第14話 「二人きりの午後」
連絡が来たのは、火曜日の夜だった。
画面に「神崎美月」と表示された。
登録したのは先月の対面のときだった。
田所さんに「何かあればお互い直接連絡できる状態にしておくといいかもしれない」と言われて、二人でぎこちなく番号を交換した。
それ以来、春香からは何もしていなかった。
美月からも、何もなかった。
「少し時間をもらえますか。二人で話せれば、と思って」というメッセージだった。
春香はしばらく考えてから「はい、どうぞ」と返した。
土曜の午後、駅の近くのカフェで待ち合わせた。
春香が先に着いた。
窓際の席に座って、水を飲みながら入り口を見ていた。
美月がどんな顔をして入ってくるのかが、少し気になっていた。
あの会議室で見た顔は、服装も含めて整いすぎていた。
でも今日は土曜で、家族の同席もない。
少し違う顔で来るかもしれない、と思った。
五分後、美月が入ってきた。
シンプルなニットと、ジーンズだった。
春香は思わず「あ」と思った。
普通だ、と思った。
整っているが、普通の人の普通の服だった。
美月も春香を見て、一瞬止まった。
それから少し頭を下げながら近づいてきた。
「来てくれてありがとうございます」と美月は言った。
「いえ」と春香は言った。
向かい合って座った。
最初の十分は、難しかった。
コーヒーを注文して、それが来るまでの間が一番難しかった。
話せることが多すぎて、何も言えなかった。
「お元気ですか」は違うし、「最近どうですか」もおかしかった。
「最近どうですか」の内側にあるものが、どちらも同じくらい大きすぎた。
コーヒーが来た。
「お母様は」と美月が聞いた。
「経過を見てもらってます。悪化はしていないみたいで」と春香は言った。
「神崎さんのご家族は?」
「一応、落ち着いてます。いろいろありましたが」と美月は言った。
「婚約の件」と春香は言った。
「すみません、田所さんから聞いて」
「いえ」と美月は言った。
「自分で決めたことなので」
「自分で、決めたんですね」と春香は言った。
「はい」と美月は言った。
それから少し間を置いて「変ですか、こんなタイミングで」と言った。
「変じゃないと思います」と春香は言った。
「むしろ、すごいと思いました」
美月は少し驚いた顔をした。
「すごい、というのは」
「自分で決めた、というのが」
美月はそれを聞いて、少しの間、コーヒーカップを見ていた。
「私も最近、初めて自分で決めたことがあった気がして」と言った。
「今まで、家のことも婚約のことも、全部周りが決めたものを受け取るだけだったな、と思って」
「私も似たようなものだと思います」と春香は言った。
「ずっと受け取る側だった。最近、少しだけ変わってきた気がしてますけど」
二人は少しの間、黙った。
でも今度の沈黙は、最初のものと少し違った。
「変なことを聞いていいですか」と美月が言った。
「どうぞ」と春香は言った。
「あの、DNAの結果が出てから、実際のところ、毎日どんな感じですか」
春香は少し考えた。
「普通でいるのが疲れます」と言った。
「職場でも、彼氏の前でも、普通の顔をしていないといけなくて。でも全然普通じゃないから」
「ああ」と美月は言った。
静かな「ああ」だった。
「わかりますよね」と春香は言った。
「わかります」と美月は言った。
「私は逆に、普通でいられる場所がなくなったかもしれなくて。家の中で、少し立場が変わって。だからといって外でそれを話せるわけでもなくて」
「それはきつい」と春香は言った。
「高橋さんの方がきつそうですけど」
「神崎さんの方がきつそうです」
二人は顔を見合わせた。
笑えなかった。
でも、笑えなかった二人が顔を見合わせたことで、何かが少し解けた気がした。
「世界に二人しかいないですよね、こういう状況の人が」と春香は言った。
「そうですね」と美月は言った。
「まったく同じ夜に、まったく同じ病院で生まれて、名前が入れ替わって」
「三十年後にDNAで確認されて」
「両家がまだ揉めてて」
「自分の父親が口止め料を受け取っていたことが発覚して」
美月は少し目を見開いた。
「私の父が、です」と春香は言った。
「三十年前に病院から連絡があって、黙っていた。お金も受け取っていた」
「……それは、知りませんでした」と美月は言った。
「田所さんには伝えました。神崎さんご家族には、まだでしょうか」
「聞いていません」と美月は言った。
静かだったが、目が少し動いた。
「そういうことが、あったんですね」
「はい」と春香は言った。
「それを知ってから、父のことが——なんて言えばいいのか、正直まだわかっていなくて」
「断罪も、赦しも、できないんですね」と美月は言った。
「まさに、そうです」と春香は言った。
「よくわかりますね」
「私も、似たようなことが家でありましたから」と美月は言った。
それ以上は言わなかった。
でも、春香はその「似たようなこと」が何なのか、だいたい想像できた。
少しの沈黙があった。
「高橋さんは」と美月が言った。
「育ての親のことを、どう思っていますか。今」
春香はその問いを、少し考えた。
「好きです」と言った。
「好き、という言葉しかないけど。事実がどうであれ、お父さんとお母さんはお父さんとお母さんです。それは変わらない。ただ、お父さんに対しては、今は——複雑で」
「それでも、好き、は変わらないんですね」と美月は言った。
「変わらないと思います」と春香は言った。
「神崎さんのお母様は?」
「……母のことは、好きです」と美月は言った。
ゆっくりと言った。
「今まで以上に、かもしれない。DNAの結果が出てから、お母さんが「娘です、育ての、という言葉はいりません」と言ってくれた場面があって。その言葉が、ずっと残っていて」
「お母様、素敵な人ですね」と春香は言った。
「はい」と美月は言った。
「高橋さんのお母様も」
「似てますね、二人」と春香は言った。
「似てますね」と美月は言った。
一時間が過ぎた頃、春香は蒼太のことを話した。
「実は、記者の方に協力してもらって、病院の記録を調べているんです」と春香は言った。
「三十年前に何が起きたのか、病院の内部でどういう対応があったのかを」
美月は少し考えてから「それを知りたいと思っていますか」と聞いた。
「はい」と春香は言った。
「知らないと、どこにも立てない気がして」
「私も」と美月は言った。
「知りたい、と思います。怖いですけど」
「怖いですよね」と春香は言った。
「でも知らないまま進むのも、違う怖さがある」
美月は頷いた。
「神崎家の側からも、何か提供できることがあれば、したいと思います。父のことや、病院との関係について、私が知っていることを」
「ありがとうございます」と春香は言った。
「こちらこそ」と美月は言った。
「今日、話せてよかった。一人でずっと抱えていたから」
「私もです」と春香は言った。
カフェを出て、駅の前で別れた。
「また連絡します」と美月が言った。
「はい」と春香は言った。
別れ際に、春香はふと気になって言った。
「あの……ものを考えるとき、口が少し開きますか」
美月は一瞬きょとんとした。
「え、なんで」
「お母さんが、私にもそういう癖があるって言っていたので。二人で、同時に」
美月は少し考えてから「……開くかもしれないです。自分ではわからないんですけど」と言った。
春香は頷いた。
何も言わなかった。
美月も何も言わなかった。
でも、その問いを春香がしてきた意味は、たぶん伝わっていた。
二人は反対方向へ歩き出した。
同じ夜に、同じ病院で生まれた二人が、また別の方向へ歩いていく。
それでも今日は、歩き出すときの気持ちが、来るときとは少し違った。
完全な理解ではなかった。
でも、完全な孤独でも、もうなかった。




