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第15話 「弟の前で泣いた」

 インターフォンが鳴ったのは、土曜日の午後だった。


 美月はキッチンに立っていた。

 朝から何もする気になれず、それでも立っていないと落ち着かなくて、お湯を沸かしてはお茶を入れ、飲みきらないうちにまた別のことをしようとして、また戻ってきた。

 そういう午後だった。


 インターフォンの画面を確認した。

 陽介だった。

 マフラーを首に巻いたまま、カメラの前でぎこちなく立っていた。

 大学の近くのコンビニの袋を提げていた。

 美月は少し戸惑った。

 連絡はなかった。

 いつもは来る前に一言あった。

 今日は何もなかった。

「どうぞ」とインターフォンに言って、ドアを開けに行った。

「突然、ごめん」と陽介は言った。

 玄関で靴を脱ぎながら、少し視線を落としたまま言った。

「いいよ」と美月は言った。

「連絡くれればよかったのに」

「そうしようとしたんだけど」と陽介は言った。

「なんか、したら来られなくなりそうで」

 美月はその言葉の意味を、すぐには問い返さなかった。


 コンビニの袋の中には、シュークリームが二つと、美月が好きなほうじ茶のペットボトルが入っていた。

「お腹空いてると思って」と陽介は言った。

「姉さん最近ちゃんと食べてなさそうだし」

「食べてる」と美月は言った。

「どうせ食べてないでしょ」と陽介は言った。

 それを責めるでも心配するでもなく、ただ知っていることを言う口調で言った。


 リビングで向かい合って座った。

 シュークリームを皿に出した。

 美月が分けようとすると「一個ずつでしょ」と陽介が言った。

「俺もそっちのが好きだから争わない」

 久しぶりに少し笑った気がした。

「最近どう」と陽介は言った。

「正直に」と続けた。

「どう、と言っても」と美月は言った。

「色々あって。整理がついていないのが正直なところ」

「整理つかなくていいと思う」と陽介は言った。

 美月は陽介を見た。


 陽介は皿の上のシュークリームを見ていた。

 二十二歳の顔だった。

 でも今日は、いつもより少し違う表情をしていた。

 何かを言おうとして来たのだな、と美月は思った。


「麗子おばさんのこと」と陽介は言った。

 美月は少し身構えた。

「聞いてた。何を言われたか、うちの親から」と陽介は続けた。

「姉さんに直接確認はしなかったけど、たぶん大体わかった」

「陽介に心配かけるようなことじゃない」と美月は言った。

「心配してるよ」と陽介は言った。

 あっさりと、迷いなく言った。

「姉さんのことが、心配だよ。それのどこがおかしいの」

 美月は何も言えなかった。

 おかしくない。

 おかしくないことはわかっている。

 でも「心配している」と言われるたびに、どこかで「心配させてしまっている」という感覚が先に来て、受け取ることが難しくなった。

 最近ずっとそうだった。


「麗子おばさんの言ってることは」と陽介は言った。

「俺は違うと思う」

「陽介」と美月は言った。

「あの人は悪気があって——」

「そうじゃなくて」と陽介は遮った。

「悪いとか悪くないとかじゃなくて」

 陽介はシュークリームを一口食べた。

 それから、皿の端を指で少し触りながら言った。

「姉さんって、ずっと神崎家の長女だったじゃない」

 美月は聞いた。

「俺から見ると、そう見えた。神崎の家として、お父さんの会社の娘として、完璧にやってた。俺、末っ子だから、姉さんのそれを見て育ったから。すごいなと思ってた。でも最近ちょっと思うのは」

