第8話 「追う男」
藤堂蒼太がその話を初めて聞いたのは、同僚の雑談の中だった。
地方紙の社会部に勤めて五年。
担当は主に司法と医療の周辺だった。
法律事務所、医療訴訟、病院の不祥事。
そういった領域を長く歩いていると、情報は向こうからやってくることがある。
噂という形で、あるいは誰かのぼやきという形で。
「神崎グループの長女の婚約が、突然白紙になったらしい」と、同僚が言った。
それだけなら、地方の名家のよくある事情の話だった。
しかし続きがあった。
「病院で何かあったみたいで。健康診断がらみとか。もう一家族も絡んでるとか」
蒼太は手元のコーヒーを置いた。
「もう一家族」という言葉が、頭の中で止まった。
その夜、残業した。
神崎グループの最近の動きを調べた。
婚約発表の予定が内々に決まっていたこと、それが今月に入って急に保留になったこと。
法律事務所への照会が複数件あったこと。
そして、同じ病院の患者相談窓口に、二つの家族が別々に来ているという情報が間接的に入ってきた。
赤ちゃんの取り違え。
その文字が浮かんだとき、蒼太は少し息を止めた。
まだ確認は何もない。
でも、その文字が頭に入ってきてから、他のことが考えられなくなった。
それは職業的な勘とは、少し違った。
もっと個人的な何かが、動き始めていた。
蒼太が記者になった理由を、同僚に説明したことは一度もなかった。
「正義感ですか?」と聞かれたら「そういう部分もある」と答えていた。
嘘ではないが、全部でもなかった。
本当の理由は、もっとずっと前にある。
父がいなくなった、あの夏に。
高橋春香に最初に接触したのは、彼女の職場の近くのカフェだった。
事前に調べていた。
高橋春香、二十五歳、市内の建設会社の総務部に勤務。
昼休みに近くのカフェをよく使う。
その情報を得るのに三日かかった。
春香が一人でカフェに入るのを確認してから、声をかけた。
「高橋春香さんですか」
春香は振り返った。
知らない顔だとわかった瞬間、体が少し固まるのが見えた。
「はい」と春香は言った。
「どなたですか」
「地元紙の社会部に勤めています、藤堂と申します」と蒼太は言って、名刺を差し出した。
「少しだけお時間をいただけますか。産婦人科の赤ちゃんの件で」
春香の顔から、表情が消えた。
怒る、でも泣く、でもなかった。
何かが、閉まったような顔になった。
「どこで知ったんですか」と春香は静かに言った。
「いくつかの情報を繋ぎ合わせました。詳しくは、座ってお話しできれば」
春香はしばらく蒼太を見た。
品定めするような目だった。
自分より少し年上の男が、名刺を持って立っている。
スーツは高くないが、姿勢がいい。
目の奥に、何かが動いていた。
この人は、単純な好奇心で来ているわけではない、と春香は思った。
「五分だけです」と春香は言った。
向かい合って座ってから、蒼太はまず自分のことを話した。
どこから情報を得たか、現時点で何を確認しているか、何を確認できていないか。
透明にした。
隠すことで相手の信頼を失うより、正直に話す方が長い目では得だと、五年の記者生活が教えていた。
「取り違えの記事を書きたいんですか」と春香が聞いた。
「まだ記事にするかどうかは決めていません」と蒼太は答えた。
「事実を確認したいだけです」
「でも記者は記事を書くために取材するんでしょう」
「そうです」と蒼太は言った。
「ただ、書かない記事もあります。書くべきでない話もある。それは確認してから判断します」
春香は少し考えた。
「それは本当ですか」
「本当です」と蒼太は言った。
嘘ではなかった。
しかし全部でもなかった。
蒼太がこの話に引きつけられているのは、職業的な理由だけではなかった。
自分がなぜここまで熱くなっているのかを、まだ春香には言っていなかった。
春香は窓の外を見た。
昼休みの通りを人が歩いていた。
しばらくして、春香が口を開いた。
「血液型の話は、知ってますか」
「OとOからAは生まれない、という話なら」
「はい」と春香は言った。
「それが私の家族のことです」
その後の二十分、春香は蒼太に話した。
両親の血液型。
幸子の入院。
病院での医師の確認。
神崎家との対面。
話しながら、春香は自分が思ったよりも多くのことを話していることに気づいた。
止まろうとしたが、止まらなかった。
なぜ話しているのか、途中まで分からなかった。
でも話しながら、分かってきた。
ずっと、受け取り続けてきた。
血液型の矛盾も、病院での説明も、対面の設定も、DNA検査の同意書も。
全部、誰かが差し出してきたものを受け取ってきた。
自分から動いたことが、一度もなかった。
でも、今日は自分から話している。
それが初めて「動いている」感覚だった。
「神崎家は弁護士を立てると思います」と春香は言った。
「病院もきっと守りに入る。でも私はどこから何があったのか、知りたいんです。自分で調べる手段が、私にはない」
蒼太は黙って聞いていた。
ノートに何かを書きながらではなく、ただ聞いていた。
「あなたが記事を書かないという保証はない。でも」と春香は続けた。
「あなたは調べることができる。私が知りたいことと、あなたが調べたいことは、たぶん同じ方向を向いている」
蒼太は春香を見た。
五分のつもりだった相手が、三十年前の事件を「自分で解明したい」と言っている。
受け身だと思っていた人間が、今この瞬間に変わった。
その変わり目を、蒼太は記者として正確に見た。
そして記者としての目とは別の何かで、少し驚いていた。
「わかりました」と蒼太は言った。
「一緒に調べましょう」
「ただし」と春香は言った。
「家族のことを記事にする前には、必ず私に話してください。それが条件です」
「約束します」
春香はまた蒼太を見た。
さっきより少し、目の奥が変わっていた。
「なんでそんなに熱心なんですか」と春香は聞いた。
「記者として普通の温度じゃないですよね、この話に対して」
蒼太は少し間を置いた。
窓の外で、昼の光が強くなっていた。
「家族のことが、昔から気になるんです」と蒼太は言った。
「自分がどこから来たのか、ということが。個人的な話になるので、今日はここまでにします」
春香は何も聞き返さなかった。
でも、その「個人的な話」が何なのかを、少し考えた。
「自分がどこから来たのか」という言葉は、この男が記者である以前に、何かを探している人間だということを示していた。
自分と、似たところがあるかもしれない、とかすかに思った。
カフェを出てから、春香は職場に戻りながら今日のことを考えた。
名刺がかばんの中にあった。
藤堂蒼太、社会部。
見知らぬ男に、家族の話をした。
正しかったかどうかはわからない。
でも間違いだとも思わなかった。
ずっと誰かに動かされてきた。
事実に動かされ、病院に動かされ、神崎家の弁護士に動かされた。
でも今日は、自分が動いた。
自分の言葉で、自分の判断で、この人に話すことを選んだ。
誰かに情報を「持ち込む」という行為が、こんなにも能動的なものだとは知らなかった。
幸子の体のこと、DNA検査のこと、神崎家との次の対面のこと。
まだ何も解決していない。
でも今日から少しだけ、違う立ち位置で動ける気がした。
信号が赤になった。
立ち止まりながら、春香は空を見た。
今日は、晴れていた。
次に蒼太に連絡するのは、自分からのはずだ、と思った。
受け取るだけではなく、届ける。
それを、今日から始めよう、と。




