第13話 「普通という残酷」
月曜の朝は、いつも通りにやってきた。
アラームが鳴る。
止める。
顔を洗う。
コーヒーを淹れる。
着替える。
かばんを持つ。
ドアを閉める。
電車に乗る。
それだけのことが、少し重かった。
重い、というより、遠い、という方が正確かもしれない。
一つひとつの動作が、自分のものじゃない手でやっているような感覚だった。
電車の中で、隣に立った女性がスマホで動画を見ていた。
音は出ていなかったが、画面の中で誰かが笑っていた。
春香はその画面を一瞬見て、目を逸らした。
世界は、動いている。
自分が止まっていても、世界は動き続けている。
それが当たり前のことだとわかっていても、今はそれが少し、ひどいことのように感じた。
電車が定刻通り来ることも、隣の人が動画を見て笑うことも、当たり前のことが当たり前に続くことが、今の春香には遠かった。
昼休み、同僚の村田さんが「今度の土日、彼氏とどこか行くの?」と聞いた。
「うーん、まだ決めてない」と春香は答えた。
「そっか。うちはね、ディズニー行こうって話になってて。混んでるのわかってるのに旦那が行きたいって言って聞かないんだよ」と村田さんは言って、「しょうがないから予約したんだけど、チケット取るのに一時間かかって」と続けた。
「大変だったね」と春香は言った。
「そうなの! それでね——」
村田さんの話が続いた。
春香はそれを聞いていた。
相槌を打った。
笑うべきところで笑った。
話の内容は、頭の中に入っていなかった。
入ってきているふりをしながら、別のことを考えていた。
父の「ない」という声。
幸子の震えていた手。
美月の、扉の前で開きかけた口。
でもそれを顔に出さないようにしながら、「そうなの、それは大変だったね」と言い続けた。
それが、午後の終わりまで続いた。
仕事そのものは、ちゃんとこなした。
ミスもしなかった。
誰かに気づかれることもなかった。
外から見れば、今日の春香は普通の一日を過ごした普通の社員だった。
それが、じわりと苦しかった。
普通に見えているということは、誰も助けに来ない、ということだった。
その夜、達也と会った。
いつものカフェで、向かい合って座った。
達也は今週の仕事の話をした。
上司が機嫌の悪い週で、ミーティングが全部長引いたこと。
でも金曜に少し良いことがあったこと。
話しながらコーヒーを飲んで、少し笑って、また話した。
春香は聞いていた。
いつもは「それで?」とか「その上司、前にも言ってた人?」とか聞き返しながら聞くのだが、今日はそれがうまくできなかった。
代わりに「うん」と「そうなんだ」を繰り返した。
「最近、なんかちょっと違くない?」と達也は言った。
春香は顔を上げた。
「ちょっと疲れてる」と春香は言った。
「家のこと? お母さん、体の具合どうなの」
「まあ、経過見てる感じ」
「そっか」と達也は言った。
「無理しないで」
その「無理しないで」という言葉が、今日は少し遠かった。
気遣ってくれているのはわかる。
でも、今の春香が「無理」しているのは、幸子の体調のことだけじゃない。
もっと根本的なところで、毎日ずっと無理をしている。
それを説明する言葉が、見つからなかった。
「話せないこと、ある?」と達也が聞いた。
春香は少し驚いた。
「なんで」
「なんか、そんな感じがして」と達也は言った。
「俺に話せないことがあるんじゃないかって、ここ最近ずっと思ってた。気のせいならいいんだけど」
春香は達也を見た。
この人は、ちゃんと見ている。
気づいている。それがわかった。
話そうとした。
口を開いた。
「実は」まで出かかった。
でも、次の言葉が来なかった。
「実は」の後に何を言えばいいのか、整理できていなかった。
自分が生まれた病院で取り違えが起きていた、ということから話すのか。
DNAの結果から話すのか。
父の話から話すのか。
神崎家との対面から話すのか。
何から話しても、今の状態では全部が絡まって、うまく伝わらない気がした。
