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第10話 「明かされる三十年」

 DNAの結果は、一週間後に届いた。

 確率は九十九・九パーセント以上。

「高橋春香と神崎美月の間に生物学的な親子関係はない」。そして「高橋春香の生物学的な親は神崎哲郎・真理子夫妻である可能性が極めて高い」。

 数字が、三十年間の疑念を事実に変えた。


 その夜、春香は実家に泊まった。

 幸子のそばにいたかった。

 ただそれだけだった。


 夕食は三人で食べた。

 和彦はほとんど話さなかった。

 幸子は春香のために好きなものを並べた。

 出汁を引いて、煮物を作って、春香が子どもの頃から好きだった玉子焼きを焼いた。

 手間をかけた料理が、静かに並べられた。

 三人が食卓についた。

 誰も最初に口を開かなかった。

 食器の音だけがあった。


 食事が終わって、幸子が台所に立った。

 春香と和彦の二人が、食卓に残った。

 春香はコップの水を見ていた。

 和彦は自分の箸を並べ直した。


「お父さん」と春香は言った。

「なに」

「聞いていい?」

 和彦は黙った。

「三十年前のこと」

 箸が、テーブルの上で止まった。

「知ってたの?」

 沈黙が続いた。

 春香はその沈黙の中で、答えを聞いた気がした。

 声を聞く前に、もう答えを知っていた。


「いつから」と春香は聞いた。

「春香が、四ヶ月の頃だ」と和彦は言った。

「病院の事務長から連絡があって。血液型の表を見せられた」

「それから、ずっと黙ってたの」

「……ああ」

「なんで」


 和彦は顔を上げなかった。

「春香は、もう俺たちの娘だったから」

 その言葉を聞いた瞬間、春香の中で何かが割れた。

 割れたというより、崩れた。

 ゆっくり、静かに、積み上げてきたものが崩れていく感覚だった。


「娘だったから黙ってたの」

「幸子を傷つけたくなかった。春香を傷つけたくなかった」

「でも傷つけてたじゃない、三十年間ずっと」

「……そうだな」

「私のことも、神崎家のことも、騙してたじゃない」

「騙すつもりじゃなかった」

「じゃあ何のつもりだったの」


 和彦は答えなかった。

 答えられなかった。

「家族を守るため」と言いかけて、やめた。

 その言葉が今夜は動かなかった。

 動かせなかった。

 しばらく二人は黙った。


 重い沈黙を破るように、和彦が言った。

「……病院から、少しお金も受け取った」

「いくら」

「……覚えていない」

「覚えていない」と春香は繰り返した。

「三十年間、覚えていない」

 それが嘘かどうかは、わからなかった。

 本当に覚えていないのかもしれなかった。

 でも「覚えていない」という言葉が、春香には「忘れようとしていた」に聞こえた。


 台所から、幸子が来た。

 足音が廊下で止まった。

 春香は振り返らなかった。

 和彦も振り返らなかった。

 どちらも、その気配を知っていた。


「……聞いてたのか」と和彦はようやく言った。

 幸子は何も言わなかった。

 居間に入ってきて、自分の椅子を引いて、静かに座った。

 両手をテーブルの上に置いた。

 その手が、わずかに震えていた。

「いつから知ってたの」と幸子は和彦に聞いた。

「春香が四ヶ月のとき」

「四ヶ月」と幸子は繰り返した。

「四ヶ月の頃から、ずっと」

「ああ」


 幸子は何も言わなかった。

 テーブルの上の自分の手を見ていた。

 春香はその手を見ていた。

 震えているが、動かなかった。

 どこにも行かない手だった。

 逃げない手だった。

 それが幸子という人の、すべてのように見えた。


「お金、受け取ったの?」と幸子は聞いた。

 声は穏やかだった。

 穏やかすぎて、それが怖かった。

「少し」

 幸子はそこで一度、目を閉じた。

「私に言えなかった理由は」

「……傷つけたくなかった」

「傷つけたくなかったから、三十年間傷つけ続けた、ということね」

 和彦は何も言えなかった。


 幸子は目を開けて、春香を見た。

「ごめんなさい」と言った。

 誰に対しての謝罪かは言わなかった。

 自分が知らなかったことへの謝罪なのか、和彦の代わりの謝罪なのか、それとも春香への謝罪なのか。

 たぶん、そのすべてだった。

「お母さんは悪くない」と春香は言った。

