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第18話 白い巨塔の沈黙

 佐伯の家は、思っていたより静かな場所にあった。


 郊外の住宅街の、少し奥まった区画だった。

 塀がやや高く、植え込みが手入れされていて、表札には「佐伯」とだけ彫られていた。

 蒼太が事前に調べた住所が合っていれば、かつて市内最大の産婦人科を束ねた元院長が、今はここに暮らしている。


 三人は車を少し離れた場所に停めた。

 春香は外に出て、空を見た。

 曇りで、光が薄かった。

 朝から雲が低く、どこかに圧迫されているような空だった。


「アポなしです」と蒼太が言った。

「断られる可能性は高い。でも向こうが扉を開けた瞬間に、春香さんと美月さんの顔を見せられれば——それだけで何かが変わるかもしれない」

「変わらなくてもいい」と美月が言った。

「変わらなかったことを確かめるためにも、ここへ来る必要があった」

 春香は美月を見た。

 美月は塀の向こうの屋根をまっすぐに見ていた。

 三人で、並んで歩いた。


 インターホンを押したのは蒼太だった。

 少しの沈黙があって、スピーカーから「はい」という声が聞こえた。

 年配の女性の声だった。

「突然の訪問をお許しください。地方紙の記者、藤堂と申します。佐伯先生に、少しだけお時間をいただけないかと思って参りました」

「取材でしょうか」と声は言った。

「主人は引退しております。取材はお断りしています」

「事件の取材ではございません。一九九五年十二月のことで、先生にどうしてもお伝えしたいことがあって参りました。記事にする意図はありません。私と——」

 蒼太が少し間を置いた。

「高橋春香さん、神崎美月さん、お二人がご一緒しています」


 スピーカーの向こうが、静かになった。

 五秒か、十秒か。

 春香には長く感じた。

 やがて、「少々お待ちください」という声がして、また静かになった。

 春香は蒼太の横顔を見た。

 蒼太は表情を変えなかった。

 美月は塀の前でまっすぐに立っていた。

 重い音がして、門が内側から開いた。


 通されたのは、玄関脇の応接間だった。

 古い木製の家具が揃っていた。

 長年使われてきたことが一目でわかる、飴色の棚と椅子。

 壁に額が几つか掛かっていて、医療関係の表彰状と、富士山の写真が混じっていた。

 医師の書斎にふさわしいような部屋だった。


 佐伯は、数分後に現れた。

 七十代半ばだろうか。

 白髪で、痩身で、背筋がわずかに曲がっていた。

 杖はついていなかったが、歩き方が慎重だった。

 春香は、この人が三十年前に院長だったということを頭の中で計算した。

 あの雪の夜、この人はまだ四十代だったはずだ。


「遠いところを」と佐伯は言った。

 感情の読めない声だった。

 三人が向かいに座ると、佐伯も椅子に腰を下ろした。


 佐伯は一度、春香を見た。

 それから美月を見た。

 二人を、交互に、静かに見た。

 その視線には何かがあった。

 何かが、確かにあった。

 それが何なのかを、春香はすぐには判断できなかった。


「一九九五年のことですね」と佐伯は言った。

 先に口を開いたのが佐伯だったことが、春香には少し意外だった。

「はい」と蒼太が答えた。

「十二月の深夜、この方たちのどちらかが関わる形で、新生児の取り違えが起きたとみられています。当時の記録を調べる中で、先生のお名前が出てきました」

「記録を」と佐伯は繰り返した。

「はい」

 佐伯はしばらく何も言わなかった。

 膝の上で、両手を組んでいた。

 関節が少し大きく、長年使われてきた手だった。


「私は、お話しできることは何もありません」

 その言葉は穏やかだったが、揺るぎなかった。

「病院の記録は、適切に管理されています。当時の対応も、できる限りのことをした。それ以上のことは、お話しする立場にありません」

「誰かを守るために、黙っているのですか」と蒼太は言った。

「違います」と佐伯は言った。

「病院を守るために、言えないことがある。それだけです」

「病院は、もうありません」と美月が言った。

 佐伯が美月を見た。

「三年前に閉院しています。先生がお守りになりたかったものは、もうどこにもない」

 美月の声は静かだったが、その中に刃のようなものがあった。

 佐伯は、美月から目を逸らした。

 その動作が、春香には何かを語っているように見えた。

 逃げたのではない。

 でも、向き合うことができなかった。


「先生」と春香は言った。

 それまで黙っていた春香が口を開いたことで、佐伯がゆっくりと春香の方を向いた。

「私は、高橋春香といいます。高橋和彦と高橋幸子の娘として、二十五年間育ちました」

 春香は静かに続けた。

「先月、DNA鑑定を受けました。私と母に、血のつながりはありませんでした」

 佐伯は何も言わなかった。

「今日ここへ来たのは、先生を責めるためじゃありません」

 春香はそこで少し間を置いた。


「私の育ての母は、今、末期の膵臓がんです。余命は半年と言われています」

 佐伯の手が、膝の上でわずかに動いた。

「母が生きているうちに、三十年前に何があったのか、知りたいんです。責任を問いたいとか、告発したいとか、そういうことじゃない。ただ——知りたいんです。私が誰で、どういう夜に生まれたのか」


