中、彼は修理待ちの棚に目を留めた。
町の人の名前が書かれた札が、順番に下がっている。
「……繁盛しているんだな」
「単価は、王都の商会の百分の一ですけれど」
「回転で勝負する商いは嫌いじゃない」
商人の軽口に、少しだけ、昔の調子が戻った。
聞き終えたクラウスは、手帳を閉じて、長く息を吐いた。
「……厄介な話だ。事実なら、うちも無関係じゃ済まない」
「はい。無関係では、済まないと思います」
供給網と共に育った商会だ。共鳴の問題が公になれば、商売の土台が揺れる。それでもクラウスは、知らなかったことにする、とは言わなかった。
そこは、昔から変わっていない。
そして、二つ目の用件。
クラウスは、居住まいを正した。
「君の仕事を、俺は見誤っていた」
まっすぐな声だった。
「修理は過去の仕事だと思っていた。未来は、新しく作るものだけでできていると思っていた。……この町の塔は、君の仕事は、そうじゃなかった。古いものと新しいものを繋ぐ技術に、俺は値札を付け間違えた。商人として、それは謝る」
頭を下げる直前の、一瞬の逡巡まで含めて、誠実だった。
リーゼは、その言葉を、静かに受け取った。
ずっと欲しかった言葉の、はずだった。眠れない夜に、何度も想像した場面のはずだった。想像の中の自分は、泣くか、笑うか、少しだけ意地悪を言うかしていた。
実際の自分は、そのどれでもなかった。
胸に浮かんだのは、ミアの泣き笑いと、折れた剣の警戒具の澄んだ音と、四時十二分から動き出した針と、祭りの夜の二十個の灯りだった。
「ありがとうございます」
リーゼは言った。
「その言葉は、ちゃんと嬉しいです。でも――」
少しだけ、自分でも意外なほど自然に、続きが出た。
「今はもう、それを知ってもらわなくても、平気なんです」
クラウスが、目を見開いた。
「あなたに分かってもらうために直したものが、この町には一つもないので。……それだけの話なんです。ごめんなさい、うまく言えなくて」
「いや」
クラウスは、ゆっくり首を振った。
「……よく分かった。たぶん、いちばんよく分かる言い方だ」
彼は鞄から分厚い冊子を出し、作業台の隅に置いた。新型部品の目録だった。
「商会の最新版だ。旧式との接続で使えそうな規格に、付箋を貼っておいた。……仕事の資料として、置いていく」
詫びの品でも、贈り物でもなく、資料。
最新版。付箋つき。旧式と繋げる規格の一覧。――視線が勝手に吸い寄せられかけて、リーゼは慌てて意識を戻した。
今は、めくる場面ではない。たぶん。
戸口で、クラウスは振り返った。
「共鳴の件、続報が出たら商会にも回してくれ。……今度は、経営者として君と話すことになりそうだ」
「はい。そのときは、修復師として」
クラウスは短く笑い、通りの雑踏へ消えた。
見送ったリーゼは、自分の胸の内を、そっと確かめた。
胸は、少しだけ痛んだ。けれど、その痛みで自分の価値まで揺れることは、もうなかった。
入れ替わりのように、路地からアルベルトが現れた。気配で分かっていた、という顔をしている。
「終わったか」
「はい。終わりました」
「そうか」
それ以上は、何も聞かれなかった。代わりに、彼は妙に改まった声で言った。
「なら――俺からも、依頼がある」




