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第11話 「美月の孤立」

 DNAの結果が出てから三日後、神崎家に集まりがあった。


 父・哲郎の妹である麗子が来た。

 叔母の麗子は、美月が子どもの頃からよく家に来る人だった。

 背が高く、ものの言い方がはっきりしていて、神崎家の行事があるたびに仕切る側に立つ。

 子どもの頃の美月は、その人がやや苦手だった。

 好意的な人ではあるのだが、すべての言葉に「神崎家として」という枕詞がついているような印象があって、そのまっすぐさが息苦しかった。

 大人になってからは、そう感じなくなっていた。

 麗子はそういう人で、それがこの家の空気の一部だと思うようになっていた。

 でも今日は、違った。


 居間のテーブルに、哲郎、真理子、美月、そして麗子が座った。

 田所さんが同席を申し出たが、哲郎が断った。

「家の話は家でする」と言った。

 それがこの父らしかった。


 麗子はお茶を一口飲んでから、本題に入った。

「DNAの結果について、私なりに考えましたよ」と麗子は言った。

「神崎グループはお兄さんが三十年かけて育ててきた。それは血筋の話でもある。先代から受け継いできたものをどう守っていくか、今回の件はそこに関わる問題です」

「今はまず家族の話をしましょう」と真理子が言った。

「家族の話をしているんです」と麗子は言った。

「神崎の家のこれからが、家族の話でなくて何なんですか」

 哲郎は何も言わなかった。


 美月はテーブルの上の湯呑みを見ていた。

 湯呑みの表面に映る自分の顔が、小さくゆがんで見えた。

「陽介くんはどうするの」と麗子が続けた。

「あの子が後を継ぐということになるのかしら」

 弟の名前が出た。

 陽介は今日、別の用事で席にいなかった。

「まだそういう話をする段階ではないわ」と真理子が言った。

「でも考えなければならないでしょう」と麗子は言った。

 そして初めて、美月の方を向いた。

 向いた、というより、視線が通過した、という感じだった。

 目が一瞬合ったが、麗子の視線はすぐに哲郎へ移った。


「この子の今後については、もちろん誠実に対応するべきだと思っています。育てた二十五年は本物ですから。でも、神崎の家のこれからを、今のままの形で考えるのは、さすがに——」