 部屋の中が静かだった。

 時計の音がした。

 柱時計だろうか、規則正しく、低く、刻んでいた。


 佐伯は春香を見ていた。

 その目の奥に、何かがあった。

 罪悪感だろうか。

 後悔だろうか。

 そのどちらでもある何かが、確かに見えた。

 でもそれは、言葉になる前に、また奥へ沈んでいった。


「……申し訳ありませんが」と佐伯は言った。

「私にお話しできることは、何もありません」

 繰り返しだった。

 最初と、同じ言葉だった。


 蒼太が、少しだけ前に身を乗り出した。

「一つだけ聞かせてください。当時の新生児の識別は、何で行われていましたか」

 佐伯が少し眉を動かした。

「それは、一般的な産婦人科の手順を聞いているということですか」

「はい。当時の一般的な手順で構いません」

「……足首の名札です」と佐伯は言った。


 蒼太がわずかに身を固くするのが、春香には見えた。

「生まれた赤ちゃんの足首に、名前と生まれた日時を書いた名札を付けます。それが、識別の基本的な方法でした」

「足首の、名札」と蒼太は繰り返した。

「はい。当時はそれが標準でした。今とは違って、電子的な管理もない時代でしたから」

 蒼太がファイルに何かを書いた。

 春香は横から見ていた。


「もし・・」と蒼太は言った。

「その名札に、何らかの混乱があったとしたら。例えば、名前が正確に伝わっていなかったとか、付け間違いがあったとか、そういった可能性は——」

「それ以上は」と佐伯が言った。

 はっきりと、遮った。

「それ以上は、お話しできません」


 三人が立ち上がると、佐伯も立ち上がった。

 見送りのために立ったのか、それとも会話を終わらせるために立ったのか、春香にはわからなかった。

 応接間を出て、廊下を歩いた。

 玄関に向かう途中、右手の壁に棚があって、そこにいくつかの写真が置いてあった。

 家族写真らしきものと、病院の前で撮られたらしき集合写真。

 白衣を着た人々が並んでいた。


 春香が歩きながらそれを見た、その瞬間。

 棚の端に置かれていた小さなものが、目に入った。

 プラスチックの、名札だった。

 白地に青い文字。

「産婦人科 高橋記念病院」という文字の下に、スタッフの名前が印刷されているタイプのものだった。

 古いデザインで、今はもう使われていない様式だということが、一目でわかった。


 春香は足を止めた。

 佐伯が春香の視線に気づいて、棚の方を見た。

「……古い名札です」と佐伯は言った。

「もう使わないものを、なぜか捨てられなくてね」

 春香は何も言わなかった。

 ただ、その名札を見ていた。

 白いプラスチックに、青い文字。


 あの夜、あの病院で働いていた誰かが、こういう名札を首から下げていた。

 新しく生まれた命の足首に名前を書いた人間が、こういう名札をつけていた。

 そしてどこかで、何かが間違った。

 名札は、棚の上でただそこにあった。

 春香はそれを手に取るわけにはいかなかった。

 でも、目に焼き付けた。

 形を。

 色を。

 文字を。


「失礼しました」と春香は言って、また歩き始めた。

 玄関で靴を履いて、門を出た。

 三人が外に出ると、佐伯は玄関の前で立っていた。

 見送りのために出てきた。

 それだけのことに、春香はなぜか少しだけ何かを感じた。


 蒼太が「ありがとうございました」と言って頭を下げた。

 美月も黙って頭を下げた。

 春香も下げた。

 佐伯は、それを黙って受けた。

 最後に、佐伯がまた春香を見た。