 陽介は顔を上げた。

「姉さん自身は、それで楽しかったのかな、って」

 美月は、その言葉を受けて、一瞬何も言えなくなった。


 楽しかったか。

 問われたことのなかった問いだった。

 誰も聞かなかった。

 自分でも聞かなかった。

 完璧にやることが所与のことで、楽しいかどうかを問う余地が、最初からなかった。


「わからない」と美月は言った。

「考えたことがなかった」

「そうだよね」と陽介は言った。

「でも、俺は、姉さんが疲れてたのはわかってた。なんとなく。うまく言えないけど、姉さんの背中が、たまに疲れてるように見えた」

 陽介が背中を見ていたとは思っていなかった。

 弟は弟で、ちゃんと見ていたのだ、と思った。


「DNAがどうとか」と陽介は言った。

「家柄がどうとか、麗子おばさんが何を言うとか。そういうのは一旦置いておいて」

 美月は陽介を見た。

「俺にとって姉さんは、姉さんだ」と陽介は言った。

 言葉は短かった。

 飾りがなかった。

 でも、その言葉には何も引いていないものがあった。


「血が繋がってないって聞いて、びっくりしたのは本当だよ。正直すごく驚いた。でも」と陽介は続けた。

「家に帰ったとき誰かの話し声が聞こえてて、それが姉さんの声だと安心した、そういう記憶は、変わらない。姉さんがいなかったら俺はもっと気が弱いままだったと思う、そういう事実も、変わらない。それは血液型とか遺伝子とか、そういうのとは、べつのところにある話だから」