「麗子さん」と真理子が遮った。

 声が低かった。

「美月は私の娘です」

「そうね、育ての娘よね」

「娘です」と真理子は言った。

「育ての、という言葉はいりません」


 麗子は少し間を置いてから「そう」と言った。

 反論はしなかった。

 表情も変わらなかった。

 その後、麗子は哲郎に向かって、グループ会社の次の決算会議について話し始めた。

 美月がその会議に出席する予定だったことを、麗子は知っているはずだった。

 でも、その話の中に美月の名前は出てこなかった。

 哲郎が出席する、陽介くんも同席させてはどうか、と麗子は言った。

 美月については、何も言わなかった。

 美月は自分の名前が出てくるのを待った。

 出てこなかった。


 美月はその後の会話を、どこか遠くから聞いていた。

「この子」と言われた瞬間から、何かがずれ始めていた。

 麗子が悪い人だとは思わなかった。

 悪意がないことは、わかった。

 あの人は本当に、神崎の家を守ろうとしている。

 血筋を守ることが、この家を守ることだと、本気で信じている。

 そのための言動だった。

 悪意がないぶん、言葉に迷いがない。

 迷いのない言葉は、刃より鋭く入ってくる。


「この子」。

 二十五年間、「美月ちゃん」と呼ばれてきた。

 美月が十歳のとき、ピアノの発表会に来た麗子が「美月ちゃん、上手だったわよ」と言ってくれた。

 十五歳の頃、英語の成績を褒められた。

 二十歳の頃、「神崎の娘として恥ずかしくない振る舞いをしなさい」と言われた。

 それも好意だった。

 この人なりの、愛情だった。

 その人が今日、「この子」と言った。

 名前ではなく、「この子」と。

 そして会議の話に、美月の名前を入れなかった。


 忘れたのではない。

 意識して省いたのでもないかもしれない。

 ただ、「神崎の家のこれから」を考えるとき、麗子の思考の中に美月は自然に入ってこなかった。

 そういうことが起きた。

 悪意ではなく、確信から来る、省略だった。

 神崎美月という名前が、一瞬、宙に浮いた気がした。


 集まりが終わって、麗子が帰った。

 玄関先で麗子は哲郎に「しっかり考えてね」と言った。

 哲郎は「ああ」と言った。

 それだけだった。

 真理子は麗子を見送ってから、美月の部屋のドアをノックした。

「入っていい?」

「どうぞ」


 真理子が入ってきた。

 ベッドの端に座った。

 美月はデスクの前の椅子に座っていた。

「ごめんなさいね」と真理子は言った。

「麗子さんは悪くないよ」と美月は言った。

「あの人はそういう人だもん、ずっと」

「そうだけど」

「お母さん、さっき「育ての」はいらないって言ってくれたね」

「当たり前のことよ」と真理子は言った。

 少し強い口調だった。

「あなたは私の娘です。それはDNAがどうであれ、変わらない」

 美月は、その言葉を聞いて、何かが少しほぐれた気がした。

 でも全部はほぐれなかった。


「お父さんは、どう思ってるんだろう」と美月は言った。

「今日、何も言わなかったね」

「……お父さんはね」と真理子は少し間を置いた。

「難しい人よ。でも、あなたのことは愛してる。私はそれを知ってる」

 愛してる、という言葉と、今日の哲郎の沈黙が、美月の中でうまく重ならなかった。

 同じ人間の中に、愛と沈黙が並んでいる。それが、この家の長年の不思議だった。


 夜、一人になってから、美月は引き出しのオルゴールを出した。

 蓋を開けた。

 チン、チン、という音が鳴り始めた。

「この子」という言葉を、まだ考えていた。

 麗子が悪意を持っていないことは、理解できる。

 神崎の血を守ることが、神崎の家を守ることだという信念も、理解できる。

 その論理は整合している。

 でも、その整合した論理の先に、自分の名前がなかった。

 神崎美月という名前が、神崎の家の中で宙に浮いている。

 麗子の言葉によって浮かされたのではなく、DNAの結果によって浮かされた。

 麗子はただ、それを声に出しただけだった。


 では、自分は誰なのか。

 高橋家の娘でもなく、神崎家の娘でもなく——。

 オルゴールのメロディが続いていた。

 何の曲かまだ知らない。

 でも、このメロディだけは知っている。

 小さな頃から知っている。

 真理子が「生まれる前に買ったの」と言って渡してくれた、このメロディだけは。

 誰かのために買われた音楽が、今、自分の引き出しの中にある。

 自分のものかどうかも、わからないまま。


 翌朝、美月は鏡の前に立った。

 整った顔。

 乱れていない髪。

 神崎美月として二十五年間生きてきた、この顔。

 麗子は「この子」と言った。

 会議の話に名前を入れなかった。

 でも真理子は「娘です」と言った。

 名前よりもっと近い言葉で、「娘」と言った。


 どちらも、今日ここに立っている自分を指していた。

 同じ人間を指して、片方は省き、片方は守った。

 どちらの言葉が、自分の本当の場所を示しているのか。

 鏡の中の自分は、答えを持っていなかった。

 でも美月は今日、初めてはっきりと思った。

 どちらの言葉が正しいかを、他の誰かに決めさせてはいけない、と。

 自分の場所は、自分で選ぶものだ、と。


 その考えが浮かんだとき、美月はまだ何もできなかった。

 でも、何かが、少しだけ変わった気がした。

 それが小さな変化でも、昨日の自分とは違う、と思った。

 鏡の前で、美月は深く一回、息を吸った。

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