 それから美月を見た。

 何かを言いかけたように、口が微かに動いた。

 でも、言葉にはならなかった。

 門が、静かに閉じた。


 車に戻ると、三人はしばらく黙っていた。

 春香は助手席に座ったまま、窓の外の塀を見ていた。

「名札」と蒼太が言った。

「新生児の識別に、足首の名札が使われていた」

「わかってた可能性は高かったが、本人から聞けた」と美月が言った。

「証言になる」

「ただ、それだけじゃ足りない」と蒼太は言った。

「名札が使われていたとしても、それが取り違えの直接原因かどうかは別の話です。名札に何が起きたのか——付け間違いなのか、外れたのか、書き間違えなのか。それを知っている人間は、まだ別にいる」

「野口節子」と春香は言った。

 蒼太がうなずいた。

「はい。佐伯は上の立場です。でも、名札を実際に扱ったのは、現場の人間。当時深夜シフトにいた看護師の中に、野口節子がいた」

「あの夜のことを知っている人間は、野口さんしか残っていない」と美月が言った。


 春香は窓の外を見ていた。

 佐伯の家の塀が、夕暮れの中でだんだんと灰色になっていた。

 佐伯は何も話してくれなかった。

 でも、一つだけ話してくれた。

 足首の名札、という言葉だけが、手の中に残った。


「先生の目」と春香は言った。

 蒼太と美月が春香を見た。

「しゃべらなかったけど、目の奥に何かがあった。後悔なのか罪悪感なのか、わからなかったけど。完全に知らないふりをしている人の目じゃなかった」

 蒼太がゆっくりとうなずいた。

「そう見えました、私にも」と美月が言った。

「だから余計に、腹が立ちました」

「腹が立ちましたか」と蒼太が聞いた。

「立ちます」と美月はきっぱりと言った。

「知っているのに言わない人間への怒りは、知らない人間への怒りよりずっと深い。でも——」

 美月が少し止まった。


「その人が、三十年間それを抱えてきたのだとしたら。それはどういう重さだったのか、と思う自分もいる。それが腹立たしい」

「何が腹立たしいんですか」と春香は聞いた。

「その人のことを、少し理解してしまう自分が、です」

 春香は美月の横顔を見た。

 その言葉の正直さに、春香は少し驚いた。

 美月はいつも、理知的で制御が利いている。

 でも、怒りと理解が同時に存在することを、こうやって正確に言葉にできる人でもある。

 それが、今日の美月だった。


 エンジンをかけながら、蒼太が言った。

「野口節子の現住所、もう少し絞り込めると思います。来週には、動けるかもしれない」

「わかりました」と春香は言った。

 車が動き出した。

 春香は窓の外を見ながら、棚の上の名札を思い出していた。

 白いプラスチック。

 青い文字。

「高橋記念病院」という文字。


 あの夜、誰かがその名札をつけていた。

 名前の書かれた小さなプレートを、新生児の細い足首に結んだ人間が、あの夜、あそこにいた。

 その人間は今、どこかに生きている。

 野口節子、という名前の人間が。

 春香は目を閉じた。


 車が走る振動が、体の底に伝わってきた。

 前へ、また前へ、進んでいく感覚だった。

 止まっていた時間が、今は動いていた。

 それがまだ怖くはあったが、止まりたいとは思わなかった。


 名札は、あそこにあった。

 三十年間の沈黙の端っこに、あの白いプラスチックが、静かに置いてあった。

 それだけが、今夜の春香の中に、確かに残っていた。

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