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第12話 「美月の決断」

 岸本清志に連絡を入れたのは、麗子が帰った翌日だった。


「少し話したいことがあります。時間をもらえますか」とメッセージを送った。

「もちろん」とすぐに返ってきた。

 その速さが、岸本らしかった。

 この人は、こういうとき返信を遅らせない。

 誠実さが反射的に出る人だった。


 場所は、二人がときどき使う駅前の小さなレストランにした。

 家族の同席もなく、仕事の話でもない。

 ただ、二人で話せる場所を選んだ。


 前夜、美月は一度だけ迷った。

 婚約を続けることもできた。

「事情が落ち着くまで待ってもらう」という形も選べた。

 岸本は待てる人だ。

 何年でも、という人ではないかもしれないが、少なくとも今すぐ答えを求めない人だ。

 それはわかっていた。


 でも、朝になったら、迷いは消えていた。

 待ってもらいながら自分を探す、ということが、美月にはできなかった。

 誰かの視線の中で自分を探しても、本当の場所には辿り着けない気がした。

 それは岸本のせいではなく、今の自分の問題だった。


 岸本は美月より先に来ていた。

 窓際の席に座って、水を飲んでいた。

 美月が近づくと立ち上がって、「こんにちは」と言った。

 声はいつも通りだった。

 それが、美月の胸を少し痛くした。


「DNAの結果、聞きましたか」と美月は座りながら言った。

 遠回りをする気分ではなかった。

「父から少し」と岸本は言った。

「詳しくは聞いていないけど、両家の間で何かあったと」

「私が神崎の血を引いていないということが、確認されました」と美月は言った。

「出産当日の病院のミスで、別の赤ちゃんと入れ替わっていた、ということが」

 岸本はしばらく黙った。


「そうか」と言った。

 それから「大変だったね」と言った。

 その「大変だったね」の温度が、どこにも力がなくて、それがかえって正直な言葉に聞こえた。


「婚約の話なんですが」と美月は続けた。

 岸本の目が、少し変わった。

 予感を持った目だった。

 でも、その予感を確かめるまで待っていた。


「私には、今の岸本さんとの約束を守れるかどうか、自信がないんです」と美月は言った。

「神崎の娘として岸本さんとお付き合いしてきた。でも今、私が神崎の娘かどうかというところから、わからなくなっています。そういう状態で婚約を続けるのは誠実じゃない、と思っていて」

「血筋の話は、俺には関係ない」と岸本は言った。

「美月さんは美月さんじゃないですか」

 美月はその言葉を聞いた。

「ありがとうございます」と言った。

「でもそれが、今の私には、まだ受け取れないんです」

「どういうこと?」

「岸本さんが「美月さんは美月さんだ」と言ってくれる。それは本当にありがたい。でも今の私は、その「美月さん」が誰なのか、自分でわかっていない。わからないまま誰かに愛してもらうのが、苦しい。それだけのことなんです」

