今は、俺の声だけ聞け
掴まれた手首から、体温が伝わってきた。
光でできた百年の群衆の中で、それだけが、いま生きている人の温度だった。
そして、脈があった。
掴んだ指の付け根から、規則正しい拍が伝わってくる。供給網の周期とは違う。機械の拍ではない。
生きている人の、心臓の周期。
「呼吸をしろ。吸って、止めて、吐く。数は俺が数える」
言われた通りにした。一つ。二つ。百年ぶんの感情の奔流の中で、リーゼはその一定の拍だけに、自分の呼吸を合わせていった。
三つ。四つ。
声の主が誰か、思い出した。この人は、残響のことを知っている。だから、いま自分の中で何が起きているか、説明しなくても分かっている。
この町でただ一人、分かっている。
「でも……全部、残ってるんです」
声が、勝手に零れた。
「この町の人たちの、ぜんぶ。聴かないと。この中に、手掛かりが」
「全部聞く必要はない」
アルベルトの声は、群衆のざわめきのどれよりも近く、低かった。
「君が倒れたら、手掛かりを見つけても意味がない」
「でも」
「今は、俺の声だけ聞け」
理屈だった。いつも通りの、この人の理屈。それなのに、その理屈の輪郭に掴まって、リーゼはようやく、百年の水面から顔を出した。
吸って、止めて、吐く。
他人の感情と、自分の輪郭が、少しずつ分かれていく。
「……もう、大丈夫です」
「立てるか」
「立てます。――行きましょう。中へ」
アルベルトは一瞬だけリーゼの顔を検分した。目の焦点。指先の震え。監査のときと同じ、項目を順に潰していく目つきで。
それから、掴んでいた手首を離した。離す間際、確かめるようにわずかに力がこもったのは、たぶん気のせいではない。
「無理だと思ったら、その場で言え。言わなかったら、次から連れてこない」
「はい」
帰れ、とは言われなかった。それが答えだった。この先は、二人でなければ調べられない。
塔の中は、石の匂いがした。
百年前の石積みの壁に沿って、螺旋の階段が上へ伸びている。
中央には、塔の心臓部――太い柱のような魔力中核が立ち、その周りを、古い時代の機構が歯車の森のように取り巻いていた。
後から据えられた新型の制御部だけが、場違いに白い。
正直に言えば、一瞬、事態を忘れた。百年前の機構が、これだけ原形のまま生きて動いている場所を、リーゼは他に知らない。
手が勝手に伸びかけて、今は違う、と自分を叱った。
役割は、自然に分かれた。リーゼは旧式の機構へ。アルベルトは新型の制御部へ。
「送出を最低値で維持させている。観察には足りるはずだ」
その言葉の通り、塔は低く、規則正しく脈打っていた。送出のたび、足元の床がかすかに震える。
リーゼは、旧い機構の一つに目を留めた。
送出の瞬間――歯車の森の奥で、触れられてもいない古い回路が、ひとりでに震えたのだ。
「……今、動きました」
「どれだ」
「この列の、奥。送出と同時に」
「供給は正常値だ。そこへは魔力を流していない」
もう一度、送出。
また、震える。同じ回路が。同じ拍で。
リーゼは手袋を外し、震えた回路へ、指先で触れた。
読める、とすぐに分かった。動いてはいる。けれどこの回路は、もう健全ではない。目に見えない細かな損傷が、内部のそこかしこに巣くっている。
動いていることと、壊れていないことは、別なのだ。
――重なっている。
最初に来たのは、感情ではなかった。同じ外の魔力の気配が、同じ向きで、数え切れないほど積み重なっている感触だった。
一枚ずつは息よりも薄い。それが、目眩がするほどの厚みに束なっている。オルゴールの奥で、時計の奥で、暖房の奥で感じた、あの薄く均一な気配と同じものだ。
ただし、桁が違う。
「同じ魔力が……すごい回数、重なっています。数えられないくらい。この塔の中で、ここがいちばん濃い」
