第16話 余命宣告
診察室に入る前から、春香はすでに何かを知っていた気がした。
病院の廊下の長さが、いつもより長く感じた。
リノリウムの床の白さが、目に痛かった。
白衣の背中がいくつかすれ違って、それぞれの顔が春香には見えなかった。
隣を歩く幸子は、しっかりとした足取りだったが、春香の腕に触れる手が、いつもより軽かった。
扉の前で、二人で少し立ち止まった。
「入ろう」と幸子が言った。
春香はうなずいた。
うなずく以外のことが、できなかった。
無機質な白に囲まれた診察室には、重苦しい沈黙が降りていた。
主治医は五十代の男性で、眼鏡の奥の目が穏やかだった。
穏やかなのに、言葉を選ぶときの間が長かった。
その間の長さが、春香には怖かった。
良い言葉というのは、すぐ出てくるものだと思っていた。
時間のかかる言葉には、重さがある。
「……進行性の膵臓がんです。発見が遅れ、すでに肝臓など他の臓器への転移も見られます」
春香は隣に座る幸子の手を、無意識のうちに強く握りしめていた。
幸子の手は少し冷たく、けれど春香の震えをなだめるように、そっと握り返してくれていた。
「手術での完全な摘出は、極めて困難な状態です。今後の治療は、抗がん剤による進行の抑制と、痛みを和らげる緩和ケアが中心となります」
余命は、長くて半年。
その言葉が耳に入った瞬間、頭の中でその言葉だけが繰り返されて、周りの音が遠くなった。
春香の視界がぐらりと歪んだ。
「嘘……」
かすれた声が口から漏れた。自分でも気づかないうちに、声が出ていた。
隣を見ると、幸子はひどく静かな顔で医師の話を聞いていた。
取り乱すこともなく、ただ一つ頷いてから、「そうですか」と短く答えた。
「先生、残された時間を少しでも穏やかに過ごすための治療をお願いします」
「お母さん……、どうしてそんな冷静に」
「春香。大丈夫よ」
幸子は静かに微笑んだ。
その微笑みは、幼い頃から春香をずっと守り続けてきた、あの温かい笑顔そのものだった。
何が大丈夫なのか、春香にはわからなかった。
半年で、何が大丈夫なのか。
でも、その微笑みを見た瞬間、春香は泣くことができなくなった。
泣いてしまったら、この人が「大丈夫」と言った時間を、壊してしまう気がした。
春香は、唇を噛んで、うなずいた。
うなずきながら、頭の片隅で、砂時計の砂が落ち始める音を聞いた気がした。
帰り際、医師が「何か質問はありますか」と聞いた。
春香は何も言えなかった。
聞きたいことがないわけじゃなかった。
むしろ、聞きたいことが多すぎて、どれから口にすればいいかわからなかった。
半年というのは本当ですか。
治療を頑張れば延びますか。
痛みはありますか。
苦しみますか。
最期は、どういう形で来ますか。
それを全部飲み込んで、「ありがとうございました」とだけ言った。
幸子も「ありがとうございました」と言った。
二人が同時に同じ言葉を言ったことに、廊下に出てから気がついた。
病院の廊下に出ると、春香はこらえきれずに壁に背を預けた。
診察室の扉が閉まる音がした。
その音を合図にしたように、春香の体から力が抜けた。
足元が崩れ落ちていくような恐怖と絶望が、全身に広がった。
自分が入れ替わっていたという事実だけでも、心が壊れそうなのに。
育ててくれた母まで、奪われようとしている。
涙が出た。
こらえようとしたが、出た。
廊下を人が通っていた。通り過ぎながら、チラリと見て、通り過ぎた。
病院の廊下では、泣いている人間がいても、誰も立ち止まらない。
みんなそれぞれ、自分の重さを抱えている場所だから。
「春香」
幸子の手が、春香の背中をゆっくりと撫でた。
その手の温もりが、今は怖かった。
温もりには終わりがある。
終わりのある温もりを感じることが、今の春香には苦しかった。
「泣かないで。人間、いつかは終わりが来るものよ。それが少し早くわかっただけ」