「俺が待てばいい、じゃないの」

「待ってもらうのも、苦しい」と美月は言った。

「あなたに申し訳ない、ということじゃなくて。私が、今の状態で誰かに待ってもらうことに、耐えられない。自分でもおかしいと思うけど、それが正直なところで」

 岸本はしばらく黙った。

 窓の外を見た。

 通りに人が歩いていた。

 夕方の光が、その人たちの背中を赤く染めていた。


「俺では、ダメか」と岸本は言った。

 責める口調ではなかった。

 確認するように言った。

「あなたがどう、という話じゃないんです」と美月は言った。

「本当に。あなたは、何も悪くない」

「俺が悪くないのに、別れるのか」

「はい」と美月は言った。


 その「はい」を言うまで、少し時間がかかった。

 でも言ってしまうと、思ったより軽かった。

 軽い、ということは冷たいことじゃない、と美月は思った。

 重いまま持ち続けるより、軽くする方が、お互いのためだということがある。


 岸本はため息をついた。

「正直に話してくれてよかった」とようやく言った。

「あの家に電話一本で済ませる人もいるから」

 その言葉が、思いがけず美月の目を少し熱くした。

「申し訳ありませんでした」と美月は言って、頭を下げた。

「謝らなくていいよ」と岸本は言った。

「自分で選んだんだろ、今日ここに来て話すことを。それだけで十分だと思う」

 自分で選んだ。その言葉が、胸に残った。

 岸本はこの人なりに、理解しようとしていた。

 美月が何を言いたいのかを、完全にはわからなくても、「自分で選んだ」ということだけは受け取ってくれた。

 それが、せめてもの救いだった。


 店を出てから、美月は歩いて帰ることにした。

 タクシーを呼ぶ気になれなかった。

 一人で、自分の足で歩きたかった。

 夕方の通りだった。

 店の灯りが少しずつついてきていた。

 美月はその中を、少しゆっくりした速さで歩いた。


 岸本は良い人だった。

 今日も、最後まで良い人だった。

「正直に話してくれてよかった」という言葉も、「自分で選んだんだろ」という言葉も、誠実な人間にしか言えない言葉だった。

 それでも、続けられなかった。


 美月さんは美月さんじゃないですか、と言われたとき、美月はほんとうはこう思っていた。

 ——では、その「美月さん」は誰ですか。

 神崎家の長女。

 完璧な令嬢。

 婚約者。

 その枠組みで生きてきた二十五年。

 その枠組みが今、根本から揺らいでいる。

 揺らいでいる場所に立ったまま「あなたはあなたです」と言われても、その「あなた」がどこを指しているのかがわからなかった。


 自分を探している間は、誰かの「美月さん」でいてはいけない気がした。

 夕風が吹いた。

 美月はコートの前を合わせた。

 今日の決断は、誰かに言われてしたことではなかった。

 岸本家からでもなく、父からでもなく、麗子からでもなく、自分で選んだことだった。


 昨日の夜、鏡の前で思った。

「自分の場所は、自分で選ぶものだ」と。

 それを今日、実行した。

 形は婚約破棄という、外から見ればネガティブなものだった。

 でも内側から見れば、それは初めて「自分の意思」で動いた瞬間だった。

 失うことが、始まることでもある。

 そういうことが、あるのかもしれない。


 家に帰ると、真理子がリビングにいた。

 美月の顔を見て、何も聞かなかった。「お茶、飲む?」とだけ言った。

「うん」と美月は言った。

 二人でお茶を飲んだ。

 真理子は何も聞かなかった。

 美月も何も言わなかった。

 テレビはついていなかった。

 静かな夜だった。

 湯呑みの温度が手に伝わってきた。


 しばらくして、真理子がぽつりと言った。

「麗子さんのこと、昨日から気になってた」

「大丈夫」と美月は言った。

「あの人は悪くない。私が向き合わないといけないことを、ただ声に出してくれただけ」

 真理子は美月を見た。

「そんな風に言えるようになったのね」と真理子は言った。

 美月は少し考えてから「今日、少し、自分で決めたから」と言った。

 真理子は「そう」と言って、また湯呑みを持った。

 それ以上は聞かなかった。

 でも、その「そう」の中には、何かがあった。


 夜、自分の部屋に戻ってから、美月は引き出しのオルゴールを取り出した。

 蓋を開けた。

 チン、チン、という音が鳴り始めた。

 今日は、閉めなかった。

 いつもは途中で閉めていた。

「本来は誰のもの」という考えが浮かぶたびに、蓋を閉めていた。

 でも今日は、最後まで聞こうと思った。


 メロディが続いた。

 短い曲だった。

 一分にも満たない、ゆっくりとしたメロディ。

 それが一度鳴り終わって、また最初から繰り返した。

 美月はじっと聞いた。

 誰のためのメロディなのかは、まだわからない。

 でも今日、少しだけ思った。

 たとえ誰かのために作られた音楽でも、今ここで聞いているのは自分だ。

 今この瞬間に自分の耳に届いているのなら、その音楽は今ここで、自分のものだ。

 過去は変えられない。

 でも今この瞬間は、自分のものだ。


 オルゴールのメロディが、また一巡した。

 美月は、その音の中で、深く息を吸った。

 何かが終わった夜だった。

 でも同時に、何かが始まった夜だという気もした。

 始まったものが何なのかは、まだわからなかった。

 でも、それでいい、と思った。

 今夜は、それでいい。

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