「そうね」と幸子は言った。

 でも、その「そうね」の中には納得がなかった。


 夜、春香は二階の自分の部屋に戻った。

 子どもの頃から使っていた部屋。

 ベッドの高さも、窓の位置も、変わっていなかった。

 カーテンの花柄も同じだった。

 春香はそこに横になって、天井を見た。


 父を、憎みたかった。

 それは本当だった。

 三十年間、知っていて黙っていた。

 金を受け取った。

 母を騙した。

 自分を騙した。

 神崎家も、美月も、みんなを巻き込んで黙っていた。

 憎んでいい。

 怒っていい。そう思った。

 でも。


 ——私も、黙っていた。

 その言葉が、静かに浮かんだ。

 高校の理科で遺伝の法則を習ったとき。

 OとOからAは生まれない、とわかったとき。

 春香は一度、考えかけた。

 そして考えるのをやめた。

 家族を傷つけたくなかったから。

 問いを持ち込むことで何かが壊れるのが怖かったから。

 棚の上に置いた。

 見ないようにした。


 父は四ヶ月分の情で蓋をした。

 自分は何年分の情で蓋をしたのか。

 どちらが正しくてどちらが間違いかという話ではなかった。

 ただ、自分も蓋をしていたという事実があった。

 それが、父を完全に断罪することを難しくしていた。

 したかった。

 心の底では、今すぐ「最低だ」と言いたかった。

 でも自分の口から出てくる言葉は、それだけにはなれなかった。

 泣きたかったが、泣けなかった。

 泣くには、今夜は色々なものが複雑すぎた。


 和彦は、その夜、自分の部屋に戻らなかった。

 居間の椅子に座ったまま、夜が明けるまでそこにいた。

 幸子は一度だけ居間に来た。

 お茶を一杯、和彦の前に置いた。

 それだけだった。

 言葉はなかった。

 お茶は冷めるまで飲まれなかった。


 和彦は居間の窓から外を見た。

 夜の庭。

 庭の隅に、葉桜の木があった。

 もう花はなかった。

 ただ葉だけが、夜の闇の中でかすかに揺れていた。


 言い訳を、頭の中でまた並べようとした。

 春香を守りたかった。

 幸子を守りたかった。

 取り違えた事実より、三人が家族であることの方が大切だと思った。

 赤ちゃんたちはまだ四ヶ月で、どちらも愛されていた。

 事務長の言葉も正しかった。

 今さら動いて誰が幸せになるのか。


 でも今夜は、その言い訳が一つも動かなかった。

 春香の「なんで」という声が、耳に残っていた。

 幸子の「三十年間傷つけ続けた、ということね」という声が、残っていた。

 正しいことを言っていた。

 どちらも、正しいことを言っていた。


 泣けなかった。

 泣く権利が、自分にあるかどうかわからなかった。

 窓の外で、葉桜の木が風に揺れていた。

 和彦は、自分が何を守ったのかを、今夜初めて正確に考えた。

 春香ではなかった。

 幸子ではなかった。

 自分が「取り違えを知っていた」という事実に、向き合わなくて済む自分を、守ったのだ。


 その答えが出たとき、和彦はようやく、一人でひっそりと泣いた。

 声も出さず、誰にも見せず、ただ涙が落ちた。

 それが赦しを求める涙なのか、それとも単なる自己憐憫なのかは、自分でもわからなかった。

 朝になっても、その答えは出なかった。


 翌朝、春香は早起きして実家を出た。

 幸子はまだ起きていなかった。

 和彦は居間の椅子で眠っていた。

 お茶が、飲まれないまま置かれていた。


 春香は黙って玄関を出た。

 朝の通りに出て、スマホを出した。

 蒼太の番号があった。

 電話しようとして、やめた。

 まだ今は、誰かと話せる状態ではなかった。

 でも、歩きながら思った。

 父が黙っていた。

 病院が隠した。

 その二つが重なって、三十年間が作られた。

 そして自分も、どこかの時点で黙っていた。


 でも、もう黙っていることをやめると決めた日があった。

 カフェで蒼太に話した日。

 あの日に決めた。

 断罪はできない。

 自分も同じことをしていたから。

 でも赦すことも、今日はまだできない。

 それでいい。

 今日は、それでいい。


 春香は朝の光の中を歩き続けた。

 答えのない問いを全部抱えたまま、まっすぐに、歩き続けた。

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