「嫌だ……私、まだお母さんに何も恩返ししてない。本当の娘じゃないってわかって、これからどうすればいいか……」
「馬鹿なことを言わないの」
幸子の声に、わずかに強い響きが混じった。
「あなたが誰から生まれたなんて、そんなこと関係ないわ。私にとっては、あなたが私の娘。それは病気になろうが、明日死のうが、絶対に変わらない事実よ」
春香は顔を上げた。
幸子の顔に、怒りでも悲しみでもなく、ただ真っ直ぐな静けさがあった。
この人は本気で言っている、と春香には分かった。
慰めのために言っているのではなく、本当にそう信じているから言っている。
「お母さん……」
「ほら、顔。拭いて」
幸子がハンカチを差し出した。
春香はそれを受け取って、目を押さえた。
ハンカチに、幸子のいつもの洗剤の匂いがした。
子どもの頃から変わらない、その匂いだった。
その匂いを嗅いだ瞬間、また涙が出た。
今度は声を出して泣いた。
廊下の隅で、二人で少しの間、そうしていた。
病院に入ってから初めて、春香は幸子の体に触れた。
それまでずっと、触れたら何かが崩れる気がして、怖かった。
でも廊下の壁にもたれながら、泣きながら、幸子の肩に頭を置いた。
幸子は何も言わなかった。
ただ、春香の頭に手を置いた。
窓の外に、夕方の光が傾いていた。
ガラスの向こうに、駐車場に並んだ車が小さく光っていた。
あの車の中にも、それぞれ誰かの話があるのだろうと春香は思った。
誰かの診断があり、誰かの涙があり、誰かの沈黙がある。
世界は今日も続いていて、自分はその中の一人だった。
その日の夕方、春香はたまらず美月に連絡を取った。
前回の対面を経て、二人の間には奇妙な「同志」のような感情が芽生え始めていた。
敵でもなく友でもなく、同じ運命を抱えた者同士として、ぎこちなく、でも確かに近づいていた。
カフェで向かい合った美月は、春香の腫れ上がった目を見て、すぐに尋常ではない事態を悟った。
何も聞かずに、まずコーヒーを注文した。
春香が話し始めたのは、カップが運ばれてきてからだった。
「……幸子さんが、余命半年?」
美月の声が微かに震えた。
彼女にとっても、幸子は「自分を産んでくれた本当の母親」だ。
血の繋がりを知ったばかりで、まだ母親として接したこともない人が、もうすぐいなくなろうとしている。
その事実は、美月にとっても小さくない衝撃だった。
しばらく、二人の間に沈黙があった。
カフェの中は静かに騒がしかった。
隣のテーブルで誰かが笑っていた。
窓の外を自転車が通った。
何でもない午後が、普通に続いていた。
その普通さが、春香には今日も少し残酷だった。
「私……どうしたらいいかわからない。お母さんを助けられない」
春香が両手で顔を覆うと、美月はしばらく沈黙した後、ぽつりと言った。
「なら、私たちに残された時間は長くないってことね」
「え……?」
「幸子さんが元気なうちに、どうしても知っておかなくちゃいけない。三十年前、あの雪の夜に誰が、何の目的で私たちを入れ替えたのか。その真実を、幸子さんにちゃんと伝えるべきじゃない?」
美月の言葉に、春香はハッとした。
ただ悲しんでいる暇はない。
母が生きているうちに、全ての決着をつけなければならない。
自分たちが何者であり、どうしてこんな運命を背負わされたのか。
「……そうね。私も知りたい。お母さんのためにも、私たち自身のためにも」
春香の瞳に、再び静かな炎が宿った。
二人の娘の目的が、一つの明確な「動力源」として重なり合った瞬間だった。
美月は少しの間、テーブルの一点を見ていた。
「私には、幸子さんと過ごせた時間がない」と美月は言った。
「あなたが二十五年間もらったものを、私は一度ももらっていない。その事実は変わらない」
春香は何も言えなかった。
「だから余命とか、残り時間とか、私には少し違う意味がある。あなたが失うものを、私はまだ一度も手にしていない。でも……」
美月がそこで少し止まった。