そして何より——話してしまえば、達也の中でも、これが「事件」になる。
また一人、この事件を抱える人間が増える。
それが今の春香には、少し怖かった。
達也だけは、普通でいてほしかった。
自分が普通でいられなくなっても、達也の世界だけは普通であってほしかった。
それがわがままだとわかっていても。
「大丈夫」と春香は言った。
「少しだけ整理したいことがあって。もう少ししたら、話せるかもしれない」
「うん」と達也は言った。
「待ってる。急かさないから」
その「待ってる」が、今夜は少し重たかった。
待ってもらうことへの感謝と、待たせていることへの申し訳なさと、待たせながらも話せないでいる自分への情けなさが、全部混じった。
その混じり合いを顔に出さないように、春香はコーヒーを飲んだ。
帰り道に、スーパーに寄った。
夕食の食材を買うつもりだった。
カートを押しながら、野菜のコーナーを歩いた。
人参、玉ねぎ、じゃがいも。
いつも買うものを、いつも通りに手に取る。
じゃがいもを手に取ったとき、春香の手が止まった。
何が止まらせたのか、自分でもわからなかった。
じゃがいもはいつも通りのじゃがいもだった。
袋の重さも変わらなかった。
でも、手が止まった。
頭の中に、幸子の姿が浮かんだ。
このじゃがいもで、幸子が昔よく作っていた肉じゃがの味を思い出した。
醤油と砂糖とみりんの甘さ。
子どもの頃に大好きだった味。
その幸子が今、病院へ通っていて、体の中に何かが育っているかもしれなくて、しかも三十年間育ての娘として愛してきた子どもが実の娘ではなかったという事実を、つい最近知って——
スーパーの通路を、人が歩いていた。
カートを押す音。
商品をかごに入れる音。
どこかで子どもが泣いていた。
春香はその中で少しの間、じゃがいもを持ったまま立っていた。
誰も気づかなかった。
誰も立ち止まらなかった。
世界は何も変わらなかった。
それが、今日一番、残酷だった。
春香はじゃがいもをかごに入れた。
また歩いた。
レジに並んだ。
お金を払った。
袋を持って、外に出た。
夜の空気が冷たかった。
泣かなかった。
泣けなかったのではなく、泣く場所がなかった。
スーパーの帰り道で一人で泣くことが、今の自分にはできなかった。
なぜかはわからないが、ここで泣いたら本当に一人になる気がした。
歩きながら、スマホを開いた。
蒼太からメッセージが来ていた。
「病院の記録の件、少し進展がありました。近いうちに連絡します」。
春香はそれを見てから、スマホを閉じた。
蒼太には話せる。
この事件のことは、蒼太には全部話せる。
でも、自分が今スーパーの帰り道でじゃがいもを持ったまま止まりかけたこと、それを誰も知らないまま歩いていること——そういうことは、蒼太にも話せない。
話しても、どうにもならないことというのが、ある。
達也には言えない。
蒼太にも言えない。
幸子には心配させたくない。
父には、今は顔を見たくない。
では誰に言うのか。
答えは、ない。
アパートの前まで来て、春香は空を見た。
星が少し出ていた。
曇り空の切れ目に、二つか三つ。
人間はこんなに孤独になれるものなのか、と思った。
誰かに嫌われているわけじゃない。
孤立しているわけじゃない。
達也も、幸子も、蒼太も、自分のことを心配してくれている。
それはわかっている。
でも、今夜は孤独だった。
孤独の質が、いつもと違った。
みんながそれぞれの普通の場所にいて、自分だけがどこにも属せない場所にいる、という孤独だった。
春香はドアを開けて、部屋に入った。
電気をつけた。
袋をキッチンに置いた。
じゃがいもを冷蔵庫に入れた。
今夜は作る気になれなかった。
ソファに座って、少しの間、何もしなかった。
明日もまた、普通が来る。
それを乗り越えるしかない、と春香は思った。
乗り越える、というより、ただ通り過ぎるしかない、か。
どちらにしても、明日が来ることだけは、変わらなかった。




