町じゅうから、声がする
前の晩、二人が駆けつけたときには、塔の脈動は収まりかけていた。
夜が更けると、供給網の送出は自然に下がる。それに合わせるように、明滅は間遠になり、町の古いものたちのざわめきも、潮が引くように静まった。
塔の管理人は寝間着のまま出てきて、何も異常は出ていない、と首をかしげた。塔の計器の上では、確かに何も起きていなかったのだ。
だから、翌日。
管理人と役場の立ち会いのもと、原因調査のための再出力試験が行われることになった。
「出力は普段の半分以下に絞る。上げ方も、階段状に少しずつだ」
塔の入り口で、アルベルトは計画を並べた。町のあちこちには検査器を置き、リーゼは塔のすぐ外で、古い魔導灯を三つ並べて様子を見る。
何かが起きるなら、まず弱いところに出る。壊れる前に止める。そのための、慎重に慎重を重ねた試験だった。
試験にあたって、アルベルトの手配は徹底していた。
塔を中心に二筋ぶんの通りを完全に封鎖。
周辺の家には旧式魔導具から離れているよう触れを回し、集合住宅の住人と年寄り、子どもは、大事を取って町外れの役場の広間へ移した。
ミアと祖母もそこにいる。オルゴールだけは置いてこられなかったらしい、と役場の使いが苦笑いで報せてきた。
「昨日と同じ規模なら、これで人には届かない」
届くのは魔導具まで。そのはずだった。
リーゼは手袋を嵌め直し、並べた魔導灯の前に膝をついた。昨夜、触れずに聴こえた。今日も同じことが起きるなら、真っ先に気づくのは検査器ではなく、たぶん自分だ。
「合図をしたら、即座に戻す。いいな」
アルベルトが管理人へ念を押す。管理人は、緊張の面持ちで頷いた。
昼下がり。
管理人が、送出の栓をゆっくりと開けた。
最初の一段は、何も起きなかった。
二段目も。
三段目――普段の半分に届くかどうか、というところで。
リーゼの足元で、並べた魔導灯が三つ同時に、かたかたと鳴った。
「アルベルトさん!」
「見えている。……おかしい。この出力でこの共鳴は、計算に合わない」
検査器の針が跳ねていた。送り込んだ魔力は僅かなのに、塔から返ってくる波が、桁違いに大きい。
「止めろ! 送出を戻せ!」
アルベルトが叫び、管理人が栓へ飛びつく。
遅かった。
塔の内部で、何かが深く、長く、鳴った。鐘の音にも似た、けれど耳ではなく骨に届く共鳴だった。
そして――町が、光った。
最初に見えたのは、路地の人影だった。
淡い光でできた、輪郭だけの人。買い物籠を提げて、二歩歩いて、消えた。
誰もいない広場の隅から、子どもの笑い声が弾けた。閉まっているはずの古い魔導具店から、何十年も前の型の宣伝の音楽が流れ出す。
どこかの窓辺に、その家で昔暮らしていたらしい誰かの後ろ姿が、一瞬だけ座っていた。
そして、旋律。
広場の櫓のまわりを、光の帯が巡りはじめた。手を繋いで踊る人々の残像。屋台の呼び込み。歓声。
笛の音。今年はまだ開かれていないはずの――灯火祭。
いや。
今年の、ではない。
踊っている人々の服装が、古い。何十年も前の仕立てだ。その向こうには、もっと古い装束の一団が重なって、さらにその奥にも、別の年の祭りが透けている。
百年ぶんの灯火祭が、一度にほどけて、町へ溢れ出していた。
封鎖線など、現象は素通りだった。二筋どころではない。町の端から端まで――あれだけ引いた安全線を、光と音は軽々と越えて広がっていく。
人に届かないはずの試験が、町中の空へ届いていた。
大きな男の肩の上で、小さな子どもが灯りを指さして笑っている。あの影は、誰だろう。誰でもあり得る。
この町で祭りを見上げたことのある、すべての誰かだ。
町外れの役場でも――後で聞いた話だ――ミアの腕のオルゴールが、ひとりでに蓋を震わせて鳴りはじめたという。
誰も竜頭を巻いていないのに、あの子守唄を。ミアは怯えず、抱えた箱に頬を寄せていたらしい。
触れを破って通りへ出てきた町の人たちは、立ち尽くしていた。悲鳴を上げる人は、思ったより少なかった。
それが「怖いもの」ではないことが、たぶん、見れば分かるからだ。
亡くなった人の影が、灯りの中を横切っていく。
封鎖線の向こうの通りで、腰の曲がった老人が、光の中のひとつの影へ向かって、掠れた声で名前を呼んだ。
影は振り向かない。ただ、若い娘の仕草で笑って、別の影と連れ立って、祭りの奥へ歩いていった。
老人は追わなかった。帽子を脱いで、胸に当てただけだった。
――彼らに見えているのは、光と音だけ。
リーゼは、違った。
喜び。
寂しさ。
恋。
怒り。
別れの痛み。再会の泣き笑い。産声を待つ夜の祈り。とうに亡くなった誰かの、とうに忘れられた片想い。
百年ぶんの感情が、一斉に、彼女の中へ流れ込んできた。
触れてもいないのに。防ぐ術もなく。
一つずつなら、読める。オルゴールの恐怖も、剣の安堵も、時計の後悔も、一つずつだったから、受け止められた。
これは、多すぎる。
膝が、石畳についた。音が遠い。自分の呼吸の音だけが、妙に近い。町じゅうの声が、他人の人生が、器を超えて注ぎ込まれてくる。
自分がどこまでで、どこからが他人の感情なのか、境目が溶けていく――
「リーゼ!」
名前を、呼ばれた。
聞き覚えのある声。でも、返事の仕方が思い出せない。
手首を、強く掴まれた。
「リーゼ。俺を見ろ」




