第9話 「父の背中」
対面から一週間が過ぎた。
高橋和彦は、以前より口数が少なくなった。
もともと無口な人ではなかった。
夕食のとき、テレビのニュースにコメントをした。
幸子の料理を「うまい」と言った。
春香が帰省すると「仕事はどうだ」と必ず聞いた。
そういう普通のことを、普通にする人だった。
春香が子どもの頃、父は「普通のお父さん」だと思っていた。
特別に優しいわけでも、特別に厳しいわけでもない。
ただ、そこにいる人。
でも今は、食卓に座ったまま、箸を動かしているだけだった。
春香は土曜日に実家に来ていた。
幸子の体調が気になるのと——もうひとつ、父のことが気になっていた。
食後、和彦はすぐに自分の部屋に引っ込んだ。
幸子と二人でテーブルを片づけながら、春香は聞いた。
「お父さん、最近あんな感じなの?」
幸子は少し間を置いてから「少しね」と言った。
それ以上は言わなかった。
何かを知っているような間だったが、春香はそれ以上は聞かなかった。
和彦の部屋は、家の中でも奥まった六畳の和室だった。
春香が子どもの頃から「お父さんの部屋」と呼んできたその部屋には、本棚と机と古いテレビがあった。
春香は滅多に入ったことがなかった。
ノックしても「入れ」と言われることが少なく、いつの間にか遠慮するようになっていた。
今日も、ドアの前で少し迷った。
ノックした。
「なに」という声がした。
「少し話せる?」と春香は言った。
「……入れ」
部屋の中は薄暗かった。
和彦は机の前の椅子に座っていた。
机の上には何もなかった。
本も、新聞も、何も。
ただ座っていた。
春香は部屋の中に入って、本棚の前に立った。
「病院の件、来週また対面の日程が入りそうって田所さんから連絡あったよ」
「そうか」と和彦は言った。
「お父さんも来る?」
「行く」
「……何か、言いたいことある? あの対面のこととか」
和彦は机の木目を見ていた。
春香を見なかった。
「ない」と言った。
春香はもう少し待った。
和彦はそれ以上、何も言わなかった。
部屋を出て、廊下に立ったとき、息が少し楽になった気がした。
和彦の部屋の中には、何か重たいものがあった。
それが何なのかはわからなかった。
でも「ただの無口」とは違った。
何かが、あの部屋の中にあった。
一九九五年の春、高橋和彦は二十八歳だった。
春香が生まれて四ヶ月が過ぎた頃、病院の事務長から電話があった。
「個人的なお話をしたい」という連絡で、和彦は仕事を早退して病院に行った。
通されたのは院長室の隣の小さな応接室だった。
事務長は五十代の、穏やかな顔をした男だった。
事務長は静かな口調で言った。
出産当日の管理に不手際があった可能性がある。
検査の結果として、血液型に矛盾が生じている。
奥様には、まだお知らせしていない。
「可能性というのは」と和彦は聞いた。
事務長は書類を出した。
血液型の表と、遺伝の法則の説明。
そして数字。
和彦はそれを見た。
理解した。
頭の中が、白くなった。
「もし万が一そういったことが確認された場合、どうされますか」と事務長は続けた。
「お子さんはもう四ヶ月です。もう一方のご家族も、すでにそれぞれの赤ちゃんを我が子として育てている。今から動いたとして、その子たちに何が残りますか。奥様に、何が残りますか」
和彦は黙っていた。
春香の顔が頭に浮かんだ。
四ヶ月の春香。
あの小さな手。
笑うと顔の中心に皺が寄る顔。
幸子が「今日ね、初めて声を出して笑ったの」と言った夜のこと。
自分が仕事から帰ると、布団の中でばたばたと手足を動かす春香。
あの子は、もう自分たちの娘だった。
「病院として、ご家族のご負担を和らげたいと思っています」と事務長は言って、封筒を机に置いた。
「これは誠意のつもりです」
和彦は封筒を見た。
自分は今、賄賂を渡されている、とわかっていた。
でも同時に、事務長の言葉のひとつひとつも、正しかった。
今から「実は違う子でした」と二つの家族を揺さぶることで、誰が幸せになるのか。
赤ちゃんたちは何も知らない。
どちらの子も、それぞれの家族に愛されて育っていく。
それが現実だ。
それに——春香は、もう自分たちの春香だった。
和彦は封筒を手に取った。
「誰にも話さないでください」と事務長は言った。
「はい」と和彦は言った。
その返事を口から出した瞬間、何かが終わったことを、和彦は知っていた。
終わった何かが何なのかを、後になって何度も考えた。
誠実さ、か。
あるいは父親としての資格、か。
あるいは、幸子への正直さ、か。
答えは出なかった。
ただ、何かが終わった。
そして翌日から、いつもと同じ生活が始まった。
春香の朝の泣き声。
幸子の作る朝食。
仕事。
帰宅。
夕食。
就寝。
何も変わらなかった。
何も変わらなかったから、自分は正しい選択をしたのかもしれない、と和彦は思い続けた。
三十年間、そう思い続けることで、あの日の封筒のことを、心の静かな場所に置いていた。
現在。
和彦は引き出しを開けた。
奥に、封筒があった。
あの三十年前の封筒ではない。
あの金は、とうに使い切っていた。
何に使ったかも、はっきり覚えていない。
少しずつ、生活の中に溶けていった。
引き出しの中の封筒は、和彦が数年前に書いて、しまったままのものだった。
何を書いたのかを、今では正確に思い出せない。
ただ捨てられなかった。捨てる資格が、自分にはないと思っていた。
和彦は封筒を見たまま、引き出しを閉めた。
事務長は穏やかな人だった。
悪人には見えなかった。
ただ病院を守ろうとしていた。
そして自分も、悪人ではなかった。
そう思っていた。
家族を守ろうとした。
幸子を守ろうとした。
春香を守ろうとした。
でも、三十年経って今ここに座っていると、ようやくわかる。
守ろうとした相手は、本当は自分自身だった。
「知ってしまった事実」と向き合う恐怖から、自分を守ったのだ。
あの封筒を受け取ることで、向き合わなくて済む理由を、買ったのだ。
春香が「何か言いたいことある?」と聞いた声が、まだ耳に残っていた。
「ない」と言った。
嘘だった。言いたいことは、山ほどあった。
でも、その全部が、言ってはいけないことだった。
あるいは、言える資格のないことだった。
春香は台所で幸子と話しながら、ふと廊下の方を見た。
父の部屋のドアが閉まっていた。
いつも閉まっているドアだった。
でも今日は、そのドアが少し違って見えた。
子どもの頃から遠慮してきたドア。
入れとなかなか言われなかったドア。
春香はずっと、それを「父の性格」だと思っていた。
無口で、不器用で、でも悪い人ではない。
そういう人のドアだと。
でも今は、ちがう問いが生まれていた。
あのドアの向こうに、何があるのか。
何が、閉じられているのか。
夕方、実家を出るとき、和彦は玄関に来なかった。
幸子だけが「気をつけてね」と言った。
春香は「うん」と言って、振り返らずに歩き出した。
父の背中が、頭の中にあった。
机の前に座っていた背中。
どこも見ていない目。
何も置かれていない机の上。
あの「ない」という一言。
あの背中は、何を背負っているのか。
三十年分の何かを、あの狭い背中に乗せて、ずっと歩いてきたのか。
問いは、まだ答えを持っていなかった。
でも今日から、その問いを持ったまま、春香は歩くことにした。
答えは、いつか来る。
そう思うことにした。