回数も、期間も、残響からは分からない。分かるのは、膨大で、単調で、外から来た、ということだけ。
アルベルトが階段を降りてきて、検査器を構えた。残響の読みを、物理の数値で追いかける。送出の周期と、回路の振動の周期を、並べて記録していく。
二本の波形が、記録紙の上で、ぴたりと重なった。
「……一致した」
彼は紙を睨み、それから、ゆっくりと顔を上げた。
「接続じゃない」
「周期……?」
「線を通って魔力が入っているんじゃない。送出の波に、周囲の古い回路そのものが引っ張られて、一緒に揺れている。――共鳴だ」
鐘を叩けば、触れていない隣の鐘が鳴る。歌い手が音を当てれば、触れていない杯が割れる。あれと同じことが、魔力の波で起きている。
供給網に繋がっていなくても。ただ、近くに在るだけで。
「君の言う『重なりの厚み』だが」
アルベルトは手帳を開き、波形の密度と、供給網の送出頻度を紙の上で突き合わせはじめた。一日の送出回数は決まっている。
蓄積の厚みを、それで割る。
「……概算で、十四年から十六年。中央供給網が、この地方へ延びてきた時期と一致する」
残響には、回数の膨大さしか分からない。物理には、期間が割り出せる。二つを合わせて、初めて数字になった。
リーゼは、口の中で呟いた。
「オルゴールも、時計も、置いてあっただけで……十五年、ずっと、これを」
一度の揺れは、髪一本ぶんもない。けれど毎日、何百回、何千回。十五年。
長く重いものを提げ続けた紐は、ある日ふつりと切れる。
「待て。それでも計算が合わん」
アルベルトは新型制御部の数値と、外の町の被害を見比べた。
「供給網の共鳴波は、本来この百分の一もない。この塔の周りだけ、桁が違う。……なぜだ」
彼が最初に疑ったのは、後付けの新型制御部だった。据え付けの不良で、波が漏れているのではないか。
物理側の仮説としては、いちばん筋がいい。二人がかりで接続部を全部当たり、封止を測り、配線を辿った。
――外れだった。
制御部は規格通り。漏れは、むしろ基準より少ない。アルベルトは記録紙を睨んで、珍しく長い息を吐いた。
「新しい側は、白だ。……なら、古い側か」
今度は、リーゼの番だった。
手袋を外し、歯車の森を、指先で辿っていく。どこも重なりは濃い。けれど、濃さが同じではない。
薄い場所と、濃い場所。その濃淡を辿って上へ、奥へ――中核を取り巻く旧式機構の一群に触れた瞬間、指が止まった。
ここだけ、桁が違う。塔中の重なりを全部束ねたような、底の見えない濃さだった。
「アルベルトさん。ここ、測ってください」
検査器が、入る波と出る波を並べて記録した。数値が、残響の感触を裏付けた。入った波より、出ていく波の方が――大きい。
それは、魔力の安定機構だった。百年前、まだ供給網のなかった時代に、塔の出力を滑らかに整えるために組まれた、時代の知恵の結晶。
当時としては、名品と言っていい。
けれど、いまの一定周期の送出がそこを通ると、波は整えられるどころか――重ねられ、束ねられ、増幅されていた。
設計者が想定しなかった種類の波を食わされて、名品は百年目に、正反対の仕事をしてしまっていた。
「……塔が、原因じゃない」
アルベルトの声に、初めて、感情に似た色が混じった。
「塔は、拡声器だ。もともとある波を、この町にだけ、大きく響かせている。計算が合わないんじゃない。塔が、掛け算をしていたんだ」
では、元の波はどこから来るのか。
答えは一つしかない。中央供給網、そのもの。
リーゼが問いを口にしかけた、そのとき。
塔が、ひときわ深く鳴った。
最低値のはずの送出に、百年の機構が軋みを上げる。歯車の森の中心で――乾いた音が、連続して走った。
中核の表面に、亀裂が。
一本ではない。蜘蛛の巣のように、目の前で、広がっていく。