「それでも、幸子さんに会いたいと思っている。何かを伝えたいと思っている。それだけは本当なんです」
その言葉が、春香には意外だった。
美月がそういうことを素直に言う人だとは、思っていなかった。
理知的で、感情を制御していて、どこか体温の低い人だと見ていた。
でも今夜のこの人は、そういう人ではなかった。
「……一緒に行きますか」と春香は言った。
「お母さんのところ」
美月は少し驚いたように目を上げた。
「いいんですか」
「私が誘ってるんだから、いいんです」
美月は一瞬、何か言いかけて、やめた。
そして静かにうなずいた。
その小さなうなずきに、春香はなぜか少し安心した。
夜、春香が実家に立ち寄ると、幸子は自室で古い引き出しを整理していた。
「お母さん、何してるの?」
「あ、春香。少し身の回りの整理をしておこうと思ってね」
春香はその言葉をうまく飲み込めなかった。
「身の回りの整理」という言葉が持つ意味を、今日の自分は知っている。
今日の前だったら、ただの言葉だった。
幸子が膝の上に置いていたのは、年季の入った古びた冊子だった。
それは、春香の『母子手帳』だった。
表紙は薄く色あせていた。角が少しめくれていた。
それだけの年月が経っているのに、丁寧に保管されていたことが一目でわかった。
「見てもいい?」
「もちろん」
春香は受け取って、ゆっくりとめくった。
ページには、幸子の丁寧な字でびっしりと記録が残されていた。
インクが少し滲んでいるページがあった。
書いたとき、急いでいたのか、あるいは泣きながら書いたのかわからなかったが、そこだけ字が少し乱れていた。
『初めて胎動を感じた日。ポコッという小さな動きに、命の重みを感じた』
『今日は初めて一歩歩いた。転んでも泣かずに笑っていた』
『高熱が出て、一晩中そばにいた。熱が下がった朝、安心して泣いた』
春香は、ページをめくるたびに、自分がそこにいることを確かめた。
自分の知らない自分が、ここにいた。
転んで笑っていた自分が。
熱を出して、その夜に隣にいてくれた幸子がいた。
春香は覚えていない。
でも幸子は覚えていて、ここに書いていた。
覚えていない自分が、ここで生きていた。
それが、今の春香には一番、胸に刺さった。
春香は一ページを長く見ていた。
「初めて一人でお箸を持った」という記録のページだった。
特別なことではない。
どこの子どもも通る、ありふれた一日の記録だった。
でも幸子はそれを書き残していた。
書き残すほど嬉しかったのだと、わかった。
「……懐かしいわね」と幸子は言った。
「あなたが生まれたとき、この手帳をもらってどれだけ嬉しかったか」
春香は顔を上げられなかった。
「DNA鑑定だとか、血の繋がりだとか、世の中には色々な証明があるんでしょうけどね」
幸子は春香を見上げ、穏やかに言った。
「私にとっては、この手帳に残された文字と、あなたと一緒に過ごした時間こそが、一番の証明なの。私があなたを愛して育てた記録。誰がなんと言おうと、これだけは真実だから」
春香の目から、また涙がこぼれた。
今度は止めようとしなかった。
止める必要がない涙だと思ったから。
幸子はそれを見て、何も言わなかった。
また春香の背中に手を置いた。
その手のひらが温かかった。
半年後には、この温かさがなくなる。
その事実は変わらない。
でも今夜は、確かにそこにあった。
春香はしばらく、母子手帳を膝の上に置いたまま、幸子の隣に座っていた。
時計の針の音だけが、静かに刻んでいた。
二人ともしばらく何も言わなかった。
言わなくていい時間というのが、あった。
その言葉は、春香の心に深く沁み込んでいった。
血縁という呪縛を超えて、最も純粋な親子の絆がそこにあった。
だからこそ、春香は決意を新たにした。
この優しい母に隠された真実を、絶対に明らかにするのだと。
残された時間が、もう砂時計のように落ち始めているのだから。




