第17話 隠蔽のカルテ
カフェの窓際の席に、三人分のコーヒーが並んだ。
注文してから、誰も口をつけていなかった。
テーブルの上には、蒼太が持ってきたファイルが一冊、広げられていた。
コピー用紙が数十枚、几帳面にクリップで留められている。
古い記録を複写したものらしく、印刷の端が少しよれていた。
「ここから始めましょう」
口を開いたのは美月だった。
春香は美月を見た。
きょうの美月はいつもと少し違った。
張りつめた感じは同じだが、その下にあるものが、以前とは異なる気がした。
焦りではなく、何かを決めた人間の静けさだった。
「三十年前の記録が、どこかにあるはずです。病院側が隠蔽したとしても、痕跡は必ず残る。公的な記録か、当時の関係者が持っているか」
「それを追っています」と蒼太が言った。
春香は二人を交互に見た。
蒼太が手元のファイルをめくる。
美月が姿勢を正す。
その二人が同じテーブルに座っているのが、まだ少し不思議だった。
取材者と取材対象という関係が、いつの間にか別のものになっていた。
「春香さん」
蒼太が春香を見た。
「今日、僕が話すことを聞いてもらえますか。その上で、どう動くかを三人で決めたい」
「わかった」と春香は言った。
コーヒーに手を伸ばして、一口飲んだ。
今日は飲めた。
苦さが、頭を少し冷やしてくれた気がした。
「一九九五年十二月、深夜」
蒼太がファイルを手元に引き寄せながら言った。
「高橋春香さんと神崎美月さん、二人の赤ちゃんが生まれた夜です。記録によれば、その夜は大雪で、産婦人科は深夜にもかかわらず複数の出産が重なっていた。通常より少ない人員で、通常より多い患者を対応していた」
「知ってます」と美月が言った。
「知っているのはそこまでです」と蒼太は静かに続けた。
「問題はその先で——当時の病院の記録が、ある一点において不自然なんです」
春香は聞いていた。
「通常、新生児の移動には担当看護師の名前と時刻が記録されます。ところが、その夜の深夜二時から三時の間だけ、記録が非常に簡略化されている。複数の赤ちゃんが動いた可能性があるのに、記録の密度が極端に薄い」
「……意図的に」と春香はつぶやいた。
「意図的か、混乱による抜け落ちか、それはまだわかりません」と蒼太は言った。
「ただ、その時間帯に担当していた看護師は、三人います。そのうち一人はすでに亡くなっています。一人は連絡がつかない状態。そして一人は——」
蒼太がいったん言葉を切った。
「野口節子、という名前の元看護師が、現在も存命の可能性があります」
その名前を、春香は初めて聞いた。
美月も同じだったらしく、少しだけ目を細めた。
「どこに」
「まだ確認中です。記録の住所からすると、かなり遠い地方に移住している可能性がある。退職は取り違えから数年後。理由は記録では『一身上の都合』とだけある」
「数年後、ということは」と美月が言った。
「取り違えの後に辞めた」
「そうなります」
テーブルに沈黙が落ちた。
春香は手の中のカップを見た。
コーヒーはもうほとんど残っていなかった。
飲んでいた気がしなかったのに、減っていた。
気がつかないうちに、何かが進んでいた。
それが今の自分たちの状況に、どこか似ていた。
「もう一人、確認しなければならない人物がいます」
蒼太がファイルを一枚めくった。
「当時の産婦人科の院長。佐伯という人物です」
「佐伯」と美月が繰り返した。
「現在は引退しています。高齢ですが、存命です。医師としての記録は残っている。そして——」
蒼太がそこで少し間を置いた。
何かを選んでいるような間だった。
「この人物は、取り違え発覚後も長く院長を続けています。もし病院ぐるみで隠蔽が行われていたとすれば、最も責任の重い立場にいた人間です」
「会えますか」と春香は言った。
自分でも少し驚いた。
会いに行く、という選択肢が、自然な言葉として出てきた。
「現住所は把握しています」と蒼太は言った。
