第19話 もう一人の加害者
野口節子の名前が、ようやく一つの輪郭を持ち始めたのは、佐伯を訪ねてから五日後のことだった。
蒼太から連絡が来たのは、平日の昼過ぎだった。
春香は職場の休憩室でスマホを開いた。
「野口節子の現住所、ほぼ確定しました。今夜、話せますか」
その一文を読んで、春香は画面を持つ手が少し強ばるのを感じた。
今夜。
また一歩、近づく。
春香はスマホをポケットに入れた。
休憩室の窓の外に、昼の青空があった。
いつもと変わらない空だった。
世界はまた、何でもない顔をして続いていた。
夜、三人がいつものカフェに集まった。
窓際のいつもの席。
注文はいつもと同じだったが、今夜は全員が少し早くカップに手を伸ばした。
緊張をほぐすためだったか、それとも間を持たせるためだったか、三人ともそれを口には出さなかった。
蒼太がテーブルにファイルを広げた。
「退職後の住所移転の記録を追いました。野口節子という名前での転居届が、最初は市内に、それから数年後に県外へ、さらに十年ほど前に、日本海側の小さな町へ移っています。今もその住所に暮らしている可能性が高い」
「遠いですね」と春香は言った。
「車で四時間ほどの距離です」と蒼太は言った。
「ただ——まず電話で接触を試みた方がいいかもしれない。アポなしで訪ねて、佐伯のように扉を閉められたら、それ以上の手が打ちにくくなる」
「電話は、誰が」と美月が聞いた。
「私が、と思っていますが」と蒼太は言った。
「記者として連絡するのが最も自然です。ただ——」
蒼太がファイルをめくる手を止めた。
少し迷っているような間があった。
「春香さんが電話した方がいいかもしれない、という気もしています」
春香は蒼太を見た。
「なぜ」
「向こうは、記者の電話だとわかった瞬間に切るかもしれない。でも、高橋春香という名前を聞けば——それだけで、三十年前の夜が蘇る人間だと思う。名前に、力がある」
テーブルに静かな時間が落ちた。
美月が先に春香を見た。
何も言わなかった。
ただ、見た。
その目には、「あなたが決めていい」という意思と、「あなたにしかできない」という確信が、両方あった。
「春香さんが、ご自身で判断してください」と蒼太は言った。
「強制するつもりはありません」
春香は少しの間、考えた。
電話をかける。
声だけで、見知らぬ人間に繋がる。
その人間は、三十年前にあの夜に立っていた人間かもしれない。
自分と美月の運命を、あの夜に変えた人間かもしれない。
まだ何もわかっていない。
でも、その可能性があるというだけで、電話口の「もしもし」を口にするのが怖かった。
怖いかどうかと問われれば、怖かった。
でも、蒼太の言葉が正しいとも思った。
名前に、力がある。
高橋春香という名前が、電話の向こうで何かを動かすかもしれない。
それが今、自分にできる唯一のことかもしれない。
「私がかけます」と春香は言った。
美月がうなずいた。
その目に、何かが宿っていた。
電話をかけたのは、翌日の夕方だった。
仕事が終わって、アパートに帰ってから、春香は一人でかけることにした。
蒼太が隣にいた方が安心かもしれないとも思ったが、それよりも、一人の方がいいと思った。
理由はうまく説明できなかった。
ただ、この電話は、自分だけの場所でかけなければならない気がした。
ソファに座って、スマホを持った。
蒼太から送られてきた番号を、画面に表示させた。
固定電話の番号だった。
市外局番が、自分の知らない地域のものだった。
日本海側の小さな町の番号が、画面の中にあった。
春香はしばらくその番号を見ていた。
この番号を押せば、繋がる。
繋がった先に、野口節子がいる。
その人間は今、どこにいるのだろう。
台所にいるのか、縁側にいるのか。
今日も普通の一日を過ごして、今夜も普通の夜を過ごそうとしているのか。
それとも、どこかでずっと、電話が来るのを待っているのか。
春香は深呼吸をした。
一度、二度。
コールボタンを押した。
呼出し音が、耳の中で鳴った。
一回。
二回。
三回。
その三回の間、春香は息を止めていた。
四回目が鳴り始めたとき、諦めそうになった。
出ない。
出なければ、今日のところは引ける。
そう思った瞬間——
四回目が鳴り終わる前に、繋がった。