 美月は、陽介の顔を見ていた。

 二十二歳だった。

 まだ学生で、少しだけ子どもっぽいところが残っていて、でも今日はそのどちらでもない顔をしていた。

 自分の言葉で、自分の考えたことを、言いに来た顔をしていた。

「ありがとう」と美月は言った。

「お礼じゃないんだけど」と陽介は言った。

 少し困ったように言った。

「俺が言いたかっただけだから」

「それでも」と美月は言った。


 胸の奥で、何かが動いた。

 動いた、というより、ずっと止まっていたものが、少し動いた。

 長い間、止まったままにしていたものが、陽介の言葉に触れて、ほんの少しだけ動いた。

 目の奥が熱くなった。

 美月は気づいていたが、止めようとした。

 こういう場所で泣くのは、自分らしくないと思った。

 泣いても何も変わらないと思った。

 でも涙は、「変えるため」に出てくるわけではない、ということを、今日はなぜかわかった気がした。

 そのまま、こぼれた。

 一粒、二粒。

 止まらなかった。


「あ」と陽介が言った。

「え、泣いてる?」

「泣いてない」と美月は言った。

 声がかすかに震えた。

「泣いてるじゃない」と陽介は言った。

「明らかに」

「泣いてない」と美月はもう一度言った。

 でも今度は自分でもわかった。

 泣いていた。


「……ごめん、俺、何か変なこと言った?」と陽介は言った。

 少し焦った声で言った。

「違う」と美月は言った。

「変なことは、言ってない」

「じゃあなんで」

「わからない」と美月は言った。

「なんでかは、わからない。でも、出てきた」


 陽介はしばらく黙った。

 それから「うん」と言った。

「出てきたなら、しょうがないじゃない」

 美月は、声を出さずに泣いた。

 泣きながら、シュークリームを食べた。

 甘かった。

 食べながら泣くのは少し変だと思った。

 でも止められなかった。

 どちらも止められなかった。

 陽介はその間、何も言わなかった。

 ほうじ茶のペットボトルをそっとテーブルに近づけた。

 それだけだった。


 しばらくして、涙が落ち着いた。

 美月は目元を拭って、少し深く息を吸った。

「恥ずかしい」と美月は言った。

「別に」と陽介は言った。

「見てない方がいい?」

「見てないふりをしてくれると助かる」

「わかった」と陽介は言って、窓の外の方へ少し顔を向けた。

 外は曇っていた。

 冬の終わりのような光が、薄く差していた。


「一個聞いてもいい?」と美月は言った。

「どうぞ」と陽介は、まだ外を向いたまま言った。

「陽介は、怖くなかった?」

「何が」

「私が、神崎の血じゃないって、わかって。家族の形が変わるって、怖くなかった?」

 陽介は少し考えた。

 外を向いたまま考えた。

 それからゆっくりこちらを向いた。


「怖かったよ」と言った。

「正直に言うと」

「だよね」と美月は言った。

「でも」と陽介は続けた。

「俺は最初から姉さん一人しかいないし。入れ替えられないんだよな、そこは」

 入れ替えられない。

 その言葉が、美月の中でしばらく響いた。

 入れ替えられた話の中で育ってきた自分が、「入れ替えられない」と言われた。

 それがどういうことか、すぐには言葉にできなかった。

 でも、そこにある温度だけはわかった。


「私も」と美月は言った。

「陽介しかいない」

 陽介は頷いた。

 それだけだった。

 それで十分だった。


 夕方になって、陽介は帰った。

「また来ていい?」と玄関で陽介は聞いた。

「いつでも来ていい」と美月は言った。

「じゃあ次は連絡してくる」と陽介は言った。

「今日は無理だったけど」

「無理でよかった」と美月は言った。

「連絡してたら、たぶん止めてた」

「やっぱり」と陽介は言って、少し笑った。

 その笑い方がいつもの陽介の笑い方で、美月は少し安心した。

 ドアが閉まった。


 美月は玄関に少しの間立っていた。

 冷えた空気の中に、陽介が来る前の静けさとは違う静けさがあった。

 人が来て、いなくなったあとの静けさ。

 それは孤独の静けさではなかった。

 少なくとも今夜は、そうではなかった。


 リビングに戻ると、テーブルの上に二枚の皿が並んでいた。

 どちらもほぼ空だった。

 ほうじ茶のペットボトルも、半分以上減っていた。

 美月は皿を片付けながら、さっき泣いたことを思った。

 泣いたのはいつぶりだろう、と思った。

 子どもの頃は泣くこともあった。

 でも物心ついてから、人前で泣いた記憶が、ほとんどなかった。

 泣かないようにしてきたのではなく、泣く必要がなかったのか、泣く場所がなかったのか、今となってはわからない。

 でも今日、陽介の前で泣いた。

 変なことだと思った。

 でも変なことでもなかった。


「血が繋がっていなくても、姉さんだ」という意味のことを、陽介は言ってくれた。

 直接そうは言わなかったが、それがあの言葉の意味だった。

 その言葉を受け取れたのは、今日が初めてだった気がした。


 ほかの誰かにも似たようなことを言われたかもしれない。

 真理子も、言葉にはしなかったが、態度でそれを示してきた。

 でも今日の陽介の言葉は、何かが違った。

 説得でもなく、慰めでもなく、ただそう思っているから言いに来た、というただそれだけの言葉だった。

 そういう言葉が、一番深いところへ届く、ということを、今日知った気がした。


 夜になって、美月はソファに座ったまま、しばらく何もしなかった。

 窓の外が暗くなった。

 室内の光が窓ガラスに反射して、うっすらと自分の顔が映った。

 鏡のように映った顔を見た。


 泣いた跡がわずかに残っていた。

 それを見ても、恥ずかしいとは思わなかった。

 今日、私は泣いた。

 久しぶりに、ただ泣いた。


 これまでの二十五年で、「ただ泣く」ということをしてきただろうか。

 理由があって泣く、何かのためを思って泣く、そういう泣き方はあった。

 でも、ただ泣く、言葉にできないものが溢れて、それを止める理由が見つからなくて、そのまま泣く・・そういうことが、今日初めてあった気がした。


 美月は窓の外に目をやった。

 暗い空の向こうに、雲が低く広がっていた。

 明日も、何かが変わるわけではない。

 麗子のこともある。

 神崎家のこともある。

 高橋春香との関係も、始まったばかりで、どこへ向かうかわからない。

 幸子の体のことも、気になっている。

 問いは山ほど残っている。

 でも今夜は、一つだけ確かなことがあった。

 弟が来てくれた。

 それだけで、今夜は眠れる気がした。


 美月は息をついた。

 ゆっくりと。

 深く。

 窓ガラスの中の自分が、同じように息をついた。

 それが今夜の、美月の時間の終わりだった。

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