「会えるかどうかは、相手次第ですが」
「会いましょう」
美月が静かに言った。
「どう思われてもいい。扉を閉められても、何度でも行く。幸子さんに残された時間は少ない。私たちが動けるのは今だけです」
春香は美月を見た。
この人はいつも、そうやって物事を切り取る。
感情を押し込んで、論理で進もうとする。
それが強さなのかと思っていたが、今日はそう見えなかった。
強さではなく、必死さだ。
美月もまた、時間に追われている。
血の繋がった母親の余命を知って、触れることさえできていないまま、もうすぐいなくなろうとしている。
その焦りを、理性という形で包んでいる。
「美月さん」と春香は言った。
「なに」
「怖くないですか」
美月は一瞬、答えなかった。
「怖いです」と、少し遅れて言った。
「何が出てくるかわからない。真実を知ったら、もっと苦しくなるかもしれない。幸子さんと向き合える時間が、その分削られるかもしれない」
「でも」
「でも、知らないまま終わることの方が、怖い」
その言葉が、テーブルの上に静かに置かれた。
春香はうなずいた。
そうだ、と思った。
知らないまま終わることの方が、怖い。
それは春香も同じだった。
ずっと前から、そうだった。
幸子の体に何かがある、と薄々感じながら黙っていた。
血液型の矛盾を知りながら、触れないでいた。
自分も、ずっと「知らないふり」をしてきた人間なのだ。
だから今、動かなければならない。
自分のためではなく、幸子のためだけでもなく、自分が「黙っていた」という事実を清算するために。
「まず院長の佐伯から当たってみます」と蒼太が言った。
「事前にアポを取れるか試みます。ただ、向こうが拒否する可能性も高い。その場合は——」
「私が行きます」と春香は言った。
蒼太が顔を上げた。
「取材者として僕が行く方が、対話のハードルは下がると思いますが」
「わかってます。でも、私も行く」
春香は自分の言葉が出てから、それが自分のものだと確かめるように繰り返した。
「私も、行く」
蒼太はしばらく春香を見てから、静かにうなずいた。
「……わかりました。では、二人で」
「三人で」と美月が言った。
蒼太と春香が美月を見た。
「三人で行きましょう。私も当事者です。佐伯という人物に、私の顔を見せたい。言葉で説明するより、顔を見れば、どれだけ長い年月が経ったかわかる」
美月の声は穏やかだったが、その奥に何か硬いものがあった。
春香はその硬さの正体を、うまく言葉にできなかった。
でも、共鳴するものが自分の中にもあった。
三人でいく。
それで、いい。
カフェを出た後、美月は先に車で去った。
春香と蒼太は少しの間、外に並んで立った。
夕暮れがはじまっていた。
空の端が橙色に染まって、街の輪郭がぼんやりと柔らかくなっていた。
「春香さん」
蒼太が言った。
「今日、最初から少し様子が違いました」
「そうですか」
「はい。どこかで何か、切り替わった感じがした」
春香は空を見た。
「昨日、お母さんと話しました。母子手帳を見せてもらいました」
「……ああ」
「私の体重が増えた日のこと、初めて笑った日のこと、全部書いてありました。お母さんの字で。丁寧に」
春香はそこで一瞬、言葉を止めた。
「それを見たら、もう黙ってられないと思って。知りたいというより——知る義務がある、みたいな気持ちになりました」
蒼太はすぐには答えなかった。
橙色の光が、ゆっくりと濃くなっていった。
「……義務か」
蒼太がぽつりと繰り返した。
「僕も、似たような感覚で記者をやってきたかもしれない」
「何かを調べるたびに?」
「ずっとそうというわけじゃないですが」と蒼太は言った。
「でも、この事件に関しては最初から。なぜかわからないうちは、ただ職業的な本能だと思っていたんですが」
蒼太が少し口を止めて、また言った。
「今はそうじゃないと思ってます」
春香は横を向いた。
蒼太は前を向いたままだった。