「……はい」
声が、聞こえた。
女性の声だった。
年配の、穏やかな声だった。
それだけのことが、春香の胸の奥で何かを動かした。
動かした、という言葉が正確かどうかわからなかった。
なぜかはわからなかった。
その「はい」という一言の中に、何かがあった。
音として聞いたのではなく、もっと別の場所で受け取ったような感覚だった。
喉でも耳でもなく、もっと奥の、言葉にできない場所で。
この人は、知っている。
理屈ではなかった。
証拠もなかった。
ただ、声の質の中に、何か重いものが溶けているのを感じた。
三十年間の何かが、その「はい」という一言の中に、ひっそりと潜んでいた。
潜んでいて、もう逃げ場がないところまで来ている、そういう重さだった。
「……あの」と春香は言った。
「突然のお電話で、失礼します」
向こうが何も言わずに待っていた。
その沈黙の待ち方が、また何かを伝えていた。
すぐに切らなかった。「どちら様ですか」とも聞かなかった。
ただ待っていた。
その「待つ」という行為の中に、何かが滲んでいた。
「高橋春香と申します。高橋和彦と高橋幸子の娘です。一九九五年十二月に、高橋記念病院で生まれました」
向こうの沈黙が、少し変わった。
音ではなく、質が変わった。
さっきまでの静かな待ちが、別のものに変わった。
何かを抱えた人間が息を呑む、あの静けさに。
「……野口節子さん、でいらっしゃいますか」
また、間があった。
今度の間は、長かった。
「……はい」
その「はい」は、最初の「はい」とは違った。
最初のそれは、穏やかな日常の音だった。
電話口に出た人間が、誰かに向けて反射的に返す、何でもない「はい」だった。
でも、今度のそれは違った。
三十年間、誰かから聞かれることを恐れながら、それでもどこかで待っていた人間が、ようやく返した言葉のような「はい」だった。
逃げ場を失った「はい」でも、諦めた「はい」でもなく、むしろ——解放されるような「はい」に近かった。
春香の目に、涙が滲んだ。
なぜ泣けてくるのかわからなかった。
まだ何も聞いていない。
何も話していない。
ただ、声を聞いただけだった。
でも、声の中に、三十年分の重さがあった。
その重さを受け取った瞬間に、何かが溢れた。
「……お電話を、いただけるとは思っていませんでした」と野口は言った。
声は静かだった。
震えてはいなかった。
でも、その静けさの下に何かが走っているのが、春香にはわかった。
表面が穏やかなのではなく、穏やかさを保つために、奥で何かが懸命に踏ん張っている、そういう声だった。
「急に連絡してしまって、申し訳ありません」と春香は言った。
「一度、お会いしたいんです。先生の都合のいい日時に、こちらから伺います」
「……あなたが、春香さん」と野口は言った。
「はい」
「あの夜に生まれた」
「はい」
また、しばらくの沈黙があった。
春香はその沈黙を、今度は急かさなかった。
急かしてはいけない、と思った。
この沈黙は、三十年間誰にも言えなかった人間の沈黙だ。
ここで急かしたら、また扉が閉じる。
「……会えます」と野口は言った。
「来週の、水曜日か木曜日なら、家にいます」
「ありがとうございます」と春香は言った。
「……私から、お礼を言わなければならないのに」
野口の声が、初めてわずかに揺れた。
「ずっと、待っていました。誰かが来てくれるのを」
春香はそれを聞いた。
待っていた、という言葉が、胸の中に落ちた。
加害者が、被害者からの訪問を待っていた。
その事実が、春香の中で複雑に響いた。
怒りになるかと思ったが、ならなかった。
代わりに、ただ深く、何かが沈んでいった。
怒りより重い何かが、静かに底へ沈んでいく感覚だった。
「では、木曜日に伺います」と春香は言った。
「よろしくお願いします」
「……はい。お待ちしています」
電話が切れた。
春香はスマホをソファの上に置いて、少しの間、動けなかった。
部屋の音がすごく静かだった。
冷蔵庫のかすかな振動音。
外を走る車の音。
いつもあるはずの音が、今夜は妙に遠かった。
声だけで、わかった。
春香はその感覚を、しばらく言葉にしようとした。
でも、なかなかうまくいかなかった。
あの「はい」の中に、何があったのか。