街灯が一本、ぽつりと灯った。
「なぜ最初からそんなに熱かったんですか」と春香は聞いた。
「……父が、いないんです」と蒼太は言った。
「子どものころに、急にいなくなりました。理由は教えてもらえなかった。どこに行ったかも、誰も教えてくれなかった。家族というものの輪郭が、その日から急にぼやけた」
春香は黙って聞いていた。
「だから家族を失った話を聞くと、どうしても他人事にできない。今もって、自分でうまく説明できないんですが」
「説明できなくていいと思います」と春香は言った。
蒼太が初めて春香の方を見た。
「……なんで」
「説明できることだけが動機じゃないから」
蒼太は少しの間、春香を見てから、また前を向いた。
「そうですね」と言った。
「そうかもしれない」
二人の間に、しばらく静かな時間が続いた。
街の音だけがあった。
車の音、どこかで子どもの声、自転車の走る音。
その中で春香は、少し前と今とで自分の中の何かが変わったことを確かめるように、ゆっくり息をした。
黙っていた自分は、終わりにする。
それが怖くないとは言えない。
でも、動かないでいる方が、もっと怖かった。
家に帰ってから、春香は机に向かった。
スマホを手に持って、メモアプリを開いた。
今日、蒼太から聞いた名前を書き留めた。
佐伯。
野口節子。
それだけ書いて、スマホを伏せた。
窓の外は暗くなっていた。
遠くで車のヘッドライトが光って、壁に影を作って、消えた。
明日、蒼太が佐伯への接触を試みる。
うまくいけば、今週中に会えるかもしれない。
うまくいかなければ、別の方法を考える。
どちらにしても、止まらない。
春香は机の上に置かれた一冊のノートを見た。
ここ数週間、何か思ったことがあると書いていたノートだった。
ほとんど感情の整理のようなものだった。
言葉にならないことを、書くことで少しだけ言葉にしていた。
ノートを開いて、ペンを持った。
書いた。
・・お母さんの字を見た。
私の体重が増えた日が書いてあった。
初めて立った日が書いてあった。
私は、その記録の中にいた。
だから、私は動かなければならない。
怖い。
でも、黙っていたのは終わりにする。
それだけ書いて、ペンを置いた。
泣かなかった。
泣かなかったが、目の奥がほんの少しだけ熱くなって、それを確認してから、春香は静かに目を閉じた。
明日、また動く。
それだけが、今夜の春香の答えだった。
その夜、同じ時間に、美月も机の前に座っていた。
部屋は静かだった。
神崎家の屋敷の一角にある美月の部屋は、いつも少し冷えていた。
暖房を入れても、石造りのような冷たさが少し残る。
子どものころからずっとそうだった。
美月は手帳を開いていた。
ページには何も書いていなかった。
ペンを持って、何かを書こうとして、何も出てこなかった。
幸子の顔を思い出した。
一度しか会っていない。
カフェで、向かい合って、短い時間を過ごした。
その時間の中に、幸子の笑顔があった。
話し方があった。
声があった。
それだけしかない。
それなのに、余命という言葉が、こんなに重い。
なぜ重いのか、美月は自分で少し驚いていた。
血が繋がっているからか。
それとも、あの笑顔がそうさせるのか。
どちらかわからなかった。
どちらかを特定することに、意味があるかどうかもわからなかった。
美月はペンを置いた。
窓の外に目をやった。
暗い空だった。
雲が低くて、星は見えなかった。
ただ、どこかの街灯が雲の底をぼんやりと照らしていた。
佐伯という人物が、何を話すかはわからない。
扉を閉めるかもしれない。
怒鳴るかもしれない。何も言わないかもしれない。
でも、行く。
美月は手帳を閉じた。
三十年間、誰かが黙っていた。
黙ることで、何かを守ろうとしていた。
その黙った時間の中に、自分たちの人生が置かれていた。
もう誰も、黙らせない。
その決意だけが、今夜の美月の中に、静かに、確かに、ともっていた。