穏やかさの下の重さ。
待ち続けた時間の質感。
三十年間、一人で何かを抱えてきた人間の声というのは、こういう声なのかもしれない。
それを、理屈ではなく、音として受け取った瞬間に、「この人は知っている」という確信が来た。
証拠じゃない。
証言でもない。
ただ、声だった。
春香は、ふとあることを思い出した。
ずっと前、幸子が入院することを電話で知らせてくれた夜のことを。
あの夜も、春香は声だけで何かを受け取った。
電話の向こうの幸子の声に、理由もわからないのに涙が溢れた。
何も悪いことを言われたわけじゃなかった。
「少し検査入院することになった」という、それだけの言葉だった。
でも、声の中に何かがあって、それが体の奥まで届いた。
届いた瞬間に、理由もなく泣いた。
声というのは、言葉より先に、何かを伝える。
幸子のときも、そうだった。
今夜の野口のときも、そうだった。
言葉の意味より先に、声の質が届く。
そこに宿っているものが、言葉になる前に体のどこかへ入ってくる。
その入り口が、自分にはどうやらあるらしい。
それが何なのかは、まだわからなかった。
でも、確かにあった。
春香は窓の外を見た。
夜の空が暗くなっていた。
街の光が、窓ガラスにぼんやりと映っていた。
自分の顔が、薄く映っていた。
泣いた後の顔だった。
木曜日。
あの声の持ち主に、今度は顔を見て、会う。
翌朝、春香は蒼太と美月にそれぞれ連絡した。
「木曜日に会えることになりました」という短いメッセージを送ると、蒼太からはすぐに「わかりました。車を出します」と返ってきた。
美月からは少し遅れて「了解です」とだけあった。
それだけのやり取りで、三人の間に、また確認のようなものが生まれた。
春香はメッセージを送り終えてから、スマホを置いて、昨夜の電話のことをもう一度思い返した。
「ずっと、待っていました」
野口はそう言った。
どんな気持ちで、どんな場所で、三十年間待っていたのだろう。
日本海側の小さな町で、誰にも言えないまま、誰かが来る日を待っていた。
窓の外に海が見えて、波が来て、戻って、また来て、それを繰り返す中で、電話が鳴るたびに少し息を止めたりしていたのだろうか。
その孤独の重さは、春香には想像しきれなかった。
加害者だ、と思う気持ちはある。
でも、「待っていた」という言葉の中に、罰でも贖罪でもない何かがあった。
ただ、知られたかった。
誰かに、自分が抱えてきたものを知られたかった。
その「知られたい」という気持ちが、三十年間の沈黙の底に、ずっとあったのだとしたら——。
春香は、それをどう受け取ればいいのか、まだわからなかった。
怒りなのか、憐れみなのか、理解なのか。
どれでもある気がして、どれでもない気もした。
木曜日になれば、わかるかもしれない。
あるいは、もっとわからなくなるかもしれない。
どちらであっても、行く。
春香はカーテンを開けた。
朝の光が、部屋の中に差し込んできた。
その夜、美月からメッセージが届いた。
「春香さん。電話、どうでしたか」
春香は少し考えてから、返した。
「声を聞いた瞬間に、わかりました。この人は知っている、って」
美月からの返信は、少し間があってから来た。
「……そういうことって、あるんですね」
春香は「あるんだと思います」と返した。
また少し間があって、美月から続きが来た。
「私も、一緒に行っていいですか」
「もちろんです」と春香は返した。
「三人で行きましょう」
「ありがとうございます」
その短い言葉が来て、春香はスマホを置いた。
美月が「ありがとうございます」と言う。
それが今でも少し意外だった。
最初に会ったころの美月は、こういう言葉をこういう場面で使う人間ではなかった。
何でも自分でやって、何でも自分で抱える人だと思っていた。
でも今、この短いやり取りの中に、美月の変化があった。
変化というより——少しずつ、素のものが表に出てきている、という感じだった。
春香はもう一度、窓の外を見た。
野口節子。
三十年間、海辺の町で待っていた人間。
その声は、穏やかで、重くて、「はい」という一言の中に三十年分が溶けていた。
木曜日まで、あと四日。
砂時計の砂は、まだ落ちている。
でも今、春香の足は、確かに前を向いていた。




